cubic in another

芸カ14のご案内

 

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11月12日の「芸能人はカードが命!」第14回にて、『秘密の空をめぐって』という考察本のようなものを頒布します。A5版、70ページ、500円、スペースは【プ53】です。

一応サンプルも公開しました。(pdf)

よろしくお願いします。

【ノート】『ラブライブ!サンシャイン!!』2期2話の演出について

 『サンシャイン』2期2話の演出が徹底的にメタ視点でなんだか驚かされてしまったので、少し感想を。無印も、サンシャイン1期も、正直演出に気を配って観てはいなかったので、今に始まったことではないのかもしれませんが、ここまで演劇的・舞台的な演出もめずらしいような気がします。適当なことを書くと、ファンからもアンチからも顰蹙を買ってしまいそうでちょっと怖いんですが…。まあ時間が取れれば過去の分も観返そうと思います。すいません。

 


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2話の話の前にまず1話のアバン。2学期を「2ndシーズン」っていうところがまずメタ発言ですね。

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学年ごとに並ばせる構図も完全にカメラを意識したものになっています。

そして、壇上にいないキャラも含めたセリフの掛け合いがはじまり、最後にこれ。

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完全に始業式を舞台化しています。

 


この客席から舞台を観ているような構成を徹底したのが、第2話「雨の音」だったように思います。黒澤家でのこのシーンとか、その傾向が顕著に出ているのではないでしょうか。

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この辺からいきますか。現実的に考えればずら丸はみんなの方を向くはずなのですが、完全にカメラの方を向いています。

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そこからヨハネが立ち上がり、ずら丸が上手、ヨハネが下手で会話が進みます。

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そして会話が終わってみると、いつの間にかヨハネがずら丸の方に移動している。

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で、その後こっち側(カメラ側・視聴者側)に来る。ルビィも隙間からさりげなくこちらを覗いています。アニメの中の空間がどうなっているかではなく、フレームに嵌めた時どう見えるかでレイアウト、カット割りが考えられている。ある意味非常に二次元的な画面構成です。

 


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こういう遊びの要素もいい。お風呂は謎の光を使わないスタイル。

 


続いてここ。バスですね。

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これも、普通はこんな座り方しません。現実的に考えてどうかよりも、画面のレイアウトとしてどう見えるかを優先している。ここは本当にいい演出だと思います。3年生2人と1年生2人が別々の方向を向いていて、黒澤姉妹がその様子を俯瞰的に見て困っている感じがよく出ている。舞台でいうとスポットライトを3箇所に当てて、下手、中央、上手に2人ずつ立っているような感じでしょうか。

バスはEDでも使われてますね。

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そしてここ。

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こことかもう、完全に舞台演出ですよね。ステージのあちこちに点在していた演者たちが真ん中に集まって客席側を向くっていう。ここで歌いだせばミュージカルです。

 

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まあさすがに歌い出しはしませんが、劇伴は流れます。ここは本当に名演出ですよね。劇伴の鉄琴の音と雨粒の落ちるタイミングをぴったり合わせて、それが曲になっていく。で、このセリフ。素晴らしい…。

「テンポも、音色も、大きさも」

「一つ一つ、全部違ってバラバラだけど」

「一つ一つが重なって」

「一つ一つが調和して」

「一つの曲になっていく」

「マルたちもずら」

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〈場面転換について〉

 場面転換も上手かったので、その話もちょっとだけ。

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 暗黒ミルク風呂の音と雨の音とか、上手く繋げてますよね。PANを使った場面転換は何箇所もありました。PANもある意味平面的・二次元的な画面構成ですね。次々とテンポ良くいろんなシーンが飛び込んでくるので、もはや別の場所・時間に移動したという感覚があまりありません。けれど、全編通してほとんど劇伴流しっぱなしなので、場面ごとのテンションは上手く出ていたと思います。そんな感じで、とにかくテンポがよかった。

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それでいてここは暗転を入れて余韻を残してくるところがすごくいい。

 

 


〈アバンのこと〉

 最後にアバンの話するのどうなんでしょうね。まあいいや。

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アバンは最初、カメラが若干低めで、全体的にアオリ気味。どこか圧迫感があります。

 

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で、そこから階段でフレームの中にフレームを作って、PANアップを入れて、少しずつカメラの位置を上げていく。

 

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それから、千歌が階段を登って、カメラをバストアップまで引き上げて。

 

飛ぶ!

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この枠からの解放感。シリアスな重たい空気を上へ上へと跳ね返す感じ。素晴らしい演出だと思います。

絵コンテ・演出は遠藤広隆さんでした。

2017年夏期アニメ振り返り4『戦姫絶唱シンフォギアAXZ』

 振り返り企画第四弾。多分最後です。『シンフォギアAXZ』です。

 はい。もう最高でしたね。最終回がすごすぎて細かいこと全部忘れてしまった。コンテは小野監督、脚本は久しぶりに金子彰史単独、そしてアクションディレクターに光田史亮、式地幸喜、杉江敏治。とにかくアクションが素晴らしかった…。

 

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こういうとこかなあ。オラオララッシュの最後。ジェットエンジンみたいなのが爆発したところで一気にカメラに近づいて、その後拳を突き出す前にちょっと引くんですよね。どういうメカニズムで作画されてるのかよくわかりませんが、こういうところのため方というか、タイミングの付け方が本当にかっこいい。いや全部かっこよかったけど。

 

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あとやっぱりここ熱かったですね。泣きそうになった。

 

それからバリキオスさんが爆発描いてたりもしましたね。 

 OP曲を劇中歌として流すタイミングも最高でしたし、Bパートの日常芝居も素晴らしいものでした。

 

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あとやっぱりこれ。「たかだか完全を気取る程度で私たち不完全を支配できると思うてくれるな!

 こういうとこなんですよ。『シンフォギア』って、途方もなく大きなわけのわからない力とか秩序とか権力とかそういうものに対して、手を取り合うというこの上なくシンプルでそれ故何よりも確かな行為が勝ってしまう。神だろうとなんだろうと関係なく。しかもそれを頭悪い感じの気合いで押し切ってしまう。とりあえず歌でぶん殴る。

 そういうわけで、そうですね。なんだかんだ長いシリーズなので、全体で話すと収拾付かなくなりますから、話数を絞ろうと思います。6話と10話かなあ。

 

#6「決死圏からの浮上」

シンフォギアとの適合に、奇跡というものは介在しない。その力、自分のものとしたいなら、手を伸ばし続ければいい。 

「リンカー完成に必要だったのは、ギアと装者を繋ぐ脳領域を突き止めること。その部位が司るのは、自分を殺してでも、誰かを守りたい無償の思い。それを一言で言うならば」

「愛よ!」

 「愛、ですよッ!」。誰かを守りたい無償の思い。つまり愛は奇跡じゃない。説明とかいらないですね。というかそもそも私がよくわかってない。でも、細かいことをあれこれ考えてはいけないのだと思います。愛です。愛()。

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 マムについての回想や、トマトの話を聞いて思ったのは、『シンフォギア』はいつも「ものすごく厳しい状況の中で、いかにして生きるか、生きることを諦めないか」を描いてきたのだなあということ。それも、神の力や奇跡に縋るのではなく、時に拳を握り、時にその拳を開くことで。やっぱり愛ですよ。愛。

 絵コンテは石川俊介さん。聖飢魔IIにも野球選手にも同姓同名の人がいますね*1。『シンフォギア』の演出関係で何か書くなら安田賢司さんかなと思っていたのですが、6話があまりにもよかったので、石川俊介さんの演出回をちょっと遡ってみました。そしたら『GX』の5話が出てきまして 

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『GX』5話といえばここ。マリアが風鳴司令を説得するところ。ここだけははっきりと覚えてるんですよね。モニターを使った演出がめちゃくちゃ上手い。意図せずとも3人が並んでしまう感じが最高に熱いですし、『AXZ』の6話ではマムが唇を噛むシーンがありますから、これもいろいろと感慨深いところですね。

 『AXZ』の方に戻ります。あと熱かったのがこの辺り。

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ギガドリルブレイク然り、やっぱり回転する武器って熱いんですよね。調と切歌は変身バンクも気合い入ってたなあ。

 まあそんなわけで、とにかく愛なんですが、マリアはウェル博士について「あなたは最低の最低よ」って言うわけですね。ここがまた素晴らしい。これは『プリンセス・プリンシパル』の方で書きましたが、やっぱり脚本に乗せるセリフってどれだけ含ませるかだと思います。この「最低の最低」ってところにいろんなものが詰まってる。『シンフォギア』(というか金子さん)は「ここ!」ってとこに「これ!」っていうセリフを入れてくるんですよね。セリフについては、最後にまたまとめます。

 

#10「アン・ティキ・ティラ」

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 10話はやっぱりこれじゃないですか。必愛デュオシャウト。カットインの割り方とかもう最高ですね。コンテは西澤晋さん、アクションデイレクターは光田さんと杉江さんというベテラン揃い。杉江さんは原画の1番上にも名前がありました。

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(バンク割るのも最高…)

 

 9話が調回だったので、10話は切歌回ってところでしょうか。

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「確かに私はお気楽デス。だけど、誰か一人ぐらい何も背負ってないお気楽者がいないと、もしもの時に重荷を肩代わりできないじゃないデスか!」

「響さんはもうすぐお誕生日デス。誕生日は、重ねていくことが大事なのデス」「私は、本当の誕生日を知らないから…。誰かの誕生日だけは、大切にしたいのデス」

ここは泣いた人も多いと思います。脚本・演出・作画、どれかが突出しているのではなく、全てが素晴らしかった。

 

 「だとしても」というキーワードが出てきたのも10話でした。

私もずっと正義を信じて、握りしめてきた。だけど、拳ばかりでは変えられないことがあることも知っている。だから… 握った拳を開くのを恐れない。神様が仕掛けた呪いを解くのに、神様みたいな力を使うのは間違ってます。人は人のまま変わっていかなきゃいけないんです。

だとしても。いつだって、何かを変えていく力は、“だとしても”という、不撓不屈の思いなのかもしれない。

この「だとしても」って、非常に『シンフォギア』らしい言葉ですよね。最初の方にも似たようなこと書きましたが、『シンフォギア』の世界ってあまりにも不条理で、でも、“だとしても”、それに抗い貫き通す。 

「私たちは互いに正義を握り合い、終生分かり合えぬ敵同士だ」

「だけど今は、同じ方向を見て、同じ相手を見ています」

「敵は強大、圧倒的、ならばどうする、立花響」

「いつだって、貫き抗う言葉は一つ」

「「だとしても!!」」

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かっこいい…。ちょっと七五調っぽくなってるところがいいですよね。

 もうなんか画像とセリフ貼ってるだけみたいになってますが、付け加えることも特にありません。熱くてダサくてかっこいい。5期も楽しみにしてます。

 

 

 


おまけ:セリフ集

抜けてるところもあるかもしれませんが、気になったセリフは一応Evernoteに突っ込んであるのでそれを全部貼っておきます。いわゆる耳コピなので、漢字表記とかについては知りません。

#2「ラストリゾート」

「それでも無理を貫けば」「道理なんてぶち抜けるデス!」(これ『グレンラガン』のオマージュですよね)

#4「黄金錬成」

「内なる三合、外三合より勁を発す。これなる拳は六合大槍ッ!映画は何でも教えてくれるッ!!」

#5「虚構戦域に命を賭して」

「誰だって、譲れない思いを抱えてる。だからって、勝てない理由になんてならない」
「勝たなくてもいいよ。だけど絶対に負けないで」

「我らを防人たらしめるは血にあらず。その心意気だと信じております」 

#6「決死圏からの浮上 」

「最高。なんて言わないわ。あなたは最低の最低よ、ドクターウェル」

#7「ARCANA No.00」

「今日の誰かを踏み躙るやり方では、明日の誰も踏み躙らない世界なんて作れません」

「誰かの背中なんて見たくなかったあの頃、でも、私の前を行く優しい背中だけは、特別だった。誰かの前を走るのではなく、ずっと並んで歩いていきたいと思った。あの日」

#8「過去と未来の狭間で」

「クリスがあの時助けてくれたから、俺も今、クリスを助けられた。なくした脚は、過去はどうしたって変えられない。だけどこの瞬間は変えられる!きっと未来だって!姉ちゃんもクリスも、変えられない過去に捕われてばかりだ!俺はこの脚で踏み出した。姉ちゃんと、クリスは!?」

 #10「アン・ティキ・ティラ」

「合わせろ弦!」「おうとも兄貴!」

「私もずっと正義を信じて、握りしめてきた。だけど、拳ばかりでは変えられないことがあることも知っている。だから… 握った拳を開くのを恐れない。神様が仕掛けた呪いを解くのに、神様みたいな力を使うのは間違ってます。人は人のまま変わっていかなきゃいけないんです」

「だとしても。いつだって、何かを変えていく力は、“だとしても”という、不撓不屈の思いなのかもしれない」

「確かに私はお気楽デス。だけど、誰か一人ぐらい何も背負ってないお気楽者がいないと、もしもの時に重荷を肩代わりできないじゃないデスか!」

「響さんはもうすぐお誕生日デス。誕生日は、重ねていくことが大事なのデス」「私は、本当の誕生日を知らないから…。誰かの誕生日だけは、大切にしたいのデス」

「私たちは互いに正義を握り合い、終生分かり合えぬ敵同士だ」
「だけど今は、同じ方向を見て、同じ相手を見ています」
「敵は強大、圧倒的、ならばどうする、立花響」
「いつだって、貫き抗う言葉は一つ」
「「だとしても!!」」

#11「神威赫奕の極みに達し」

「あのバカ。地面が好き過ぎるだろ」 

#12「AXZ」

「翼!その身に流れる血を知らぬか」

「知るものか!私に流れているのは、天羽奏という、一人の少女の生き様だけだ」 

#13「涙を重ねる度、証明される現実は」

「たかだか完全を気取る程度で私たち不完全を支配できると思うてくれるな!」


*1:何の関係もない話ですが、アニメ関係者で小林治さん3人いて非常にややこしい。

2017年夏期アニメ振り返り3『メイドインアビス』

 振り返り企画第三弾、『メイドインアビス』の話です。振り返り企画って何なんでしょうね。最近はずっと『アイカツ』の同人誌を書いていて、そっちはちゃんとした評論を書こうと思って頑張っていたのですけれど、どうにも私は評論家というのが向かないみたいです。なので、こっちはしばらくちょっとやわらかい感じで書きたい。

 まあいいや。『アビス』ですね。『アビス』の話をします。

 

背景美術のこと

 いろいろとすごかった『アビス』ですが、わかりやすくすごかったのは背景美術ではないでしょうか。美術監督が増山修さんということで、まあそりゃすごいに決まってるんですが、それにしてもすごかった。確か『やが君』の仲谷鳰先生が「背景すごいなー」ってツイートしてましたね。『アビス』ってこういう内容ですから、美術が綺麗だと「来週はどんな世界が広がってるんだろう」ってわくわくが止まんなくなる(CV富田美憂)。アビスに潜る前ですら、なんとなく町を歩いてるシーンに感動を覚えることが何度もありました。こういう普通にその辺の山に登れば見れそうな景色でさえ、引きずり込まれるような魅力があります。

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 小島監督は「『アビス』の世界観を表現するためには、背景美術の説得力が必須です。森や木を安易に記号化せず、草一本にも名前がありそうだと思わせないといけません」 *1 と言っていますから、これは増山さんだけではなく、監督の作品全体に対するこだわりでもあるのでしょう。その他、キャラデザが黄瀬和哉さんだったり、モンスターデザインが吉成鋼さんでしかも原画も描いていたりと、いろいろとすごいところはありましたが、この辺は半端な知識で語ることでもないと思うのでやめておきます。

 

 

そんなもんじゃ、憧れは止められねえんだ

 そんなわけで、初回からものすごいクオリティで私たちを魅了してくれた『アビス』でしたが、少なくとも私個人には、一つの違和感がずっと付きまとっていました。それは、「リコたちは“自殺”といわれるようなことをしようとしているのに、なんで猛反対する人がいないんだろう」という違和感です。しかもライザ生きてるかどうかわかんないし。この違和感は、10話でより大きなものになりました。

 画像貼るのもなんか嫌なのでやめておきますが、10話は、まあ端的にグロかったんですよね。確か台湾かどっかで18禁指定されたんじゃなかったっけ。耳から血出るところとか、見ていて体が痛くなってしまって、あの時は「来週から見るのやめよう」と思いました。それで、どうしても「何でわざわざ潜るんだ」「普通に地上で暮らしてればいいじゃないか」という考えが浮かんできてしまった。

 でも、きっとあんな大穴がある世界と私たちの暮らしている世界では、考え方なんて違って当たり前です。その事に気づいてから、考えを改めて、見続けることにしました。

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 こんな景色を見てしまったら、どんなに不条理なことがあろうと、きっと挑まずにはいられない。4話でハボさんが言っていた「俺らはどうしたって奈落の落とし子だ」というセリフがずっと引っかかっていたのですが、その答えが見えたような気がしました。8話でライザが語っていたことの意味も、この時はじめてわかったような気がします。あれだけの思いをしたナナチが「そんなもんじゃ、憧れは止められねえんだ」って言うぐらいですから、そういうことなのでしょう。*2

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 というような事に思い至ってからは、OPの歌詞が突き刺さるようになりました。OPの演出も素晴らしかったですね。

 

 

第8話「生存訓練」のこと

 これはちょっと別で書きたいなと思ったので書きます。8話がすごかったという話です。

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 マルルクが泣き始めたところ辺りからですかね。そこからBon Iverみたいな劇伴が流れ出して、オーゼンの回想に入っていくんですが、「ま、仕方ないか。なあ、ライザ」という今のセリフと、回想の「あの赤子、籠から出した途端アビスの方へ這って行くなんて気味が悪いったらなかったねぇ」というセリフが綺麗に繋がる。そして、左向きのオーゼンのカットを上手く繋いで現在に戻すという。こういうのを(プロットとしても演出としても)語り方が上手いというのでしょうね。

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(こうしてGIFにするとあんまりわかりませんが、音があるとつなぎの上手さと余韻に圧倒されます) 

 とまあ8話は脚本も演出も音響も何もかも素晴らしかったわけですが、一番の功労者は、やっぱり藤優子さんでしょう。本当にお疲れさまでした。 

 

 

余談 小島正幸監督のこと 

 私がここにいろいろ書いたことは、もちろん『アビス』を見て思ったことではあるんですが、小島正幸監督に影響された結果でもあります(アニメージュ9月号読んだ人はなんとなくわかると思います)。

 で、その小島さんなんですが、『Fate/Apocrypha』10話でコンテを描いてましたよね。

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(この辺の演出がすごくよかった…)

 この頃は『アビス』8話9話10話の連続コンテとその他諸々の監督作業で大忙しだったはずなのに、なぜか『アポクリファ』10話のコンテを描いている。絵コンテって結構な頭脳労働だと思うんですが、一体どうやって仕事回してるんでしょうか。『アビス』だけでも13話中9話は監督がコンテ描いてるし…。ここのところ本当に、島津裕行さん以上に毎週名前を見ていた気がします。本当にお疲れさまでした。

 

余談2

 つくしあきひと先生、『おとぎ銃士赤ずきん』のキャラクター原案手掛けてて本当にびっくりした。

 


  *1 『アニメージュ』2017年9月号、68頁

 

  *2  グロ関連で一つ付け加えておくと、『アビス』は“生きていることのグロテスクさ”みたいなものをしっかりと描いている。5話の焼肉を食べるくだりなんかがまさにそうだと思います。最終回でも肉や魚を捌くシーンが何度もありました。
 この“生きることのグロさ”を描くのは、多分ファンタジーじゃなきゃできないことだと思います。アビスという大穴に潜ると、ヒトは他の生物と対等になる。生きるためには生命を奪わなければいけないし、逆に他の生物が生きるために生命を奪いにくることもある。これって多分当たり前のことなんですが、なかなか直視するのが難しい事実ですよね。

2017年夏期アニメ振り返り2『プリンセス・プリンシパル』

 振り返り企画第二弾、『プリンセス・プリンシパル』の話です。大河内一楼の話といってもいいかもしれません。

 大河内一楼さんというと、やっぱり『ルルーシュ』かなという感じがするのですが、世間ではどうなのでしょう。確か脚本デビューは『∀ガンダム』ですよね。あと『ウテナ』の小説書いてたりとか。いろいろとすごい人なのは存じ上げておりましたが、『プリンセス・プリンシパル*1、ちょっとすごすぎた気がします。大河内さんが全話書ききると思ってたので、最後2話の脚本が急に檜垣亮さんに変わったのはびっくりしましたが…。『シンフォギア』の金子さんみたいに倒れたとかじゃないですよね。

 

言葉の多義性、含み

 まあとにかく、本題に入りましょう。といって幾分か個人的な話ですが、最近『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション*2が公開されました。ということで、それに合わせて最初のTVシリーズの『エウレカ』を、3週間に2話ぐらいのペースで観返していたりするんですが、ちょうど第6話「チャイルドフッド」の脚本が大河内さんだったんですね。それで、最後に「寒いね、ここ」「そうでもないよ」っていう会話があるんです。なんとなく覚えてる方も多いと思います。このシーンを観た時、「これだ」と思いました。

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 「これだ」というのは、この余韻の残し方のことです。シンプルに短く、かつ直接的な感情表現ではない言葉に30分の物語を詰め込んで、漠然としたあたたかい余韻を残す感じ。4話の「白ってのが特にいい」はもちろんのこと、3話の「プリンセスなんて大嫌い」→「やっぱり嘘つきですね、アンジェさん」からの黒トカゲ星の塩がどうたらのくだりなんかもそうだと思います。

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 「嘘」といえば、『プリンセス・プリンシパル』には「嘘」「スパイ」「プリンセス」「壁」など、頻繁に登場する言葉がいくつかありましたが、これらの言葉への意味の含ませ方も、素晴らしいものでした。これはもう1話からそうで、「嘘」という言葉にいろいろなものが含まれていた。そして、回を追うごとに、その言葉たちがどんどん多義性を獲得していく。個人的には、8話でプリンセスが「ただのスパイです」と言うシーンが特に印象に残っています。プリンセスがプリンセスじゃないなら、本当に「ただのスパイ」ですからね。こういうところが本当にすごい。「壁」とかもそうですよね。共和国と王国の間の壁、幼い頃のアンジェとプリンセスを隔てていた王宮の壁、アンジェの心の壁、などなど。それから、最終話の“My turtledove”も。turtledove(コキジバト)には「いとしい人、恋人」という意味があるらしいのですが、これも4話のスパイ=鳩って話を踏まえてる。この辺りは言葉遊び的な要素が好きな人に取ってはたまらないところだと思います。

 そして、これらの言葉・セリフは恐らく、回りくどいからこそいいのだと思います。“「寒いね、ここ」「そうでもないよ」”にしても、「白ってのが特にいい」にしても、「嘘」や「スパイ」や「壁」なんかがいろいろな意味を獲得していくことにしても、直接的ではない。ちょっと曲折があって、あるいは意味が一つではないせいで、言葉とその意味の関係性が1:1ではなくなっていて、漠然とした感じで入ってくる。そこに余韻が生まれるのだと思います。

 さらにいうと、8話で真実を知ってしまうと、会話がストレートに入ってこなくなるんですよね。いや、私がバカなだけかもしれないですが、アンジェとプリンセスが幼少期の話をすると、結構頭の中がこんがらがってくる。これもある種の「含み」なのかもしれません。

 

 

歌は歌われるべきものであり、読むものではない

 『プリンセス・プリンシパル』のセリフの配置って、すごく細かいところまで考えられていると思います。これは私が手書きで書いて途中でやめた変な図をPCで作り直したものなんですが、こういう感じで、「30分の枠があって、CMはさんでAパートとBパートがあって、その枠の中でどのセリフをどこにどう配置するか」ということを綿密に組み立てている気がする。

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 こんな変てこな図でもなんとなく言いたいことは伝わるだろうと信じたいのですが、どうでしょうか。要は、この時間性のことです。「痛いの痛いの飛んでけ」とか「こんな楽しい演奏、生まれてはじめて」というセリフを聞いた時に、それと同じ(あるいは同じ意味)のセリフを、15分だか20分だか前にも聞いているかいないかの違いって、ものすごく大きいと思うんです。それは、例えば1話でちせが言っていた「親子だって嘘をつく」の意味が5話でわかるとか、そういう“言葉の意味内容”の話ではなくて、単純に“演出効果”の話です。“15分前に聞いたセリフだ”ということ自体が観客心理に与える影響って、きっと測り知れないものがある。そして、それが5分なのか15分なのか20分なのかで、与える印象も変わってくるのだと思います。*3

 これは、恐らくシリーズ構成にも言えることで、特に『プリンセス・プリンシパル』は、基本的にどの順番で観ても一応問題なく観れますから、どういう順番で放映するかによって、劇効果も大いに変わってくる。そういう意味で、シリーズ構成、というかプロットの役割は非常に大きかったと思います。暇があれば時系列順に観返したりもしてみたいですね。 

 ちなみに、こんなインタビュー記事もありました。『∀』の脚本を百回以上読んだ話は有名ですね。

――初めて書かれた脚本は、どうだったでしょうか?

大河内 当り前のことですが、それまで書いたことがなかったのでメチャメチャ下手でした。富野さんがコンテで修正してくれたので、なんとか放映できたというレベルでした。当然、首だろうなと思っていたら、河口さんからもう一度脚本を発注されたんです。今度こそは、ちゃんとした脚本を書かねばならない! と思ったのですが、でも、どうしたらいいか分からない。そこで、手元にあった星山博之さんの『∀』の脚本を百回以上読み返したら、小説と脚本は別のリズムなんだって体感的に分かってきたんです。大雑把に言うと、小説って盛り上げるために助走距離が必要な感じなのですが、アニメはすぐ跳べるというか。文字情報だけじゃなく、声、音、絵、動きがあるので、一度に投入できる情報量が高いんだなって。それに気づいてからは、ようやく脚本っぽくなった気がします。

(クリエイターズ・セレクション Vol.3 大河内一楼)

 

 

演出や作画のことも少し

 ところで、さっきちょっと取り上げた5話は江畑諒真無双回でもありました。というかほとんど江畑諒真でした。これは本当にすごかった。絵コンテ、作監、原画、第二原画、確か何かの修正もやってたんじゃなかったっけ。

 江畑さんは、個人的には『ヤマノススメ』のイメージが強いです。ひなたがあおいの手を引っ張って吊り橋か何かを渡るところがすごく印象に残ってる。9話でもちょっと原画描いてましたね。クリケットのところの重心移動の感じとか、体のしなり具合とか、江畑さんかなあと思ったのですが、Twitterとかだと土俵入りって意見が多かった気がします。

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(言われてみると確かに…)

 私作画はまだ勉強中で、ちゃんとわかるようになるまではあまり口を出さないことに最近決めたので、まあこれぐらいにしておきます。(他のことも勉強中で全然わかってませんが)

 コンテは内藤明吾さんという方が頑張っておられた印象。というか最終回橘監督がコンテ切るものだと思ってたのでびっくりしました。10話の遊園地の回想の幻想的な感じとか、列車のコンパートメントとか、結構印象に残っています。

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あと美術のCGが綺麗。 

 

 

まとめ

 まとめます。なんか漠然とした感じになるんですが、『プリンセス・プリンシパル』って革命の話なのかなって思うことが、結構頻繁にありました。まあプリンセスが壁をなくすって言ってるからだと思うんですが。それで、最終回でゼルダが「たかだか4,5人の空腹を満たしたところで」って言うところがありましたよね。そこで思ったんです。革命っていうのはたくさんの人が血を流すことじゃなくて、たかだか4,5人の人たちが壁を越えて出会って一緒にごはんを食べたり笑ったり遊んだりすることなのかもしれない、と。考察ではないです。なんとなくそう思っただけ。そう考えると“壁”の二つの意味が一つになるから面白いんですよね。

 そんなわけで、2期やりそうなので楽しみにしています。

 

※ 一部不適切な表現を改めました(2017.10.01)

 


  *1 プリプリという略はプリンセスプリンセスに見えるしなんか作品の雰囲気に合ってない気がするのでここでは使うのやめときます。

  *2 いい映画でした。「今、何を描くべきか」に真剣に向き合った結果の再構築なのだと思います。できれば小中学生に観て欲しい。

  *3 ついでながら、『エウレカ』8話で橘正紀さんがコンテ描いてるんですけど、ここでも同じ構図2回使うんですよね。別にそれが何というわけではなく、観てて気になったというだけなんですが。

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2017年夏期アニメ振り返り1『サクラクエスト』

 なんかこう、ちゃんとしたことを書かなきゃいけないっていう意識がずっとありまして、ちゃんとしてないような気がするものはいくつかまとめて分量を稼いで1つの記事にしたり、その挙句嫌になって消したり、そういうことを繰り返していたんですけど、所詮ブログだしもっと力抜いた感じでもいいのかなと思って。だから、読者層とか読者数とか気にせず、わりと適当なことを書きます。「だ・である」調でも「です・ます」調でもなく、「と思う・な気がする」調で書きます。というか、あんまり上手く書けなかったなと思うものほどTwitterで言及されてたりするんですよね。不思議なものです。

 タイトルに1って付いてるのは、1番よかったとかそういうのではなく、最終回の放送日が早かった順です。というかそもそも、まだ夏アニメ全然終わってませんね。私が観てる中だと、今夜『DIVE』が最終回やるぐらいでしょうか。しかも『サクラクエスト』は2クールなので、夏アニメではないかもしれないですね。まあ何でもいいです。

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 えっと、そうですね。まずは最終回、もう端的に寂しかったですね。その辺の青春モノの卒業式とかでは感じられないような寂しさがありました。結構泣いた人も多いんじゃないでしょうか。でも、泣けるというよりは、じんわりと胸に沁みてくる感じ。『サクラクエスト』のいいところの1つは多分ここにあって、凝ったレイアウトとか派手な演出ってほとんどないんですよね。淡々とした日常芝居の中で“あたたかさ”を描くのが本当に上手い。だから、最終回のあの寂しさは、そういう演出の上手さが遺憾なく発揮された瞬間でもあるし、半年間ずっと“普通”のことを描き続けてきた成果でもあるのだと思います。

 思い返すと、正直「つまんないな」「切ろうかな」って思ったことも、なくもないんですよ。多分。でも、正直気づくと自分で思っている以上に生活の一部になっていて、正直終わって欲しくないと思うようにもなっていた。しかも「この日々はずっと続いていく」みたいな終わり方じゃなかったから、正直寂しさもまた一入ですよね。

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(ラストは全員出すぞ的な演出も素晴らしかったです。丑松もかっこいい…)

 

 それで、ここが一番大事なところな気がするんですけど、『サクラクエスト』は「町おこし」というものを、伝統に固執することでもなく、時代の潮流に追いつこうとすることでもなく、“今そこに生きている人たちが、その日を楽しく生きること”として描いた。これは本当に、讃えるべきところだと思います。23話のこのセリフを聞いた時は、本当にはっとさせられて、小一時間考え込んでしまった。

町の人みんなが望んでこその町おこしじゃないんですか?綺麗事かもしれません。でも、間野山に住む一人一人が、自分から何かを変えようと思わなきゃダメなんです。多数決で物事が進められて、それが誰かの犠牲の上に成り立つものなんだったら、それはもう町おこしじゃありません。ただの開発です。

第23話「雪解けのクリスタル」

 思えば、転換点は13話と14話だったように思います。町を興そうとして、テレビ局入れてプトレマイオスとか呼んで、あんまり上手くいかなかった。それで、一度由乃が地元に帰って「断罪」をする。この辺りからちょっとずつ“そこに住む1人1人”へと町おこしの視点が変わっていきました。*1

 

 話が飛び飛びになりますが、真希パパが「好きなものを好きで居続けるのが、そんなに苦しいことなのか。よく笑う子だったんだよ、お前は」(19話)って言ってましたよね。それで真希ちゃんが「仕事でも何でも自分の方から好きに寄せていく」という選択をした。この辺なんかも“その日を楽しく生きること”だと思います。

 というか、間野山観光協会の人たちは、正直働いてる感が全くありません。なんか文化祭の準備してるみたいだなってよく思います。でも、多分それでいいんだと思うんです。仕事って、いろいろ考え方はあるでしょうけど、基本的には生活を良くするためにすることですから、誰かを喜ばせることができたのならそれは“いい仕事をした”ということになるし、「自分の方から好きに寄せていく」ことは正しい。現実はそんなに甘くないよと言われるかもしれませんが、19話、20話あたりを観た時は、そんなようなことを考えていました。24話のこのセリフもそうですね。

確かに東京は、いろんな刺激に溢れてる。でも、外から与えられる刺激じゃなくて、どこにいても、自分で探せる刺激もある。間野山に来て、みんなと一緒にいろんな経験をして、それがわかったの。どんな仕事だって、その中に自分で刺激を見つけて、どんどん面白くしていけばいい。今はそう思う。

第24話「悠久のオベリスク

 

 だから、仕事にしても町おこしにしても、“今そこに生きている人たちが、その日を楽しく生きること”なんですよね。人に何かを誇示するためでも、町を発展させるためでもない。だからテレビ局の変な見世物に付き合う必要もないし、「開発」をする必要もない。繰り返しになりますが、ここが本当に素晴らしいところだと思います。

 そして、その表現の集大成が、最終回の『龍の唄』のシーンだったと思います。簡単に言語化できるものではないですけど、“人が普通に生きていることの暖かさ”みたいなものが、スーッと胸に入ってくる。

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 神輿のシャイニングドラゴンがいい味出してますよね。廃校になった校舎の再利用*2とか、湖の底から出てきた神輿とか、サンダルさんの祖先の話なんかもそうですが、この“普通に生きた証”みたいなものが繋がって、形を変えながらも残っていく感じが素晴らしい…。

 それから、劇中劇の使い方がめちゃくちゃ上手いんですよね。特に23話*3 はすごかった。龍の伝承とストーリーが直接絡んでいるところはもちろんのこと、例えば24話の丑松と千登勢の会話とかも、劇中劇のセリフだからこそ出せる心理の奥行き・深みがありました。

 

 えーっと、まとめましょうか。まあこれだと思います。

間野山には昔から大切にしていることがあった。それが、龍の唄に託された思いじゃった。異文化を排除することなく、知恵として受け入れ、常に変化し、生き残ろうとする心。皆が忘れかけていたそんな心を、若もんでバカもんで余所もんの国王が思い出させてくれた。じゃからわしは決心した。もうチュパカブラ王国は必要ない。これからは間野山に住む一人一人が、自分たちで考え、学び、文化を継承し、時に更新していく。この町に生きる誇りを胸に。ここに、国王の退任と、チュパカブラ王国の解散を宣言する!

第25話「桜の王国」

 異文化を排除して伝統に固執することでもなく、多数決的に時代の流れに乗っかる「開発」でもなく、そこに住む一人一人が、今日を楽しく生きること。そういう普通の毎日を楽しくすることと働くことは矛盾しないということ。何回同じこと言うんだと思われてるかもしれませんが、こういうことを何度も(2クール目は特に)考えていた気がします。

 だから、間野山が特別というわけでは全くないんですよね。伝承がどうとか、テレビの特集がどうとか関係なく、そこで生きている人たちが毎日楽しく暮らすことが“町おこし”になる。これは3話の回答にもなっているのかもしれません。

じゃあ、間野山の人たちにとって、大事なものって何だろう。時が過ぎても、忘れられないものって何だろう。間野山にしかない何か。みんなの心にずっと残り続ける何か。それが何なのか、国王になったばかりの私には、まだわかりません。でも、それをこれから1年かけて、町の人たちと一緒に見つけていきたい。それが、私の仕事だと思っています。拙い国王ですが、間野山をよろしくお願いします。

第3話「マンドレイクの叫び」

 そうなると、やっぱり間野山を出るという選択肢になるんでしょうね。間野山の人たちに大事なものがあるように、他の場所の人たちにも大事なものがあって、“普通”の毎日を生きているわけですから。寂しいですけど、いい終わり方だったと思います。こういう時代に、しかも「お仕事シリーズ」としてこういう作品があることの意義は、すごく大きいような気がする。

 まとまりませんね。まあツイッターのタイムラインとか眺める感じで読んでいただければと思います。あ、最後にこれだけ貼っておきます。

いろんな人のその人らしさが影響しあって、また別の何かが生まれていくっていうか… なんかうまく言えないけど、でもきっと、世界ってそういうのの集まりでできてるんじゃないかって思う。

第5話「ユグドラシルの芽生え」

  こうやって振り返ってみると、本当にいいアニメでしたね…。

 

 

 

 


  *1 14話って、地元感、地続き感がすごいんですよね。ただ自転車で坂を下るカットとかにも、懐かしい不思議な温度がある。飲み会の感じとか(あんまり高いお店に行ったことがないので知りませんが)、祭りで同級生と遭遇する感じとかも、じわーっと心に入ってきた気がします。うろ覚えですが。

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  *2 20話のタイトルが「聖夜のフェニックス」なのもいい。

 

  *3 そういえば23話は作監に寿門堂が入ってましたけど、あれってどういうことなんでしょう。グロス回?

【キラキラ☆プリキュアアラモード】琴爪ゆかりの“変身”について(16話→29話)

 お気づきの方もたくさんいらっしゃるとは思うのですけれど、『プリアラ』16話と29話の対応関係について少し書きたいと思います。

 

 スイーツパクトで混ぜているもの

 まずは前提として、スイーツパクトで混ぜているのは「持っている素養」と「求めているものや指針」であるということだけ確認しておきます。ピクシブ百科事典にも書かれていますが、せっかく手元に出典元の雑誌があるので、そこから引いておきましょうか。

暮田 「◯◯と△△を!レッツ・ラ・まぜまぜ!」ですね。2つの色を混ぜてひとつの色にする玩具の仕様から、混ぜ合わせる2つの色は各キャラクターの2つの要素だろうとみんなで考えました。たとえばカスタードなら「知性と勇気を!」ですが、その子が「持っている素養」と「求めているものや指針」を組み合わせています。

アニメージュ』2017年6月号(100頁)

 つまり、琴爪ゆかりの場合は、「持っている素養」が「美しさ」、「求めているものや指針」が「トキメキ」ということになります。ゆかりは何でもそつなくこなせる反面、「大好き」なものがない人ですから、「求めているもの」が「トキメキ」だというのもよくわかりますね。

 

第16話「キケンな急接近!ゆかりとリオ!」

 ではまず16話からいきましょう。16話でのリオとの会話からも、ゆかりが「トキメキ」を求めていることがわかります。

リオ 「ゆかりさんの気持ち、オレわかるよ。何でもできる。でもこれといった特技はない。だって、自分から本当に何かをしたいと思う気持ちがないから、好きにしろと言われても困ってしまう。その苦しさを紛らわすために、つい人の心を試してしまう。どう?」

ゆかり「あなたにはわかるのね…。私には、年の離れた姉がいるの。家のことは姉が継ぐから、私は勝手気ままに過ごせてる。けど、それが余計に苦しくて…」

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 まあ姉の話は黒樹リオの正体を暴くための嘘だったわけですが、リオが言っていることは当たっています。5人(現在は6人)の中でゆかりだけが唯一「大好きなもの」がない。故に「トキメキ」を求めているわけですから。ともあれ16話では、ゆかりが「どんなに苦しくても、私は闇に逃げたりしないわ」と言い放ち、それなりにカッコいい感じでジュリオとの勝負に勝ちました。

確かに、両親も祖母も、私に好きに生きろと言ってる。それが苦しい時もある…。けどね、どんなに苦しくても、私は闇に逃げたりしないわ!私の性格は、誰のせいでもない。私が自分で選んでこうなったの!寂しさも憤りも、誰のせいにするつもりもないわ! ま、結構当たってるところも多かったわよ。心理分析。

 けれど、これ実はあまりいい終わり方ではないんですね。幕引きも不穏ですし、少なくともハッピーエンドではない。後で詳しく述べることになると思うので、ここでは戦闘シーン終了後のゆかりの表情にだけ触れておきましょうか。明らかに何かを抱えたまま、何かが解決しないままであることがわかります。

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第25話「電撃結婚!?プリンセスゆかり!」

 29話の前にちょっとだけ25話についても触れておきます。25話はコンフェイト公国のナタ王子と剣城あきらがゆかりを賭けて争うという、なんだか百合漫画みたいなお話でしたが、16話で「逃げたりしない」と決めた「闇」がこの回で再び表出するんですね。そして、「真っ直ぐ」ないちかやあきらに対するある種の劣等感も描かれることになる。16話での戦闘の際にジュリオが言った「構って欲しいくせに強がるなよ。本当は弱いくせに」という言葉の回想と共に、ゆかりはこう言うのでした。

ジュリオの言うことは当たってた。だから彼を傷つけた。私は、自分の心が傷つく前に、彼を傷つけて自分を守ったの。がっかりしたでしょう。いつもこうなのよ、私。なのに、あなたも、いちかも…。そんなに真っ直ぐ、私を見ないで。

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 けれど、ゆかりはあきら達の「好き」を受け入れ、一歩前に進みます。16話と違って、彼女の表情に寂しさの影はありません。

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 ただ、25話は「好き」を受け入れた段階に過ぎません。“受け入れた”ということと、“自分から歩み寄った”ということは違う。彼女はあきらの「大好き」を、ただ泣いて受け入れることしかできませんでした。だから、16話と同様、これもハッピーエンドとは少し違うんですね。最後のゆかりの言葉は、祈りのようなものです。

私は、まだ恋をしたことがないから、自分の心がよくわからない。けど、みんなと作ったチョコマカロンに、私のトキメキがあるんです。そのトキメキを大切にすれば、いつか…。 

 

第29話「大ピンチ!闇に染まったキュアマカロン!」

 それでは、ここからが本題ということになるでしょうか。16話、25話を踏まえつつ、29話を追っていきましょう。

 まずAパートの、抹茶マカロンを作り始める前のところなんですが、絵だけ見ればいつも通りの楽しい感じなんですね。『ハトプリ』に近いような、画面に落ち着きのないあの感じ。稲上晃さんの作画も相変わらずすごい。ですが、ゆかりは少し退屈そうに髪をいじっている。そして天気は雨。こうして画像を引用するといかにも楽しそうですけれど、劇伴はなし、BGMは雨音だけです。

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 けれど、抹茶マカロンを作り始めるとすぐに劇伴が流れ出す。そして、作り終わる頃には、空はすっかり晴れ渡っています。

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 ところで、この抹茶マカロン作りに際して、「マカロンは、完璧にはできないわ」と乗り気でないゆかりに対し、シエルはこう言いました。

ゆかり、完璧なスイーツって何?何をもってパーフェクトと呼ぶか、それは人の心によって変わるのよ 

 少し話が逸れますが、ゆかりとピカリオ(ジュリオ)の関係性って、本当によくできているんですよね。かなり乱雑な言い方ですが、仮に「才能」という言葉を使って言えば、ゆかりは「“才能”はあるけれど“好き”がない」、ピカリオは「“好き”はあるけれど“才能”がない」ということになる。全く対照的なわけです。けれど、それ故に非常に似通っている。2人とも、自分の持っていないものからくる劣等感のせいで、「大好き」な人たちへの一歩を踏み出せずにいる。だから、ゆかりに対して歩み寄るのは、いつもシエルなんですね。25話でも他ならぬシエルがゆかりとあきらの手を繋ぎました。

シエル「言葉できちんと伝えなければならないこともある。どんなに通じ合っていると思っていても、心はすれ違ってしまう時がある」

あきら「シエルちゃん…」

シエル「“大好き”…。言葉にするとシンプルだけど、言われたら心がキラキラする。素敵な言葉じゃない?」  

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 ですから、16話でゆかりが嘘の姉の話をした時、リオはかなり嬉しかったんだと思うんですね。改めて見返すと、見下したような笑い方ではなく、悲しさと嬉しさの入り混じったような、複雑な表情をしている。目の震え方とかも、何とも言い難い切なさがある。姉なんて言われたらどうしたってキラリンのことを思い出してしまいますし、やっぱりゆかりはジュリオを傷つけたわけです。 

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 だからこそゆかりは責任を感じているわけですけれど、こうして嘘を吐いたことに対しては、恐らく賛否両論あるのだと思います。私も今でこそ「これは琴爪ゆかりというキャラクターを描く上で必要なことだったんだ」とか思っていますが、16話を見た当時は「それちょっとどうなの」と思っていました。なので、反対派の方々を説得しようなどというつもりは全くないのですけれど、暮田公平SDがこう言っていることだけはお伝えしておきたいと思います。

第16話は特殊な回でしたね。これまでは奪われたキラキラルを取り戻すための戦いだったのに、ゆかりはジュリオを引き寄せて返り討ちにしました。ジュリオが自分を狙ってくることを、ある意味で楽しみにしていたんです。もちろん「子どもたちの憧れであるプリキュアが、悪い敵相手とはいえ嘘をついてもいいのか?」という議論もあって、僕らも悩んだんですよ。でも、ああやって大胆な仕掛けをするのがゆかりらしさだろうと思いました。

アニメージュ』2017年7月号(91頁)

 

 余談が長くなりました。本筋に戻りましょう。

 とにもかくにも、抹茶マカロンを完成させたゆかりですが、例によってキラキラルを奪われ、戦闘シーンに入ります。ここで、ゆかりは鏡の世界のようなところに入り、自分の闇と向き合うことになります。

「もう苦しいのは嫌。行こう、闇の世界へ…」

「そうね。私はどうしても、いい子にはなれない。明るくて、いつも笑顔で、そんな子になれない。暗い闇が、私の心の中にあるの。認めるわ

「そうよ。もう悩むことなんかないの。闇に私は…」

「でもね。私の中には、光もあるの

 ここで「光ある」と言うのが非常に重要なところです。つまり、闇を受け入れるんですね。16話では「どんなに苦しくても、私は闇に逃げたりしないわ!私の性格は、誰のせいでもない。私が自分で選んでこうなったの!」と言っていた彼女が、「心の闇は消えない」と言う鏡の中の幼少期のゆかりに対して、「あなたはわたし… あなた、好きよ」といい、抱き締める。心の闇を認め、受け入れたわけです。*1

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 もう彼女は自分を否定しません。確かにゆかりはいちかやあきらのような「いい子」ではない。人を傷つけてしまうこともある。そういう「暗い闇」がある。けれど、キラパティという場所が、キラパティのみんなが「大好き」だという気持ちは本物です。その気持ちから「光」が生まれたことも。だから、その闇と光を混ぜて、“変身”することもできる。

 貝澤幸男SDは、各キャラクターのスイーツ要素は最初から各人の中にある「大好きなもの」だと言っています*2。そして、『プリアラ』は「出自や価値観が異なるバラバラな5人が、スイーツを通してつながる」話だと、神木優プロデューサーは言っています*3。ですから、(これはゆかりに限りませんが)ゆかりに取ってのマカロンは、自分とキラパティのみんなとを繋ぐものなわけですね。そして25話では、そのマカロンとショコラを混ぜました。あきらの「大好き」を受け入れました。けれど、先ほど述べたように、これは受け入れた段階に過ぎません。自分からその繋がりに歩み寄っているのではない。しかし、29話では自分からカラフルな世界に歩み寄ります。「楽しさは誰かから与えてもらうものじゃない。自分で作るものだった」と。そして、29話で作ったのが、抹茶マカロン。スイーツを通して繋がったキラパティの仲間たちへの「大好き」に、自分の「持っている素養」で歩み寄ったわけです。

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 さらに16話を思い返して見ると、あの時は「いちかが来たらおもしろいことになるかも。みんなでうちのお茶会に来ない?」と、自分の家へ招き入れただけだったんですね。やっぱり自分から歩み寄ったのではない。しかも、作ったスイーツはシロイルカ大福でしたから、この時点ではまだ混ぜてはいないわけです。そして、そのシロイルカ大福を添えたお抹茶を飲んだ琴爪しの(ゆかりの祖母)は、「まだまだやな」と言った。

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 つまりこういうことになります。白イルカ大福→チョコマカロン→抹茶マカロンというスイーツの変遷は、「寂しさも憤りも、誰のせいにするつもりもないわ」と闇を拒絶していたゆかりが、みんなの「大好き」を受けて少しずつ変わっていき、そこに自ら歩み寄っていく過程そのものである、と。これはもちろん、自分を受け入れたということでもありますし、「持っている素養」と「求めているものや指針」を混ぜ合わせて、“変身”するということとも重なっています。

 だから、29話で抹茶マカロンを食べた琴爪しのは、こう言うんですね。

ほんま自慢の孫です、ゆかりは…。若いから、まだ迷うことはあるやろけど、それでも自分で前に進める子なんです

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 そして、彼女の「近頃、楽しいお友達もできたらしゅうて」という言葉と共に、舞台はキラパティへと移ります。

 さて、ここがまた29話のすごいところで、抹茶マカロンを作る前と同じ構図を使うんですね。同じです。全く同じ。ただ、一人だけ変わった人がいる。もちろん琴爪ゆかりです。

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 他の人たちは何も変わっていません(並び順が違うぐらい)。ただゆかりだけが変わった。「完璧かどうかはわからない。けど、私、このマカロン好きだわ」と言えるほどに。だから空は晴れ渡っているし、劇伴も流れている。そして、この2カットの差異だけで、琴爪ゆかりただ一人の変化がいかに大きなものかということが示されている。絵コンテを切ったやしろ駿(山口祐司)さん。演出を担当された芝田浩樹さん。16話、25話、29話、その他ゆかりとジュリオに関わるほとんど全ての回の脚本を書いていらっしゃる坪田文さん。及び、子どもに夢を届けることを真剣に考え、真摯に作品と向き合っているスタッフ・キャストの皆さんに、最大級の賛辞を呈したいと思います。

*1:さらっと書きましたが、心の闇を振り払うのではなく、むしろ受け入れるべきものとして描いているのが本当にすごいところ。16話までのカッコいいゆかりの方が好きという向きもそれなりに多いような気がしますが、琴爪ゆかり自信の幸せを考えると、みんなの「大好き」を通じてゆかりも少しずつ自分を受け入れ、好きになっていく、というストーリーが一番自然なように思えます。

*2:アニメージュ』2017年6月号、100頁 (これはゆかりの言う「退屈」の対義語としての「好き」ではなく、普通に食べ物の好き嫌いの好きです。と思います)

*3:アニメージュ』2017年3月号、91頁