cubic in another

cubic in another

アニメの感想など しばらく休止します

Anime's Future: Naoya Ando – Sakuga Blog 日本語訳

誤訳を指摘していただけると助かります。

原文:

 


 

f:id:hitotosem:20180330132719j:plain

 

今回の記事で紹介するのは、短期間で成功を収めた人ではなく、何人かのベテランのもとで演出家としての腕を磨いてきた人です。本稿では、安藤尚也氏がどのようにライティングを駆使し、アニメーションにリアリティを与えているかだけでなく、子ども向けアニメでファンと批評家両方の目を引くためのクリエイターの苦闘についても簡潔に触れていきます。

 


f:id:hitotosem:20180330132412j:plain
  • 名前:安藤尚也
  • 職業:絵コンテ、演出、ライブパート演出、ハリネズミのパパ(hedgehog dad)
  • SNSTwitter

 Anime’s Futureで私たちが取り上げる人は、通常以下の二つのカテゴリーのどちらかに分類されます:一つは、疑う余地なく多大な努力をしていて、かつ短期間で業界やファンを席巻した人。二つ目は、長期間に渡って比較的表に出にくい仕事でスキルを磨き、徐々に人々を魅了するようになった人。言うなれば、この二つから選んでいたわけです。前者については、一度新しい才能が発見されると、皆が一斉に賛辞を送ります。嬉しいことに私たちはその先頭にいます。ですが、事件的なデビューがなくとも、注目されつつある人もいる——彼らに賛辞を送ることも、同様に大事なことです。そういう人は、大きなコミュニティの中で見落とされがちだからです。安藤尚也氏もそうです——彼は西洋のアニメファンには、基本的に知られていません。けれど、日本の子ども向けアニメのファンの間では、注目を集め、親しまれています。低年齢層向けの作品が批評の対象となりにくいことは、考えるべき普遍的な問題ですが、その話はまた別の機会にしましょう。今回は彼の演出的なアプローチに話を絞ることにします。

 安藤氏は、至極普通の形でデビューしました:23歳の時に制作進行としてサンライズに入社し、『ラブライブ!』1期の第2話ではじめてクレジットに名前が載ります。その後、松尾衡氏の元でペースを上げてキャリアを積んでいきます。松尾氏が監督を務めた『革命機ヴァルヴレイヴ』では、制作進行を務めながら絵コンテを描く機会をもらい、いくつかのシーンで演出を担当。最終回でも彼の指導のもと、絵コンテ・演出を担当します。*1 これは、私たちが今までに紹介したような記録を更新した若者と比べると、些か平凡な功績に見えるかも知れません。しかし、早くからこれほどの信用を得ることは、それ自体稀な、素晴らしい事績です。彼は『ヴァルヴレイヴ』の後、『ラブライブ』の2ndシーズンに戻り、また順調にキャリアを積んでいきます。ここで、京極尚彦監督が彼と安藤良氏を弟子として取ったことが、彼に取ってひとつの転機となります。*2 京極監督が絵コンテ・演出を担当した第9話に、彼は演出協力というクレジットで参加しています;現在『恋は雨上がりのように』の助監督として多くの人を魅了している河野亜矢子氏も、『ラブライブ』で育っています。また、昨年末に放送された『宝石の国』でも、並外れて有望なクリエイター(久野遥子氏)が育っています。こうしてみると、京極尚彦氏の才能を見抜く力と指導力には驚かされます。その後、安藤尚也氏は京極監督から学べる限りを学び、制作進行を卒業します。そして、独り立ちした演出家として『ラブライブ』に貢献するようになり、『ラブライブ! μ's Go→Go! LoveLive! 2015 〜Dream Sensation!〜』のアンコールアニメで、いきなり脚本・絵コンテ・演出までを一人で担当します。彼をより一層レベルアップさせたあの作品に出会うのは、まだもう少し先のことです。 

f:id:hitotosem:20180330180841j:plain

 2015年、『アイカツ!』にローテ演出として参加したことが、彼のキャリアに再び大きな変化をもたらします。これもまた事件的な出来事ではありませんが、確実に意義のあることです。『アイカツ』で、彼は自分のスタイルを確立していきます。『アイカツ』126話には、微細ながら彼のライティングを巧みに使った演出の素地を見ることができます。*3 彼はこうした演出スタイルをより発展させ、シーンの 雰囲気を決定づける方法として、巧みにライティングを使うようになります。簡潔なハイライトに対する特徴的なアプローチをみても、彼の撮影*4への指示がどれほど 精密かがわかります。彼は計らずも魅力的なカットをいくつか差し挟んでいますが、彼が見せたヴィジョンをまとまった演出として見れるようになるまでには、あいにく何本かのエピソードが必要でした。157話(「小悪魔ハプニング」)が、絵コンテ・演出両方を担当することに慣れるために必要な話数だったとすれば、169話(「ひなきミラクル!」)は彼の青写真を描いていた話数だといえるかもしれません。169話のフレーミングや、ステージとそこに立つキャラクター両方の輝きを際立たせるような人工光の使い方から、彼特有のセンスが伺えます。撮影工程まで演出意図を貫こうとする彼の姿勢がより強まっていることは、言うまでもありません。また、これは余談ですが、安藤氏が自分の力を磨くための場所としてどれほど『アイカツ』が相応しかったのかは、『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』を観ることでわかります。『GATE』で安藤氏は、彼の師である京極監督の助けとなるべく、いくつかのエピソードを担当しています。が、『GATE』での彼の仕事は非常に平然としたもので、到底同じ人が演出を担当したとは思えません——自分を表現するための最適なキャンバスを持つことの重要性が、『GATE』と『アイカツ』の比較からわかります。駆け出しのうちは、尚のこと重要なのです! と、このようなデコボコ道の上ではありましたが、彼のスキルが関係者から注目を集めたことは間違いありません。木村隆一監督が絵コンテを描いた『アイカツ』177話で彼が演出を担当していることからも、それは明らかです。177話は『あかりGeneration』で最も重要なエピソードだといっても過言ではないでしょう。また、これは物語の流れ上必然的にそうなることではありますが、照明がシーンを進める要素を担っているようなカットでは、注意深くディテールを描写しています。何の動作もなしに簡単にオンオフを切り替えられる便利な小道具として、照明が扱われていることはありません。強いパーソナリティを持った演出家は、驚くほど細かな点に執着することがあります。それが癖と結びついている時は特に!

f:id:hitotosem:20180331221715j:plain

アイカツ』が終わると『アイカツスターズ*5 が流れてくる。のみならず、安藤尚也氏も面目躍如たる活躍をみせます。早くも最初のOPから処理演出を担当し、佐藤照雄監督コンテの丁寧に組み立てられたシークエンスを、これまで培ったスキルでさらに良いものへと仕上げていきます。その上、いくつか新しい技も差し挟んでいます。彼の持つセンスが失われていないのはもちろんのこと、ここで新しい表現スタイルを獲得していることも重要です。アクティブなカメラワークと動きのあるライティングを掛け合わせていること、絵コンテに新たな要素が加わっていること、そして何より強調しておきたいのは、彼のフレーミングや場面設計の持ち味が、キャラクターワークの文脈において極めて重要な役割を持ちはじめているということです;アニメーションにみられる人の目を引く風変わりな画面には、それ自体に独立した固有の価値があるのだと思います。ですが、そういった画作りは説得力のある物語や作品を貫くテーマと結びついてこそ、より強い影響力を持つ。このことに異論を挟む人は多くはないでしょう。癖の強い演出家だった安藤氏は、キャラクターの一瞬一瞬を的確に表現するために、熟考を重ねて自分の個性を発揮するようになりました。この変化を思うと、アニメファンとして、あるいはアニメのクリエイターに興味がある人として、とても満たされる思いがします。視覚的な独創性が比較的少ない『ラブライブサンシャイン』のようなシリーズに戻った後も、彼の個性は光っていますが、上に述べたような成長を踏まえると、これも納得がいきます。終盤のエピソードのひとつ*6で、 しっかりと 足跡を刻んでいます。

 特徴や癖だけで簡単にクリエイターを定義づけてはいけないと、私たちはいつも訴えてきたので、この件に関する安藤氏の進化には、非常に興味深いものを感じます。彼が美しいイメージを使うところから、個々のシーンをより良くするためにそれを使うところへと上がったのだとすれば、次のステップはハイライトではない標準的なエピソードの全体を作り上げることになるはずです。『アイカツスターズ』の2ndシーズンには、彼のそうした経験が詰まっています。彼は2ndシーズンの一番はじめのエピソードで、堂々とその手腕を振るっています。エルザ・フォルテとヴィーナスアークの紹介を通じて、彼の画面全体に対する熱量は最高点に達します。この新しいライバルと新しい学校の圧倒的な 存在感はこのエピソードを貫くテーマでしたが、もし安藤氏による力強い ヴィジョンがなかったら、単なる物語の構成要素のひとつに留まっていたかもしれません。このヴィジョンは、シーズン中の極めて重要ないくつかのエピソードに続いていきます;無敵とも みえるエルザにローラが挑む86話「涙の数だけ」もそうですし(偶然にも、ローラとエルザは彼のお気に入りのキャラクターです)我らが主人公の手によるエルザの避けがたい 敗北や、それに続くシーンもそうです。彼が武器庫に収めた技術は全て、感情の爆薬が詰め込まれたクライマックスのキーになっています。シリーズ全体に渡る物語の糸の締め括り(96話)は、作品の裏にあるクリエイティビティのひとつの到達点にも見えました。そういうエピソードは、自分のはじめたことに対して回収する責任を感じている彼にとってうってつけです。そうした面がなくとも、彼の担当したエピソードが強い 印象を残していることに変わりはないでしょうが、ひとつの作品にこれほどまでに魂を込めた人の仕事は、より実直なものに感じられ、聴衆のエモーショナルな反応を喚起することにもなるのでしょう。この人の心に響かせる力がやがて注目されるようになり、昨年の末にはメンソレータムのショートアニメ*7 という、かなり変わった形でその手腕を発揮することとなりました。この2分のフィルムは、完璧に観客の心を掴み、想いを響かせることに成功しています。画面上のものを生きていると感じさせるような彼のライティングは、ちょっとした好奇心からはじまったのかもしれません。ですが、今では映像にリアリティをもたせるための多くの手段うちのひとつになっています——これはもちろん、リアリズムに即した表現をしているという意味ではありません。視聴者の心と繋がっている、触れられるという意味です。もしあなたがまだ彼の作品を経験していないなら、このショートフィルムを観てください。彼が注目されている理由が、2分の映像に詰まっています。

f:id:hitotosem:20180407155929j:plain

 実のところ、彼が足跡を残したシリーズは、『アイカツ』だけではありません。少し時計のネジを戻しましょう。『プリパラ』での様々なパフォーマンスにも、彼の卓越した仕事ぶりを見ることができます。こうしてみると、彼が女児アニメを愛好しているように見えますが——実際間違いなくそうなのですが——『プリパラ』の祖である『プリティーリズム』シリーズで3シリーズに渡って京極尚彦氏がプリズムショー演出を担当していた*8 ことを考えると、『プリパラ』への安藤氏の貢献は、より感動的な様相を呈するようになります。『アイカツ』の時と同じように、『プリパラ』でも彼はメインスタッフとして仕事をはじめたのではありません:最初に担当したのは79話のめが姉ぇのライブ演出で、それからシリーズ終盤にかけて、コンスタントに「プリパラライブ演出」を担当するようになります——もちろん、京極尚彦氏が絵コンテ・演出を担当した102話(「変幻自在!ジュエルチェンジぽよ♡」)も含みます。そして、やはり『アイカツ』シリーズの時と同じように、『アイドルタイムプリパラ』の開始に合わせて彼はメインスタッフに抜擢されます。こうして、師の足跡を追って歩んできた道筋が、確かな成功へと変わるのです。これは、クリエイターとしての彼のアプローチとは、あまり関連性のないことかもしれません。でも、やっぱり無視できない、心のあたたまるエピソードです。

 子ども向けのアニメで育ったクリエイターが安藤氏だけではないということも、記しておかねばなりません。特に東映アニメーションの低年齢向け作品は、特異な才能を持った演出家を何十年にもわたって育ててきました。そこで彼女ら彼らは、自分の制限や欠点を強みへと変えてきました。ここには言うまでもなく、山内重保氏や『セーラームーン』の奇跡的な制作チームも含まれます。最近では、私が個人的に注目している松本理恵氏も東映で育っています。彼女の『プリキュア』シリーズへの貢献は、著しく見落とされています。『京騒戯画』の監督として注目されるようになった際、彼女が何もないところからいきなり現れたように思ってしまった人も多いのでしょう。これはもちろん、アニメファンを辱めて子ども向けのアニメを観るように促そうとか、そういう意図で言っているわけではありません(とはいえ、純粋に楽しい作品は一度観てみるべきだと主張する用意はいつでもあるのですが)。ただ、少なくとも批評や分析においては、これらのタイトルは見落とされるべきではありません。当分の間、安藤氏は『アイカツフレンズ!』で仕事を続けるでしょう。ですが、最終的に彼が自分自身の作品を監督するようになり、より広く注目されるようになったとして、その時にこれまでの彼の仕事を全て無視するようなことがあっては、あまりに不誠実です。そういう意味で、皆が『アイカツ』を観るべきなのです。絶対に後悔はしません。そうです。求めていたものはすぐそこにあったのです。

 


〈訳者註〉

*1:安藤さんは『革命機ヴァルヴレイヴ』の6話 11話 13話 19話で制作進行、13話 17話 19話で絵コンテ、最終話で絵コンテ・演出を担当。絵コンテ・演出はいずれも松尾衡さんと連名。

*2:安藤良さんは『亜人ちゃんは語りたい』の監督としても有名。最近の仕事だと、『恋は雨上がりのように』4話の演出も素晴らしい。ついでながら、『亜人ちゃん』2話では安藤良さんと安藤尚也さんが連名でコンテを描いていたりもする。さらにいうと、4月にはじまった『アイカツフレンズ!』のOP絵コンテ・演出を安藤尚也さんが、『キラッとプリ☆チャン』のOP絵コンテ・演出を安藤良さんが担当している。兄弟みたい。

*3:アイカツ!』第126話「ぽっかぽか♪オフタイム」は佐山聖子さんが絵コンテ、安藤尚也さんが演出を担当。

*4:原文に註が付いていたので一応。
撮影:デジタル化が進んだ現在においては、ソフトウェア上で背景やキャラクターの素材を合成し、さまざまな撮影効果を加えて、ムービーデータに変換するセクション。 デジタルに移行する前は、背景が描かれた紙の上にセルを重ねて実際にカメラで撮影をしていた『SHIROBAKO』用語集より)

*5:英語圏ではAistarsと略すらしい。

*6:ラブライブ!サンシャイン!!』1期11話「友情ヨーソロー」で、安藤尚也さんは処理演出を担当。絵コンテは渡邊哲哉さん。ライブパートの絵コンテは酒井和男監督。

*7:『大切な家族を包む、その手。』
安藤さんの初監督作品(ご本人は名義上監督なだけとおっしゃっていますが)で、ロート製薬により、2017年の勤労感謝の日(いいふみの日でもある)に合わせて公開された。『「ママへ、いつもありがとう。」子供がくれた、ありがとうの手紙写真投稿キャンペーン』と題されたキャンペーンも同時に展開された。脚註に私情を書き連ねるのもどうかと思いますが、めっちゃ泣けます。大好きな作品です。
リンク:「ママへ、いつもありがとう。」子どもがくれた、ありがとうの手紙 写真投稿キャンペーン | ロート製薬: 商品情報サイト

*8:京極尚彦さんは、『オーロラドリーム』ではプリズムショーディレクター(40話からは副監督)、『ディアマイフューチャー』と『レインボーライブ』ではプリズムショー演出という役職を担当している。

よりもい青春論

『よりもい』が終わってしまいました。何の誇張もなしに、歴史に残る名作だと思います。最終回の感動が冷めないうちに、思いの丈を書き綴っておきます。

 


小黒 被写界深度の話に戻りますが、被写界深度の浅い画と、パンフォーカスで手前から奥までよく見える画では、表現できる事が違うはずですよね。「青春ものをリアルにやる」という作風には、今回の画作りが向いていた気がします。
山田 そうですね。青春の、視野の狭さと。余裕のない瞳孔の開いた感じと。
石原 「そこしか見ていない時の感じ」ですね。被写体を画面から浮き立たせたい場合に、被写界深度を狭めてそこだけ映す。ただ今回はキャラクターが多かったので、ひとフレームに収めなければならないシーン等では必然的にパンフォーカスになる事もありました。

「真っ向勝負で作った「青春アニメ」」『アニメスタイル007』より

 と言いつついきなり他作品の話で恐縮ですが、上に引いた『響け!ユーフォニアム』のインタビューで小黒さんが指摘しているように、「青春もの」には被写界深度の浅い画作りが向いています。『よりもい』でもそういう画面は多用されています。特に第1話・第2話はその傾向が顕著で、極端なまでに背景をぼかしたカットが散見されます。

f:id:hitotosem:20180328051024j:plain

© YORIMOI PARTNERS

 ところが、こういう「そこしか見ていない時の感じ」の画作りは、物語が進むに連れ、徐々に鳴りを潜めるようになります。同じいしづかあつこ絵コンテ・演出の1話と13話を比べると、その差がはっきりとわかります。カットの繋ぎ方も、1話や2話はテンポ良くバシバシ繋いでいくのに対し、13話は現実に寄り添う形でゆっくりと紡がれています。日本編(〜5話)、航海編(〜9話)、南極編(10話〜)と、便宜的に分けて考えてみても、徐々に現実に寄った画作り・三人称的な画作りへとシフトしていることがわかると思います。

f:id:hitotosem:20180328051531j:plain

2話、テンポの良さも相俟って、走るシーンのエネルギーとエモさがすごい。ロングでさえ背景がぼかされていて、すごく青春っぽい。

© YORIMOI PARTNERS

  つまり『よりもい』は、徐々にテンポが遅くなっていき、徐々に現実的になっていくわけです。これはもちろん悪い意味ではありません。冒頭で女子高生ならではの無敵感を演出し、そこから徐々に現実的な画作りにシフトしていくのは、話の筋を考えれば当然のことです。そして、この「徐々に現実に寄っていく画作り」こそまさに青春だと思う、というのが本稿の筋です。 *1

f:id:hitotosem:20180328052127j:plain

6話。「私たちが見たことないところでも、知らない場所でも、いっぱいの人がいっぱいの生活してる。毎日毎日途切れることなく。それってすごい!」

© YORIMOI PARTNERS

 

 坂口安吾は『青春論』のなかで、青春とは淪落であり、「現実の中に奇蹟を追うこと」だと言っています。 

 人は芸術が魔法だと云うかも知れぬが、僕には少し異論がある。対坐したのでは猥褻見るに堪えがたくて擲[なぐ]りたくなるような若者がサーカスのブランコの上へあがると神々しいまでに必死の気魄で人を打ち、全然別人の奇蹟を行ってしまう。これは魔法的な現実であり奇蹟であるが、しかもこの奇蹟は我々の現実や生活が常にこの奇蹟と共に在る極めて普通の自然であって、決して超現実的なものではない。レビュー*2 の舞台で柔弱低脳の男を見せつけられては降参するが、モリカワシン*3 の堂々たる男の貫禄とそれをとりまいて頼りきった女達の遊楽の舞台を見ると、女達の踊りがどんなに下手でも又不美人でも一向に差支えぬ。甘美な遊楽が我々を愉しくさせてくれるのである。これも一つの奇蹟だけれども、常に現実と直接不離の場所にある奇蹟で、芸術の奇蹟ではなく、現実の奇蹟であり、肉体の奇蹟なのである。酒も亦、僕にはひとつの奇蹟である。


 我が青春は淪落だ、と僕は言った。然して、淪落とは、右のごときものである。即ち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、然らずんば——鳴呼、然し、破滅以外の何物が有り得るか! 何物が有り得ても、恐らく満ち足りることが有り得ないのだ。

坂口安吾『青春論』

 キマリの言う「ここではないどこか」も、まさに「現実と直接不離の場所にある奇蹟」です。それは「現実の奇蹟」であり「肉体の奇蹟」です。そして、そういう「自分以上の奇蹟」を追うことこそ、「青春」なのでしょう。

 死ぬることは簡単だが、生きることは難事業である。僕のような空虚な生活を送り、一時間一時間に実のない生活を送っていても、この感慨は痛烈に身にさしせまって感じられる。こんなに空虚な実のない生活をしていながら、それでいて生きているのが精一杯で、祈りもしたい、酔いもしたい、忘れもしたい、叫びもしたい、走りもしたい。僕には余裕がないのである。生きることが、ただ、全部なのだ。

 そういう僕にとっては、青春ということは、要するに、生きることのシノニイム*4で、年齢もなければ、又、終りというものもなさそうである。

 僕が小説を書くのも、又、何か自分以上の奇蹟を行わずにはいられなくなるためで、全くそれ以外には大した動機がないのである。人に笑われるかも知れないけれども、実際その通りなのだから仕方がない。いわば、僕の小説それ自身、僕の淪落のシムボルで、僕は自分の現実をそのまま奇蹟に合一せしめるということを、唯一の情熱とする以外に外の生き方を知らなくなってしまったのだ。

 これは甚だ自信たっぷりのようでいて、実は之ぐらい自信の欠けた生き方もなかろう。常に奇蹟を追いもとめるということは、気がつくたびに落胆するということの裏と表で、自分の実際の力量をハッキリ知るということぐらい悲しむべきことはないのだ。

 だが然し、持って生れた力量というものは、今更悔いても及ぶ筈のものではないから、僕に許された道というのは、とにかく前進するだけだ。

坂口安吾『青春論』

 

「ここではないどこか」へ行きたいと、「現実と直接不離の場所にある奇蹟」を夢見てしまう。その気持ちがやがて淀みとなり、決壊し、解放され、走り出す。淀みの中で蓄えた力が爆発して、全てが動き出す。ここで原動力になるのは、単なる思い込みです。視野の狭い女子高生の、「本当に南極行けちゃうんじゃないの?」という、根拠に乏しい思い込みです。でも、その思い込みがあるから前に進んでいける。「青春」できる。これはもちろん、10代の特権ではありません。

f:id:hitotosem:20180328052416j:plain

「結局、人なんて思い込みでしか行動できない。けど、思い込みだけが現実の理不尽を突破し、不可能を可能にし、自分を前に進める。私はそう思っている」

「人に委ねるなってことですか?」

「そう。けど、ずっとそうしてきたんじゃないの、あなたは?」 

STAGE12「宇宙よりも遠い場所

「思い込みだけが現実の理不尽を突破し、不可能を可能にし、自分を前に進める」。観測隊の彼女ら彼らにとっても、青春は「生きることのシノニイム」なのでしょう。だからまた旅に出て、新しい何かを見つけ、また何かを「思い込」んでは現実に奇蹟を追う。「青春」の世界では、常に奇蹟が現実と共にある。だから何度も、何度も旅に出る。『よりもい』は、忘れていたそんな「思い込み」を、いつでも取り戻させてくれます。

それでは。Best wishes for your life's journey!

それを知るためにも、足を動かそう。知らない景色が見えるまで、足を動かし続けよう。

どこまでいっても世界は広くて、新しい何かは必ず見つかるから。

ちょっぴり怖いけど、きっとできる。

だって、

同じ想いの人は、すぐ気づいてくれるから。

STAGE13「きっとまた旅に出る」

f:id:hitotosem:20180328052606j:plain

 

 


*1:図解

f:id:hitotosem:20180328134405j:plain

*2:歌・踊り・寸劇などを組み合わせた華麗な舞台ショー。

*3:森川信

*4:同意語、類義語

前に進むための場所:『宇宙よりも遠い場所』第11話

宇宙よりも遠い場所 STAGE11 ドラム缶でぶっ飛ばせ! 

[脚本:花田十輝/絵コンテ:佐山聖子/演出:大庭秀昭/作画監督:小山知洋]

 


f:id:hitotosem:20180319011156g:plain

© YORIMOI PARTNERS

 帽子で顔を隠しながら、無理矢理笑って感情を見せまいとする。三宅日向というキャラクターを顕著に表した、とても丁寧な芝居です。誰も見ていないところでの「ざけんな」との対比も鮮やかで、クライマックスの必死で隠している感情が滲み出てしまった表情(「小っちゃいな私も」)も活きてくる。「伝わる絵」とはこういうもののことを言うのでしょう。

f:id:hitotosem:20180319012124j:plain

© YORIMOI PARTNERS

「一見社交的に見えて、実は感情表現が苦手」なのが日向だとすれば、「一見社交性ゼロに見えるけど、言いたいことは全部言う」のが報瀬です。だからこそ「手だけでいい」のかもしれません。報瀬の言葉はあまりに真っ直ぐすぎて、受け止めきれないから。そんな風に向き合えないから。

 けれど、日向の痛みは、他ならぬ「手」によって報瀬の額に残ることになります。おどけて見せても、やっぱり痛みは伝わってしまうわけです。報瀬が汲んだ「ある意味世界で一番綺麗な水」を日向が運ぶという図式も非常に示唆的で、この一連のシーンだけで、2人の間にある感情の流れが見事に描き出されています。

f:id:hitotosem:20180319024356j:plain

© YORIMOI PARTNERS

 

 そして、2人に取っての「宇宙よりも遠い場所」の意味するところが、ここにきて重なることになります。9話で報瀬はこう言っていました。

帰ってくるのを待っていた毎日とずっと一緒で、何も変わらない。毎日毎日思うんです。まるで帰ってくるのを待っているみたいだって。変えるには行くしかないんです。お母さんがいる、「宇宙よりも遠い場所」に。

STAGE09 南極恋物語(ブリザード編)

 この通り、報瀬にとっての南極は「変える」ための場所であり、前に進むための場所です。反対に、日向にとっての南極は、言ってしまえば「逃げる」ための場所でした。

私がさ、何で南極来たと思う? 何にもないからだ!

何のしがらみもない人と、何にもないところに行きたかったんだよ。

見ろよすごいじゃん! 氷河! 地層! 雪解け水!

どれも見たことない色、見たことない形。私たちが知ってるものは何もない。今までと全然違う別の世界がここにあるんだぞ。それを楽しむために来たんだ!

なのにこれじゃ意味ないだろ?

STAGE11 ドラム缶でぶっ飛ばせ!

 でも、報瀬は逃げることの不可能性を、誰よりよく知っています。「なかったことにする」なんて無理なんだとわかっているからこそ、「宇宙よりも遠い場所」に来たわけです。「変えるには行くしかない」わけです。だから南極は「何もないところ」ではない。逃げるための場所でもない。そうです。

意味なくなんてない。意味なくなんてないから!

宇宙よりも遠い場所」は前に進むための場所なのだから、過去に追い立てられ悩まされることも無意味ではない。こうして、2人に取っての「宇宙よりも遠い場所」が重なります。「友達」と歩いてきた道は、決して後ろ向きではなかったのだと、日向は「友達」によって気づかされます。

日向は、もうとっくに前を向いて、もうとっくに歩き出しているから!

私たちと一緒に踏み出しているから!


私は日向と違って性格悪いからはっきり言う。あなたたちはそのままもやもやした気持ちを引きずって生きていきなよ!人を傷つけて苦しめたんだよ。そのくらい抱えて生きていきなよ!

それが人を傷つけた代償だよ!

私の友達を傷つけた代償だよ!

 

 そんな彼女たちが流す涙は、本当に、本当に美しいです。

f:id:hitotosem:20180319025152j:plain

© YORIMOI PARTNERS

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第8話の画作りと「リアリティ」

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第8話

[脚本:吉田玲子/絵コンテ・演出:澤真平(シリーズ演出:藤田春香)/作画監督:岡村公平]

 


f:id:hitotosem:20180307232715j:plain

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

 言葉にならないから目で語る。まだ言葉を知らないから目で語る。とにかく目、目で語るのが『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第8話でした。瞳の奥に一瞬だけ立ち現れる感情が、これ以上ないほど情動的に描かれている。「人の手で描く」ことの際限のない表現可能性には、ただただ驚かされるばかりです。

 そんな『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第8話では、あらゆるものがキャラクターの視線を通した形で画面に表れていました。絵コンテ・演出を担当した澤真平さん自身も、“そんな二人の心の交流を、互いの視線に込めて演出させていただきました”* と言っています。これは、石立太一監督の“「彼女の見た世界」ではなく「世界を見た彼女」を描く。その客観的視点こそがこの作品に相応しいのではないか”* という考えとは、ある種対極ともいえる画面の作り方で、「彼女の見た世界」そのもののような、手ブレ効果を加えた主観カットも多用されています。ヴァイオレットの回想に基づくシーンが大半を占めるからこそ、敢えてこういう画作りで臨んだのかもしれません。

 レイアウトの取り方も、「視線」に寄り添ったものになっていました。目だけ、口だけ、足だけ——私たちが普段見ている範囲は案外せまいのだなと気付かされるような画面設計になっています。*1

f:id:hitotosem:20180308010830j:plain

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

 このように、画面自体を人の視線に寄せ、見える範囲を限定することによってリアリティを出すような手法は、同じ京都アニメーション制作の『響け!ユーフォニアム』で積極的に取り入れられていました。石原立也さんと山田尚子さんが、『アニメスタイル007』で非常に興味深い話をされています。

小黒 『響け!ユーフォニアム』は特殊な画作りをしていましたよね。「レンズを意識した画面づくり」を基本にしていて、さらに言うと「被写界深度の浅い世界」になっていた。
 レンズについては、おそらく最新のいいカメラではなくて、ちょっと昔のカメラで撮ったような、味わい深いカットがもの凄く多い。作り込みも徹底していて「ああ、TVアニメでここまでできるんだなあ」と思いました。ああいった画作りでいく事になったのはどうしてなんですか。

石原 そうですね。まあ、うちの作品では前から多少はやっていた事ではあるんですが。そもそも、今の皆さんが普通に使っているデジカメとか、TVで見る映像とかって綺麗すぎるんです。少なくとも僕は綺麗すぎると思っていて、これはもう逆に「リアルではない」んじゃないかと。日常生活で人間の見ている世界以上に、高画質になっちゃってると思うんですよ。

小黒 つまり、クリアすぎるって事ですか?

石原 そう。クリアすぎると思いますね。なのでむしろ、人間が見ているそのままの印象とか、記憶にある景色とか、そういうものに即した画面にしたい。それを実現しようとすると、画面の周囲がボケたりとか、古いレンズで撮ったような画面になる。そっちの方がリアルだと思うんですよね。

〔中略〕

石原 あと、年を取ると目玉の水晶体が濁ってくるんで、見てるものの彩度とかが若干変わってくるらしいですね。
山田 黒とか全然違うと聞いた事があります。
石原 だからほら、年を取ると派手な服を着たがるのはどうもそういう事じゃないかっていう説があるみたい。
山田 なるほど。
小黒 被写界深度の話に戻りますが、被写界深度の浅い画と、パンフォーカスで手前から奥までよく見える画では、表現できる事が違うはずですよね。「青春ものをリアルにやる」という作風には、今回の画作りが向いていた気がします。
山田 そうですね。青春の、視野の狭さと。余裕のない瞳孔の開いた感じと。
石原 「そこしか見ていない時の感じ」ですね。被写体を画面から浮き立たせたい場合に、被写界深度を狭めてそこだけ映す。ただ今回はキャラクターが多かったので、ひとフレームに収めなければならないシーン等では必然的にパンフォーカスになる事もありました。

「真っ向勝負で作った「青春アニメ」」『アニメスタイル007』より

『ヴァイオレット』8話の被写界深度の浅さも、この「そこしか見ていない時の感じ」を狙っての撮影処理だと思われます。Bパート序盤のシーンが最も顕著です。

f:id:hitotosem:20180308011001j:plain

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

 ここでは、「彼女の見た世界」だけではなく、「ギルベルトの見た世界」——言い換えれば、「ギルベルトの見たヴァイオレット」も描かれています。光の中に浮かび上がるヴァイオレットは、人の目を通して見ているからこそ、何よりも美しく浮かび上がって見える。この美しさは、アニメーションという「人の目を通して見たものを人の手で描く表現」自体の美しさとも通じているように思います。

f:id:hitotosem:20180308010653j:plain

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

 また、先ほど引用したインタビューで、「年を取ると見てるものの彩度が変わる」という話が出てきましたが、心情によっても彩度は変わって見えるのでしょう。『ヴァイオレット』8話Aパートでは、彩度の対比を使ったある種容赦のない表現がありました。

f:id:hitotosem:20180308011304j:plain

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

 この彩度の対比だけでも十分見事ですが、何より素晴らしいのは紅葉を背景にした以下のシーンです。この時のヴァイオレットにはきっと、ギルベルトしか見えていない。でもギルベルトのいる世界は、何より色鮮やかに美しく見える。だから背景に紅葉を敷き、思いっきり被写界深度を浅くする。「見えていない」部分を鮮やかに染める。全くもって非の打ち所のない、「リアリティ」そのもののようなフィルムになっています。

f:id:hitotosem:20180308012104g:plain

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

「見ている」ヴァイオレットを強調するようにカメラが寄る。

 そして、ギルベルトのいなくなった世界からは、色そのものがなくなってしまう。無色無光の「黒」が画面を覆い尽くし、強制的にAパートを終わらせる。完璧です。もう一度言います。完璧です。*2

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会

 

 というところで、さらに驚かされるのがアバンの1カット目。このエピソードは〈色のない世界で起き上がると、色のある方向にギルベルトがいる〉という内容のカットではじまっています。もう一度だけ言います。完璧です。

f:id:hitotosem:20180308014453g:plain

©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会 

 

 

 


*1:こういう映さないレイアウトも非常に巧い。

f:id:hitotosem:20180308015412j:plain

 

*2:強制的にEDに入るようなBパートの終わり方も完璧です。

共鳴する恋心:『宇宙よりも遠い場所』第9話

宇宙よりも遠い場所 STAGE09 南極恋物語(ブリザード編)

[脚本:花田十輝/絵コンテ:清水健一/演出:Kang Tai-sik/作画監督:Jang Gil-yong]

 


宇宙よりも遠い場所』の構成力のすさまじさには、やはり目を見張るものがあります。異なる時間に起こった出来事をパラレルに繋いでいく技法自体は、今や特段めずらしいものでもありませんが、それにしたって30分でこれだけのことが表現できてしまうとは。この映像的な語り口の巧みさには、ただただ圧倒されるばかりです。 

f:id:hitotosem:20180301161021j:plain

©YORIMOI PARTNERS

(ペンギンや縄跳びはもちろんのこと、ここにきてベッドに描かれた星が「物理的に現在と過去を繋ぐもの」として置かれているところが良い)

 一つ例を出すと、例えば氷を砕くあの力強いシーン。このシークエンスは、〈第二次世界大戦後の話を語る過去の吟〉と〈同じ話をする今のかなえ〉を交互に繋ぎ、最後に〈自宅にいる過去の貴子〉が「いったれー!」と叫ぶカットが挿まれて、氷が割れるという構成になっています。ここではもはや「過去」も「現在」も「歴史」も、問題ですらありません。時間を超えた圧倒的な想いの集積(=モンタージュ)が、今まさに氷を砕くのです。 

 ここで忘れてはいけないのは、これが「恋物語」であるということです。ここでいう「恋」とは、もちろん「恋愛」という意味に留まるものではありません。藤堂吟はこう言っています。

雲ってすごいよね。掴めないのに、上見るといつもそこにある。

 思えばこのフィルムには、「いつもそこにあるのに掴めないもの」へと必死で手を伸ばそうとする、そんな人たちの想いが溢れていました。もちろん、吟隊長に恋をした財前敏夫もそうですし、それぞれの理由で「宇宙よりも遠い場所」を目指すキマリたち4人もそうです。小淵沢貴子も、もっと昔に南極を目指した人たちも、皆「掴めない」ものを掴もうと必死で手を伸ばし、「恋」をしてきました。そして、時間を飛び越えて入り乱れるその想いの集積が、あの氷を砕く。多くの人が涙したあの「ざまあみろ」も、そんな「宇宙よりも遠い場所*1 を目指してきた全ての人の想いを代弁していたからこそ、胸に響くセリフになったのだと思うのです。

f:id:hitotosem:20180301161236j:plain

©YORIMOI PARTNERS

 

 この入り乱れる「恋心」の共鳴をもう少しせまい範囲で視覚的に形にしているのが、報瀬の二重跳びです。ここには「魂」のレベルでの共鳴が、一定の時間性の中で見事に描き出されています。

f:id:hitotosem:20180301164049j:plain©YORIMOI PARTNERS

(左)

「貴子、わざと私とあの子2人にしようとしてるでしょ?」

「してるよ〜。だってあの子には吟ちゃんの魂が必要だから」

(右)

練習する報瀬を見守る貴子。重ねられるセリフは吟の「何度も、何度も」。

 と、ここで思い当たるわけです。1話からずっと続いていたあの無敵感——4人のパーソナリティが合わさってどんどん前へと進んでいくあの驚異的な推進力は、この「魂」のレベルでの共鳴がフィルムに現れた結果だったのかもしれない、と。ここには、全くもって一方向的ではないエネルギーが一点へと向かっていくような、そんな映像世界があります。そういう流れが基底にあるからこそ、『よりもい』はこんなにも力強く、軽快に歩みを進めていくことができるのだと思うのです。

f:id:hitotosem:20180301161635j:plain

©YORIMOI PARTNERS

 


*1:ここでいう「宇宙よりも遠い場所」は、もはや「南極」という意味ではありません。無理だと言われ、馬鹿にされ、蔑まれ、それでも一歩一歩前へと進んだ者だけが踏むことを許される、そういう場所のことです。