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アニメの感想など

『秘密の空をめぐって』委託販売のご案内

「芸能人はカードが命!」第14回で頒布したアイカツ考察本『秘密の空をめぐって』の委託販売を、BOOTHにて行っています。A5版、70ページ。価格は本体価格(500円)と送料(180円)を合わせて680円になります。よろしくお願いします。

『ダーリン・イン・ザ・フランキス』のシネスコ演出が好きという話

ダリフラ』でシネスコ演出が使われているシーンが今のところ(第5話まで)全てヒロとゼロツーのシーン*1 であることに、何か特別な意味があるのかはわかりませんが、シネスコサイズで切り取られた2人の姿はいつもどこか情動的で、興奮と哀愁の入り混じったような独特の感情を喚起します。そこにあるのはある種の「快楽」であるといってもいいかもしれません。

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©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会

第1話「独りとヒトリ」

 回想でもないのに急に画面サイズが変わると、基本的にその映像は「映画っぽく」なります。これはシネスコだからという意味ではなく、急に画面のサイズが変わると、それまで「フィクションの中での本当の出来事」として受け取っていたものが、突として映画っぽく(フィクションっぽく)なる。なんとなく後ろで映写機が回っているような感覚になる。恐らくここが『ダリフラ』におけるシネスコ演出の肝なのだと思います。

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©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会

「ねぇダーリン、逃げちゃおっか、ボクと一緒に。ボクならダーリンを連れ出してあげられる」

第3話「戦う人形」

 設定に謎が多く、既に考察班もちらほら現れはじめている『ダリフラ』では、私たちにとって世界観や設定が謎であるのと同じように、作中に登場するコドモたちにとっても、多くのことが謎に包まれています。そんな世界で、ヒロとゼロツーの出会いはどれほど特別なことなのか。ゼロツーやストレリチアは、どれくらい特異な存在なのか。全くわからない。けれど、ヒロとゼロツーの出会いは「物語」になる。この謎だらけの世界で、彼らは「主人公」になれる。この感覚は、端から彼らを「主人公」としてみている私たちに無条件に与えられている感覚であると同時に、ヒロ自身の胸の内にある感覚でもあるのだと思うのです。

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©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会

第4話「フラップ・フラップ」

 だからこそ、「落ちこぼれ」を「特別」に変えたボーイ・ミーツ・ガールを、外から映像を眺めているかのように切り取ってみせる。誰よりも特別な「主人公」であるかのように、作中世界から一歩引いてみせる。このいかにも思春期的なポエミーな感覚は、突き詰めると危険なものでもあるのかもしれませんが、映像としてはやはり「快楽」じみたものを内包しているように感じます。何と言っても、ここでは閉塞感と解放感が互いに矛盾しない。だから謎の多い設定と、上下を削ったシネスコサイズが生きてくる。

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©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会

第4話「フラップ・フラップ」

 放送直前特番で錦織監督が「ガチガチのロボットものよりは、もう少しセカイ系に振った」と言っていましたが、その配分が上手いのでしょうね。アニメのためのアニメという感じがして、好き嫌いは分かれるのかもしれませんが、たまにはこういうのもいいなあと思います。このある種発作的な揺動が、今後いかに描き込まれていくのか、どう転ぶかわからないところもあり、非常に楽しみです。

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©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会

第5話「キミの棘、ボクのしるし」 

*1:第1話のアバンについては確定できませんが。

秘密の空をめぐって

あの日ちいさな一歩で 世界が生まれ変わったの

また かなえていくチカラ 信じられるよ

ありがとう

『AIKATSU GENERATION』

 前回の芸カ(芸カ14)で出した同人誌*に、『秘密の空をめぐって』と題されたものを書きました。それがどうにも気恥ずかしい文面で、ネットに公開することは一生ないだろうと思っていたものなのですが、こだまさおり作詞/石濱翔作曲の『AIKATSU GENERATION』のMVを観て、やはり公開した方がいいのではないかと思うようになりました。恐らく、『アイカツ』は「あかりGeneration」を超えて「AIKATSU GENERATION」——「わたし達のジェネレイション」へ進むのだと思います。

 そんなわけで、その時影響を受けたものを無理矢理詰め込んだようなちぐはぐなものですし、読み返してみると本当に下手な文章ですが、もしよろしければ。

 


(文章中は敬称略とさせていただきました)

 

秘密の空をめぐって

 まずはじめに、私は「主題」や「作者が作品を通して伝えたかったこと」などを通して作品全体を俯瞰することは、あまりよくないことだと思っています。大切なことは、むしろ要約できない細部や、視聴者(読者)それぞれの受け取った感覚の方にあります。けれど、『アイカツ』が「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」を目指して作られたという事実も、やはり無視はできません。スタッフの思いを代弁しているように感じられる表現は、作品の随所に見られます。

美月 「私ね、スターライトの外からアイカツを見てみたいと思ったの。離れてみて、改めてよくわかった。やっぱりアイカツには、人を元気にする力がある。それで気づいたの。私にはやれることがいっぱいある。使命って言ってもいいかもしれない」

いちご「使命…」

美月 「うん。私、日本中を元気にしたい。今この瞬間もいろいろなところで、大変な思いをしている人たちがいる。そういう人たちに、少しでも元気をあげたい。それが、私の使命」

第91話「結成☆アイカツ8」 

僕は、魂を焦がしている人々はもちろん、凍えてしまった心にもきっと灯っている炎の種を、再び激しく燃え上がらせるような、そんな熱いドレスが作りたかった。僕は確かに見た。花屋では買うことのできない薔薇、本物のサングリアロッサを。

第110話「情熱のサングリアロッサ」

憧れの世界はきっと、たった一歩足を踏み出した先に広がっている。その一歩を踏み出す勇気を、背中を押してあげられるアイドルって、すごいな。私はアイドルになってよかった。

第119話「ナデシコの舞い!」 

見に来てくださった方が、素敵な明日を向かえられるようなステージにしたいって、自分でそう言っちゃってから、どうすればいいんだろうって、考えました。よくあるんです。言っちゃってから考えること。 私が素敵な今日を送れるのは、私にとって大事なみんなのおかげです。来てくださったみんな。スターライトのみんな。そして、私をアイドルにしてくれた、大切な先輩のおかげです。アイドルの笑顔で、おなかはいっぱいにはならないけど、今日のステージで、心の中が少しあったかくなって、みんなの今日が、明日が、少しでも素敵になったらいいな。そう信じて歌います。

『劇場版 アイカツ!』(大スター宮いちごまつり)

 特に91話の美月の発言と、劇場版第1作でのいちごのMCには、『アイカツ』のテーマともいえるようなものが、顕著に表れているように思います。後者は木村隆一がプロットを作り、それを加藤陽一が脚本に落とし込んだものですから、そういう意味でも『アイカツ』のテーマだといえるのかもしれません。

加藤 僕が総監督からメモを受け取った時には、織姫のオーダーでいちごが

まつりをやることになって、新曲を作って、美月を越えるという内容でした。「輝きのエチュード」を本番でいちごが歌う前に話すMCのプロトタイプみたいなものもあって、ほとんど全部脚本に落とし込みました。

木村 足りない部分は、加藤さんがいっぱい膨らませてくれたけどね(笑)。

加藤 実は総監督からプロットを最初にもらうのは、初めてのケースで、全部活かして面白くしようという使命感がありました。なぜかというと1stシーズンの最後のほうの構成は、僕がやりたいことを、総監督が懐深く受け止めてくれたので。

アニメージュ 劇場版アイカツ!特別増刊号』(徳間書店、2015年、46頁)

 そして、これは『いちごまつり』を観返す度に思うのですが、アニメや映画、小説、漫画、音楽、その他諸々の娯楽は、本来は必要のないものなんですね。別に『アイカツ』を観たからといって、おなかはいっぱいにはならない。非常事態であれば尚更そうで、最も必要とされるのは生命維持に必要なもの、すなわち水と食べ物と寝床なわけです。けれど、私たちはそれだけで生きていけるほど、堅牢な精神に恵まれてはいません。だから、時に食費を切り詰めてまで本や円盤を買ったり、ライブに足を運んだりする。それが今日を、明日を素敵にしてくれるからです。そして、『アイカツ』を作っている人たちはきっと、見てくれた人の明日が素敵になると信じて、脚本を書いたり、演出を考えたり、絵を描いたり、演技をしたり、歌を歌ったりしています。そうでなければ、これほどの作品は産み出せません。さらにいえば、エンターテイメントというものの意味の一つも、この「明日を素敵にすること」にあるのではないかと思います。

 最近『この世界の片隅に』で仏アヌシー映画祭の審査員賞を受賞した片渕須直監督は、『アリーテ姫』の公開以前から、こういうことを言っています。

世の中で誰もがぶつかる現実というものの大きさに対して、自分の心を保つためにエンタテインメントが必要なのではないか。勿論、エンタテインメントと言っても、その場しのぎのものではなくてね。『アリーテ姫』は、大きな現実の前で自分の存在が値打ちがあるのか知りたいと思ってる人の、気持ちに応えるような映画にしようと思った。

『アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい 2001-2002』(講談社、2011年、120頁) 

さらに、『マイマイ新子と千年の魔法』のオーディオコメンタリーでも。

自分を携えて生きてるからこそ世の中との間に軋轢が生じて苦しいんだろうなあと思って。じゃあそういうものって、実は我々の上には身近に、ふんだんに、覆いかぶさってきてるものなので。そういうものを意識した時に、なんとなく「でも明日も生きていけそうな気がする」とか、「気が楽になる」とかっていうことができたとしたら、それが本当のエンターテイメントってものの意味なんじゃないかっていう気が、ずっとしてるんですよ。

 もちろん、ある種の不条理さや軋轢というようなものを作品の中に織り込んでいる片渕監督の作品と、悪人のいない世界であるところの『アイカツ』とでは、その性質は異なります。けれど、現実に働きかけて、“明日を生きていく力”をくれるという意味では、根幹は同じなのではないかと思います。

 

 『アイカツ』の話に戻ります。1稿目*で“「友達を笑顔にしたいちごちゃん」に憧れた大空あかりのゴール(=スタート)は、「友達を笑顔にすること」だ”と言う話をしました。では、星宮いちごの場合はどうか。いちごのゴール(=スタート)は、「明日を素敵にしてくれた美月さん」の明日を素敵にすることです。

私は、美月さんのステージを観て今があるから、私のステージを観た人も、ちょっとでも素敵な明日が迎えられたらいいなって、思ったんだ。

『劇場版 アイカツ!』(大スター宮いちごまつり)

 いちごが第1話で『Move on now!』のステージを観たあのスターライズスタジアムで、今度はいちごが『輝きのエチュード』を歌う。そして、それを観た美月が素敵な明日を迎える。ここにおいていちご世代の物語はひとまず幕を引くことになります。いちごまつり終演後のいちごと美月のやり取りは、なんだか文字に起こしてはいけないような気がするので、忘れていたら是非観返してみてください。

 

 さて、こうして思い返してみると、全ての始まりは『Move on now!』でした。『アイカツ』全体ということでいえば、いろいろと見方があるでしょうが、いわゆる〈美月→いちご→あかりのSHINING LINE*〉のはじまりは、間違いなく第1話の『Move on now!』のステージです。ですから、この3世代のSHINING LINE*も、「素敵な明日を迎えること」と無関係ではありません。

 星宮いちごを太陽とするならば、美月→いちごの世代交代は“太陽が登ること=明日を迎えること”のメタファーだということができます。2稿目*では、ソレイユ結成は明日へ向かうことだという話をしましたが、それとほとんど同じことです。 “9話のいちご、あおい、蘭、3人の『Move on now!』→トライスター編→ソレイユ結成”の物語と同じように、美月からなる3世代のSHINING LINE*も、『Move on now!』からはじまって、明日へと向かう物語になっているのです。

 そして、『アイカツ』は明日を素敵にする物語ですから、もちろん作中でも明日を迎えるだけでなく、その明日を素敵にしなければなりません。ソレイユの話でいえば、9話「Move on now!」にはじまり、37話「太陽に向かって」で明日へと向かい、125話「あこがれの向こう側」でその向こう側の“「目覚めてる」夢=素敵な明日”が描かれる。2稿目と3稿目*の話を乱暴に要約すると、こういうことになります。

 では、SHINING LINE*の方はどうか。美月→いちごの2代だけでは、明日を迎えたことにはなっても、素敵な明日を迎えたことにはなりません。もちろん、美月に憧れて手を伸ばしたいちごの明日は素敵なものになりましたし、いちごまつりで美月も素敵な明日を迎えました。けれど、美月→いちごの世代交代だけを問題とした場合、この2代ではただ「夜が明けて朝が来た」ということにしかならない。そこで大空あかりです。

 美月を月、いちごを太陽とした場合、あかりは昼の空です。大空のあかりです。見えない星が輝く、あの眩しい空です。

いちご「昼間だって、眩しい夏だって、星は消えないんだよ」

あかり「青空の、向こうの、星…」

いちご「うん。輝きが見えないだけ。あかりちゃんもそうだよ。例えばそのテーピングだって、疲れてるその顔だって、私には輝いて見えるよ。1人で頑張って頑張って、苦しい思いが続いてて、あかりちゃんには自分の光が見えなくなってるだけ。光は消えてないよ。頑張ってるあかりちゃんは、すっごく眩しいもん。どれだけ眩しいか、私がちゃんと見ててあげる」

第97話「秘密の手紙と見えない星」

 眩しい大空の向こうに、見えないけれど輝いている星。その光に辿り着くことで、星の光スターライトの継承の物語はひとまずの幕を降ろす。つまりこういうことです。〈美月→いちご→あかりのSHINING LINE*〉の象徴自体が持つ物語——夜が明けて太陽が登り、昼の大空に輝く見えない星の光が見えるようになること——自体が、素敵な明日を迎えることのメタファーになっている。

 この物語は、実はホワイトスカイヴェールコーデにも象徴的に織り込まれています。瀬名翼は、青い空と白い雲をイメージして作っていたドレスに「アイドルのチカラ」を織り込んで、ホワイトスカイヴェールコーデを完成させたのでした。

ずっと大空を、青い空と白い雲をイメージして作ってた。でも何か足りない気がしてた。それが何か、昨日大空が来てくれてわかったんだよ。ただの明るい空よりも、もっと元気になる感じっていうかさ、正直、昨日来てくれて、迷いなくこれを作れたんだ。大空にふさわしいドレスになったと思う。〔中略〕本当、アイドルってすげぇな。笑顔で人を元気にできるんだから。

第170話「アイドルのチカラ」

 

 さて、本稿ではこれまで『アイカツ』の主題といえるようなものに還元する形で、論を進めてきました。この「明日を素敵にすること」でもって『アイカツ』を要約することは、比較的容易なことだと思います。けれど、冒頭でも述べたように、大事なことは要約できない細部や、視聴者それぞれの受け取った感覚の方にあります。

 『アイカツ』に出会って何も変わらなかったという人は、恐らく1人もいないのではないかと思います。『アイカツ』を観る前には見えなかった光というのが、きっと誰にでもあります。ですから、今わたし達の空にあるその光を、どうか大事にして欲しい。なんだか説教臭い自己啓発書みたいな文面になってしまいますが、私は本気でそう思っています。それは「放っておいたら忘れたり、諦めてしまうくらいの」光かもしれません。けれど、その光を見失いそうになった時には、空を見上げればいい。晴れの日も雨の日も、星の見えない都会の夜空にだって、確かに輝いているその光を、私たちはいつでも思い出すことができます。*1

 そして、その光が見えるようになったら、あとはもう映画館を出るだけです。

「確かにいい映画とも言えなくもないわね。でもどんな娯楽も基本的には一過性の物だし、またそうあるべきだわ。始まりも終わりもなく只観客を魅了したまま手放そうとしない映画なんて、それがどんなに素晴らしく思えたとしても害にしかならない」

「ほお、手厳しいのう。我々観客には戻るべき現実があるとでも言いたいのかね?」

「そうよ」

「ここの観客の中には、現実に戻った途端に不幸が待ち受けてる者もいる。そういう連中の夢を取り上げあんたは責任を負えるのかね?」

「負えないわ。でも夢は現実の中で闘ってこそ意味がある。他人の夢に自分を投影しているだけでは死んだも同然だ」

「リアリストだな」

「現実逃避をロマンチストと呼ぶならね」

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』第12話タチコマの家出 映画監督の夢 ESCAPE FROM」 

 いきなり他作品からの引用で驚かれた方もいるかもしれませんが、『アイカツ』は立ち止まることを一度も是としていませんから、これは恐らく重要なことです。『アイカツ』のアイドルたちは皆、明日を待っているのではありません。自らの足で、明日へと走っています。崖があっても自分の力で乗り越えていきます。明日がやって来るのではありません。明日へMove on now!です。

ただ怯え立ち止まっているだけでは、その先に広がっている、素晴らしい景色を見ることはできない。その一歩を踏み出さねば、新しい世界を訪れることはできない。

第119話「ナデシコの舞い!」

 ですから、私たちがするべきことは、この3つだと思うんです。まずは、「今日の自分にリボンをかけて たからもの」にすること。そして、「カレンダーうめてく今日を たからもの」にすること。あと一つは、もう端的に、頑張ること。私みたいに同人誌やブログを書きはじめた方もいるでしょうし、歌やダンスやお芝居を頑張っている方もいると思います。絵やCGの勉強をはじめた方も、ファッションの勉強をはじめた方もいるでしょう。スペイン語を習い始めた方もいるかもしれませんし、気象予報士の資格を取得された方もいるかもしれません。その他、ギター、フラメンコ、占い、紅茶、マジック、ガーデニング、バンジー、歌舞伎、薙刀、お笑い、地質学、農業、陸上、ランニング、筋トレ、アイドル研究、壁新聞、スイーツ作り、学校法人設立、お弁当屋さん、もちろん『アイカツ』と直接関係のないことでも。「私は夢のような世界を見て、夢を見つけたのかもしれない」。『アイカツ』をきっかけに何かをはじめた人はたくさんいます。そして、物事は思いの外シンプルです。

そう、頑張れば何てコトない毎日でも特別になる!

第22話「アイドルオーラとカレンダーガール」

 

 

 


 

 

 

 

 


*1:大空あかりがお天気キャスターの道に進んだ意味も、ここにあるのかもしれません。

「内面」と「背景」:『恋は雨上がりのように』第3話、第4話

 アニメ『恋は雨上がりのように』の魅力は、約言すれば、「現実の中にあって現実から浮く感じ」の一言に尽きるように思います。思えばこれは、1話の時から感じていた感覚でした。恐ろしいほど細やかな全身芝居と、ガーデン店内のパキッとしたレイアウト、あきらの淡々とした語り口。でも、「恋」を描くシーンになると、多彩な撮影エフェクトが画面いっぱいに広がり、作中の空間が曖昧になっていく。それはまさしく「雨上がりのよう」で、恋とはそういうものだったなと、なんとなしに納得させられてしまうような説得力があります。

 話が飛びますが、例えば第3話のAパートラスト、思わず「天才か」と声に出してしまったシーンなんですが、あきらの告白のセリフと同時に、雨の音だけを消す。その中で、雨の中を歩くあきらの足音と、屋根から垂れる雨水の音を残す。そして、煙草の灰が落ちる音と同時に、雨音もまた鳴りはじめる。この不意の飛躍は何とも素晴らしく、そこにはやはり「現実の中にあって現実から浮く感じ」があるように思われます。

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© 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会

 

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© 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会

 3話は、最後のシークエンスも非常に印象的でした。葉っぱで幕を作って開けるという、「これは芝居ですよ」と明かしてしまうような演出にはじまり、五角形のエフェクトと心象風景が、現実の風景を侵食していく。でも現実は現実で、セミの抜け殻が45歳の店長を現実に引き戻す。でもやっぱり「恋」は現実を埋めていく——あきらの周りにはエフェクトが表れる。舞台に立っていることを自覚しているかのように、店長はフレームの端に立つ。双方にとってあらゆる意味で現実味のないこの状況を、2人の主観に寄り添う形で「空間」として創作してしまう。この絶えず両極に振れ続ける「恋」のリアリティはどこまでも凄まじく、画面という制約さえも超えて、「こちら側」の現実をも浸しているように感じられます。*1

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© 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会

 

 また話数が飛びますが、安藤良さんが演出を担当した4話では、ある程度明示的に線を引き、一歩を踏み込めない2人の心情を視覚的に描き出していました。と、ここが見方によっては非常に面白いところなのですが、ここでは厳密にいえば「背景」は存在しないということになります。つまり、ふとすると「背景」に見える線は実は彼女たちの「内面」なわけで、一見それとわからない形で「内面」が「背景」に侵食しているわけです。

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© 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会

 そして、その線引きが生きてくるのがこのシーン。

あきらの「若さと純粋さ」に当てられ、「しきりに胸が締め付けられる」。「甘くて苦い青春は終わって、苦しみだけが残ったんだ」。味覚に訴えかける演出は莫大な威力を秘めていて、カフェのシーンで視聴者が感じた「甘くて苦いコーヒー」の味のイメージも、ここで同時に消えていく。コーヒー色の波紋が広がり、舞台は駅へと移動する。そしてすかさずモブを入れる。

 ここがまた素晴らしいところで、「内面」たる線引きを保ちつつ、一気に「内面」とは関係のないモブ(=背景としての背景)で「背景」を埋めていく。それによって、店長の「苦しみだけが残った」現実が、見事にフィルムに描き出される。と同時に、あきらの「内面」に振り切ったシークエンスと淡々と時を刻む「背景」との対比が、これ以上ないほど鮮明に浮かび上がってくる。「幸せ」でも「切なさ」でもない、「恋」それ自体を収めたフィルムとして、これほどの水準のものはなかなかお目にかかれないように思います。

 本当にどこまでも素晴らしくて、動画ごと引用してしまいました。是非円盤を買ってください。すいません。

 


恋は雨上がりのように 第3話 雨雫(あめしずく)

[脚本:赤尾でこ/絵コンテ・演出:河野亜矢子/作画監督:大杉尚広、加藤万由子/総作画監督:大杉尚広]

 

恋は雨上がりのように 第4話 漫ろ雨(そぞろあめ)

[脚本:木戸雄一郎/絵コンテ・演出:安藤良/作画監督:木下由衣、総作画監督:髙田晃]

 


*1:3話は「背景」である雨が影として「内面」に入ってくるような印象もありました

『ゆるキャン△』第5話についてのあれこれ(漫画に流れる音楽、「背景」と「世界」)

ゆるキャン』5話、本当に素敵なお話でした。EDのラストカット(志摩リンが温泉入ってるとこ)でなんか急に涙が出てきて、これは何か書かなければと思って筆を執っているのですが、多分大した話は出てきません。

ゆるキャン』を観ていて思い出すのは、佐藤順一監督のこのお話です。

佐藤 (『ARIA』は)世界観が独特ですよね。何ら濁りのない清水の中で物語が進んでいく。おそらく読者は「世の中には汚い裏側があるぞ、もっとそこを見たい」という中高校生ではなく、年齢的にもっと上の世代だろうと。そこそこ汚いもの見て疲れたから、「きっとどこかに綺麗な世界があるはずだ」というものを見たい人たち。だったら悪意のない世界を見て感動するだけでなく、感動する自分に少し酔うところまでが楽しみのはずだと。そんな独特の世界観を再現するためにどうするかというとき、一番大事にしたのは音楽でした。とにかく音楽を流し続けるという手法です。


——そこが画期的だったことのひとつでした。


佐藤 普通のアニメーションなら事件が起きたところに音楽を流すわけですが、頭からずっと事件のない部分に流しています。事件が起きたら音楽を切る。そういう作り方です。音楽の発注のときにお願いしたのは、「とにかく泣きたくなるほど幸せな音楽にしてほしい」と(笑)。音楽を聴くだけでスイッチが入るようにする。音楽ふくめて一枚の絵にしたいというのが出発点でした。 

クリエイターズ・セレクション VOL.10 佐藤順一バンダイチャンネル)(太字引用者)

 この感覚が『ゆるキャン』の原作にもあるのかはわかりませんが、『ゆるキャン』にも多かれ少なかれ、「音楽ふくめて一枚の絵」という感覚があります。実際『ゆるキャン』では、『けものフレンズ』などでも有名な立山秋航さんが、キャンプ場毎にテーマを作っています。

——音楽面はいかがでしょうか?

 

京極 漫画と一番違うのは音楽がつくところなので、雰囲気をしっかり出すために音楽にはこだわりました。具体的に言うと、普通のアニメではキャラクターの心情やシーンの雰囲気に合わせて音楽をつけるのですが、この作品ではキャラクターよりも情景に音楽をつける意識でオーダーしています。

 そして、立山秋航さんがとても素晴らしい音楽をつけてくださり、各キャンプ場のテーマも作ってくださいました。キャンプ場には個性があるので、立山さんに写真を見せながら説明しまして。キャンプ場のテーマはそこでしか使わないという贅沢な作りになっています。

ゆるキャン△」京極義昭監督インタビュー(アキバ総研

 恐らくここなのだと思います。5話は特に、今まで以上に音楽が流れっぱなしだった印象があって、作品に流れる空気が心地よく体に入ってくるような感覚がありました。その結果、EDが本編の延長として上手く馴染んでいたのかなあと。

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© あfろ芳文社/野外活動サークル

 ところで、いわゆる「日常系」は高畑勲宮崎駿作品の文脈にあるとしばしば言われます。特に宮崎さんが『アルプスの少女ハイジ』のレイアウトを全話全カット、毎週約300枚のペースで描き切ったことは有名で、宮崎レイアウトによる実在感があるからこそあのチーズは美味しそうに見えるんだなんて話もあったりします。*1

 とはいったものの、『ハイジ』と『ゆるキャン』を並べるのはなんか違う気がしますが、まあともかく、『ゆるキャン』も「飯が美味そうに見えるアニメ」であることには間違いありませんし、ここにもやはり「実在感」が関わっているように思えます。「いやでも原付めっちゃCGじゃん」「SDキャラとかめっちゃ使うじゃん」という向きもあるかとは思いますが、例えばキャンプ道具なんかは非常にこだわって描かれている。設定を起こすにあたってキャンプ道具を一式買い揃えたというエピソードや、メカ作監を置いていることからも本気度が伺えます。ロケハンも相当本気でやっています(上述のインタビュー参照。モデルになっているキャンプ場を全部回って、キャンプ飯も全部作ってる)。そうやって原作の雰囲気を大事にしているからこそ、良いフィルムになる。そういう「世界」を作る作業の積み重ねが、平面に描かれた絵に命を吹き込んでいく。だからこそキャラクターが生きているという実感が生まれる。「感動」というものは、そういう積み重ねの上にこそ馴染む言葉なのだと思うのです。

 というところで、特に「ここの演出が〜」「この作画が〜」という話はないのですが、あまり分析して観るものでもないと思うのでこの辺りで。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

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© あfろ芳文社/野外活動サークル

 


ゆるキャン△』第5話「二つのキャンプ、二人の景色」

[脚本:伊藤睦美/絵コンテ:京極義昭/演出:鎌仲史陽/作画監督大島美和、堀谷典子/総作画監督佐々木睦美/メカ作画監督:丸尾一]

 


参考文献

高畑勲氏・宮崎駿氏の作品 (アニメーションを中心に)にみる環境観 文責/叶精二(高畑勲・宮崎駿作品研究所

氷川竜介『2Dアニメ vs 3DCG ロトさんの本Vol.35』、『アニメ100年ハンドブック ロトさんの本Vol.37』

 


*1:

動きが意志によるものであることも大事だ。テーマにもつながっている意味を持ち、その意味が「サイズ」や「使われ方」など、人間性に関係ある情報を運んでくる。だからこそ、その背景は背景ではなく世界として認識されるようになるし、人物は魅力的に感じられるし、その中での「チーズ」が美味しそうに輝いて見えるものに位置づけられる。ポイントは「関係性」であり「連動」であり「カラミ」だ。〔中略〕最終的に描かれるチーズの動画は、氷山の水面に出ている一部にすぎない。小屋周辺の生活感こそ、実は本命だ。

氷川竜介『2Dアニメ vs 3DCG ロトさんの本Vol.35』