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【キラキラ☆プリキュアアラモード】琴爪ゆかりの“変身”について(16話→29話)

 お気づきの方もたくさんいらっしゃるとは思うのですけれど、『プリアラ』16話と29話の対応関係について少しお話したいと思います。

 

 スイーツパクトで混ぜているもの

 まずは前提として、スイーツパクトで混ぜているのは「持っている素養」と「求めているものや指針」であるということだけ確認しておきます。ピクシブ百科事典にも書かれていますが、せっかく手元に出典元の雑誌があるので、そこから引いておきましょうか。

暮田 「◯◯と△△を!レッツ・ラ・まぜまぜ!」ですね。2つの色を混ぜてひとつの色にする玩具の仕様から、混ぜ合わせる2つの色は各キャラクターの2つの要素だろうとみんなで考えました。たとえばカスタードなら「知性と勇気を!」ですが、その子が「持っている素養」と「求めているものや指針」を組み合わせています。

アニメージュ』2017年6月号(100頁)

 つまり、琴爪ゆかりの場合は、「持っている素養」が「美しさ」、「求めているものや指針」が「トキメキ」ということになります。ゆかりは何でもそつなくこなせる反面、「大好き」なものがない人ですから、「求めているもの」が「トキメキ」だというのもよくわかりますね。

 

第16話「キケンな急接近!ゆかりとリオ!」

 ではまず16話からいきましょう。16話でのリオとの会話からも、ゆかりが「トキメキ」を求めていることがわかります。

リオ 「ゆかりさんの気持ち、オレわかるよ。何でもできる。でもこれといった特技はない。だって、自分から本当に何かをしたいと思う気持ちがないから、好きにしろと言われても困ってしまう。その苦しさを紛らわすために、つい人の心を試してしまう。どう?」

ゆかり「あなたにはわかるのね…。私には、年の離れた姉がいるの。家のことは姉が継ぐから、私は勝手気ままに過ごせてる。けど、それが余計に苦しくて…」

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 まあ姉の話は黒樹リオの正体を暴くための嘘だったわけですが、リオが言っていることは当たっています。5人(現在は6人)の中でゆかりだけが唯一「大好きなもの」がない。故に「トキメキ」を求めているわけですから。ともあれ16話では、ゆかりが「どんなに苦しくても、私は闇に逃げたりしないわ」と言い放ち、それなりにカッコいい感じでジュリオとの勝負に勝ちました。

確かに、両親も祖母も、私に好きに生きろと言ってる。それが苦しい時もある…。けどね、どんなに苦しくても、私は闇に逃げたりしないわ!私の性格は、誰のせいでもない。私が自分で選んでこうなったの!寂しさも憤りも、誰のせいにするつもりもないわ! ま、結構当たってるところも多かったわよ。心理分析。

 けれど、これ実はあまりいい終わり方ではないんですね。幕引きも不穏ですし、少なくともハッピーエンドではない。後で詳しく述べることになると思うので、ここでは戦闘シーン終了後のゆかりの表情にだけ触れておきましょうか。明らかに何かを抱えたまま、何かが解決しないままであることがわかります。

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第25話「電撃結婚!?プリンセスゆかり!」

 29話の前にちょっとだけ25話についても触れておきます。25話はコンフェイト公国のナタ王子と剣城あきらがゆかりを賭けて争うという、なんだか百合漫画みたいなお話でしたが、16話で「逃げたりしない」と決めた「闇」がこの回で再び表出するんですね。そして、「真っ直ぐ」ないちかやあきらに対するある種の劣等感も描かれることになる。16話での戦闘の際にジュリオが言った「構って欲しいくせに強がるなよ。本当は弱いくせに」という言葉の回想と共に、ゆかりはこう言うのでした。

ジュリオの言うことは当たってた。だから彼を傷つけた。私は、自分の心が傷つく前に、彼を傷つけて自分を守ったの。がっかりしたでしょう。いつもこうなのよ、私。なのに、あなたも、いちかも…。そんなに真っ直ぐ、私を見ないで。

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 けれど、ゆかりはあきら達の「好き」を受け入れ、一歩前に進みます。16話と違って、彼女の表情に寂しさの影はありません。

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 ただ、25話は「好き」を受け入れた段階に過ぎません。“受け入れた”ということと、“自分から歩み寄った”ということは違う。彼女はあきらの「大好き」を、ただ泣いて受け入れることしかできませんでした。だから、16話と同様、これもハッピーエンドとは少し違うんですね。最後のゆかりの言葉は、祈りのようなものです。

私は、まだ恋をしたことがないから、自分の心がよくわからない。けど、みんなと作ったチョコマカロンに、私のトキメキがあるんです。そのトキメキを大切にすれば、いつか…。 

 

第29話「大ピンチ!闇に染まったキュアマカロン!」

 それでは、ここからが本題ということになるでしょうか。16話、25話を踏まえつつ、29話を追っていきましょう。

 まずAパートの、抹茶マカロンを作り始める前のところなんですが、絵だけ見ればいつも通りの楽しい感じなんですね。『ハトプリ』に近いような、画面に落ち着きのないあの感じ。稲上晃さんの作画も相変わらずすごい。ですが、ゆかりは少し退屈そうに髪をいじっている。そして天気は雨。こうして画像を引用するといかにも楽しそうですけれど、劇伴はなし、BGMは雨音だけです。

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 けれど、抹茶マカロンを作り始めるとすぐに劇伴が流れ出す。そして、作り終わる頃には、空はすっかり晴れ渡っています。

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 ところで、この抹茶マカロン作りに際して、「マカロンは、完璧にはできないわ」と乗り気でないゆかりに対し、シエルはこう言いました。

ゆかり、完璧なスイーツって何?何をもってパーフェクトと呼ぶか、それは人の心によって変わるのよ 

 少し話が逸れますが、ゆかりとピカリオ(ジュリオ)の関係性って、本当によくできているんですよね。かなり乱雑な言い方ですが、仮に「才能」という言葉を使って言えば、ゆかりは「“才能”はあるけれど“好き”がない」、ピカリオは「“好き”はあるけれど“才能”がない」ということになる。全く対照的なわけです。けれど、それ故に非常に似通っている。2人とも、自分の持っていないものからくる劣等感のせいで、「大好き」な人たちへの一歩を踏み出せずにいる。だから、ゆかりに対して歩み寄るのは、いつもシエルなんですね。25話でも他ならぬシエルがゆかりとあきらの手を繋ぎました。

シエル「言葉できちんと伝えなければならないこともある。どんなに通じ合っていると思っていても、心はすれ違ってしまう時がある」

あきら「シエルちゃん…」

シエル「“大好き”…。言葉にするとシンプルだけど、言われたら心がキラキラする。素敵な言葉じゃない?」  

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 ですから、16話でゆかりが嘘の姉の話をした時、リオはかなり嬉しかったんだと思うんですね。改めて見返すと、見下したような笑い方ではなく、悲しさと嬉しさの入り混じったような、複雑な表情をしている。目の震え方とかも、何とも言い難い切なさがある。姉なんて言われたらどうしたってキラリンのことを思い出してしまいますし、やっぱりゆかりはジュリオを傷つけたわけです。 

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 だからこそゆかりは責任を感じているわけですけれど、こうして嘘を吐いたことに対しては、恐らく賛否両論あるのだと思います。私も今でこそ「これは琴爪ゆかりというキャラクターを描く上で必要なことだったんだ」とか思っていますが、16話を見た当時は「それちょっとどうなの」と思っていました。なので、反対派の方々を説得しようなどというつもりは全くないのですけれど、暮田公平SDがこう言っていることだけはお伝えしておきたいと思います。

第16話は特殊な回でしたね。これまでは奪われたキラキラルを取り戻すための戦いだったのに、ゆかりはジュリオを引き寄せて返り討ちにしました。ジュリオが自分を狙ってくることを、ある意味で楽しみにしていたんです。もちろん「子どもたちの憧れであるプリキュアが、悪い敵相手とはいえ嘘をついてもいいのか?」という議論もあって、僕らも悩んだんですよ。でも、ああやって大胆な仕掛けをするのがゆかりらしさだろうと思いました。

アニメージュ』2017年7月号(91頁)

 

 余談が長くなりました。本筋に戻りましょう。

 とにもかくにも、抹茶マカロンを完成させたゆかりですが、例によってキラキラルを奪われ、戦闘シーンに入ります。ここで、ゆかりは鏡の世界のようなところに入り、自分の闇と向き合うことになります。

「もう苦しいのは嫌。行こう、闇の世界へ…」

「そうね。私はどうしても、いい子にはなれない。明るくて、いつも笑顔で、そんな子になれない。暗い闇が、私の心の中にあるの。認めるわ

「そうよ。もう悩むことなんかないの。闇に私は…」

「でもね。私の中には、光もあるの

 ここで「光ある」と言うのが非常に重要なところです。つまり、闇を受け入れるんですね。16話では「どんなに苦しくても、私は闇に逃げたりしないわ!私の性格は、誰のせいでもない。私が自分で選んでこうなったの!」と言っていた彼女が、「心の闇は消えない」と言う鏡の中の幼少期のゆかりに対して、「あなたはわたし… あなた、好きよ」といい、抱き締める。心の闇を認め、受け入れたわけです。*1

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 もう彼女は自分を否定しません。確かにゆかりはいちかやあきらのような「いい子」ではない。人を傷つけてしまうこともある。そういう「暗い闇」がある。けれど、キラパティという場所が、キラパティのみんなが「大好き」だという気持ちは本物です。その気持ちから「光」が生まれたことも。だから、その闇と光を混ぜて、“変身”することもできる。

 貝澤幸男SDは、各キャラクターのスイーツ要素は最初から各人の中にある「大好きなもの」だと言っています*2。そして、『プリアラ』は「出自や価値観が異なるバラバラな5人が、スイーツを通してつながる」話だと、神木優プロデューサーは言っています*3。ですから、(これはゆかりに限りませんが)ゆかりに取ってのマカロンは、自分とキラパティのみんなとを繋ぐものなわけですね。そして25話では、そのマカロンとショコラを混ぜました。あきらの「大好き」を受け入れました。けれど、先ほど述べたように、これは受け入れた段階に過ぎません。自分からその繋がりに歩み寄っているのではない。しかし、29話では自分からカラフルな世界に歩み寄ります。「楽しさは誰かから与えてもらうものじゃない。自分で作るものだった」と。そして、29話で作ったのが、抹茶マカロン。スイーツを通して繋がったキラパティの仲間たちへの「大好き」に、自分の「持っている素養」で歩み寄ったわけです。

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 さらに16話を思い返して見ると、あの時は「いちかが来たらおもしろいことになるかも。みんなでうちのお茶会に来ない?」と、自分の家へ招き入れただけだったんですね。やっぱり自分から歩み寄ったのではない。しかも、作ったスイーツはシロイルカ大福でしたから、この時点ではまだ混ぜてはいないわけです。そして、そのシロイルカ大福を添えたお抹茶を飲んだ琴爪しの(ゆかりの祖母)は、「まだまだやな」と言った。

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 つまりこういうことになります。白イルカ大福→チョコマカロン→抹茶マカロンというスイーツの変遷は、「寂しさも憤りも、誰のせいにするつもりもないわ」と闇を拒絶していたゆかりが、みんなの「大好き」を受けて少しずつ変わっていき、そこに自ら歩み寄っていく過程そのものである、と。これはもちろん、自分を受け入れたということでもありますし、「持っている素養」と「求めているものや指針」を混ぜ合わせて、“変身”するということとも重なっています。

 だから、29話で抹茶マカロンを食べた琴爪しのは、こう言うんですね。

ほんま自慢の孫です、ゆかりは…。若いから、まだ迷うことはあるやろけど、それでも自分で前に進める子なんです

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 そして、彼女の「近頃、楽しいお友達もできたらしゅうて」という言葉と共に、舞台はキラパティへと移ります。

 さて、ここがまた29話のすごいところで、抹茶マカロンを作る前と同じ構図を使うんですね。同じです。全く同じ。ただ、一人だけ変わった人がいる。おわかりですね。もちろん琴爪ゆかりです。

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 他の人たちは何も変わっていませんよ(並び順が違うぐらい)。ただゆかりだけが変わった。「完璧かどうかはわからない。けど、私、このマカロン好きだわ」と言えるほどに。だから空は晴れ渡っているし、劇伴も流れている。そして、この2カットの差異だけで、琴爪ゆかりただ一人の変化がいかに大きなものかということが示されている。絵コンテを切ったやしろ駿(山口祐司)さん。演出を担当された芝田浩樹さん。16話、25話、29話、その他ゆかりとジュリオに関わるほとんど全ての回の脚本を書いていらっしゃる坪田文さん。及び、子どもに夢を届けることを真剣に考え、真摯に作品と向き合っているスタッフ・キャストの皆さんに、最大級の賛辞を呈したいと思います。

*1:さらっと書きましたが、心の闇を振り払うのではなく、むしろ受け入れるべきものとして描いているのが本当にすごいところ。16話までのカッコいいゆかりの方が好きという向きもそれなりに多いような気がしますが、琴爪ゆかり自信の幸せを考えると、みんなの「大好き」を通じてゆかりも少しずつ自分を受け入れ、好きになっていく、というストーリーが一番自然なように思えます。

*2:アニメージュ』2017年6月号、100頁 (これはゆかりの言う「退屈」の対義語としての「好き」ではなく、普通に食べ物の好き嫌いの好きです。と思います)

*3:アニメージュ』2017年3月号、91頁

曲がり角の向こうへ (『アイカツスターズ!』と『赤毛のアン』)

※『アイカツスターズ!』はもちろんのこと、『赤毛のアン』のネタバレも多分に含みます。予めご了承ください。

 

 

 

 にちょっと書いたのですけれど、『アイカツスターズ!』48話には、白銀リリィが『赤毛のアン』を引用する場面があります。

私の愛する赤毛の少女はこう言いました。「今、曲がり角にきたの。曲がり角の先に、何があるのかはわからない。けど、きっと一番いいものに違いないわ」と。あなたは、誰のものでもない、本当の自分だけの道を歩みはじめたのです。

第48話「わたしだけの歌」

 23話にもあります。

リリィ「この世に好きなものがあるって素敵じゃない?」

ゆず 「ん?それって名言?」

リリィ「歌っている時にいつも頭に浮かぶ、アンの言葉です。久々に思い出しました。この機会を与えてくれたゆずに感謝します」

ゆず 「どういたしまして!だ〜ゾ!」

第23話「ツンドラの歌姫、降臨!」

 それで、まあ『スターズ』が直接の原因ではないのですが、いろいろあって『赤毛のアン』をちゃんと読もうと思い立ちまして、最近ずっと読んでたんですね。そしたらこれがもう本当に素晴らしい。あまりに有名過ぎる作品なので、私がどうこう言うことでもないと思うのですが、『アイカツ!』とか『ARIA』とか好きな人は絶対好きだと思うので、読んだことない人は是非読んでいただければと思います。私は松本侑子さんの訳(集英社文庫)で読んだのですけれど、松本さんの脚註は驚くほど細かいところまで調べられていて、シェイクスピアをはじめとしたいろんな英文学にも間接的に触れられるので、英文科の学生にもおすすめです。(赤毛のアンに隠された英米文学 - 松本侑子ホームページ)

 

 本題に入りましょう。上の48話の引用箇所ですが、リリィはS4戦で自身を抜いて1位に躍り出た桜庭ローラに対してこの言葉を送りました。この時何も知らなかった私は、普通にローラへの賛辞の意を表した言葉だと思っていました。ところが、アン・シャーリーは大学進学を辞退することを決意した際にこの発言をします。ですからこの「曲がり角」の科白は、もちろん非常に前向きで希望に満ちたものでもありますが、ある種の不幸や諦念からきた言葉でもあるわけです。

クィーン学院を出た時は、私の未来は、まっすぐな一本道のように目の前にのびていたの。人生の節目節目となるような出来事も、道に沿って一里塚のように見わたせたわ。でも、今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるか分からないけど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ。それにマリラ、曲がり角というのも、心が惹かれるわ。曲がった先に、道はどう続いていくのかしらって思うもの。緑に輝くきれいな森をぬけて、柔らかな木漏れ日がちらちらしているかもしれない。初めて見る新しい風景が広がっているかもしれない、見たこともないような美しいものに出逢うかもしれない、そして道は曲がりながらどこまでも続き、丘や谷が続いているかもしれない

 白銀リリィは、S4戦で敗北した際にこの科白を引用しましたが、S4戦のステージに立つ前のリリィには、自身のブランドのプレミアムドレスを身に纏い、ゆずと共にステージに立つ自分の姿が、それこそ「まっすぐな一本道のように」はっきりと見えていたことでしょう。

私はこれまで、必要以上の野心を持たないようにしてきました。既に自分のブランドを持つという願いも叶ったのですから。けど今は、新しい野心に突き動かされています。S4になって、自分だけのプレミアムドレスに身を包み、もっと、ゆずと一緒に歌いたい。

第48話「わたしだけの歌」

 けれど、その夢は破れ、S4になることも永遠に叶わなくなってしまった。思い描いていた未来は、ここで絶たれることになります。これはもちろん、最良の結果ではありません。S4になれるのなら、それが一番いいに決まっています。しかしながら、これは道の終わりでもありません。“曲がり角”の向こうには、未だ見ぬ景色が広がっている。だからこそ、彼女はこの言葉を選んだのでしょう。彼女の愛する赤毛の少女と同じように、彼女の“想像力”も決して失われることはない。そして、S4になれなかった白銀リリィは、四ツ星学園で誰よりも早く星のツバサを降ろしました。

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 日々アイカツに励む彼女たちと同じように、私たちの胸の内にも、何か「こうなりたい」とか、「これが私にとっての幸せだ」みたいな考えがあります。そしてそれは、恐らく夢や目標の大きい人ほど明確で、先まで真っ直ぐに見渡せる。そのこと自体はもちろんとてもいいことで、その夢が叶えば、きっと何ものにも代え難い歓びになります。けれど、それ以上のものがないなんて保証は、実はどこにもない。最上のものを知るには、世界はあまりに大きすぎるし、私たちは小さすぎます。

 『スターズ』は2年目で舞台を大きく世界に広げました。元S4の面々は、続々と世界に向かって羽ばたいて行きました。けれど、アンがマシューの死を目の当たりにしたように、恐らく世界は“きれいな物”ばかりではない。昨日まではっきりと見えていた道が、急に見えなくなることもある。でも、それを“全部抱きしめ”た先には、また新しい道が続いている。見たことのない景色が広がっている。そしてもちろん、“願いは負けたりしない”。だからこそ、その先にあるものが「一番いいものに違いない」と信じて、その不確定性の中に夢を見出していく。“根拠のない自身を カードに詰め込んで”、ひとひらの羽ばたきが“やがて風になる”と信じて。『スターズ』の生き方って、きっとそういうものだと思うのです。

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 さて、アン・シャーリーは大学進学を辞退して、アヴォンリーに残ることを選んだわけですが、エイヴリー奨学金の受賞者が決まる試験の結果発表前にはこんなことを言っていました。

とにかく、最善は尽くしたし、『健闘する歓び』* も分かりかけてきたわ。努力して勝つことがいちばんだけど、二番めにいいのは、努力した上で敗れることなんだわ。

 

 

 

 

目覚めてる夢に向かって:ソレイユと『Good morning my dream』(改訂版)

紙媒体向けに編集していたことと、40話「ガール・ミーツ・ガール」を観返していて思うところがあったことと、とにかくいろいろあって書き直しました。すいません。一応以前に書いた「3つの星と新しい輝きのメロディー」の続きになります。(2017.07.23)

 

 さて、「3つの星と新しい輝きのメロディー」では “〈夜空→太陽〉への移行は明日へ向かうことである”という話をしました。この記事では、その“動き始めた”太陽の軌道を追っていきたいと思います。

 先に断っておきたいのですが、『Good morning my dream』は、取りも直さず『あかりジェネレーション』の歌です。いちご世代とあかり世代のテーマの相違については以前に書きました。しかしながら、ここでは敢えて“ソレイユ”という人称を固定して『Good morning my dream』を読むということを試みたい。この意図は、歌詞の意味を解釈し固定することではなく、歌詞を通して物語を照らすことにあります。

A word is dead

When it is said,

Some say.

I say it just

Begins to live

That day.

 

言葉は死ぬ

口にしたときに

という人がいる。

私は言う、まさに

その日に

生きはじめると

Emily Dickinson 

 

 では本題に入りましょう。『Good morning my dream』にソレイユという人称が介入すると、「朝」という言葉に新しい意味が浮かび上がってきます。すなわち、朝というのは太陽が昇る時ですから、これはソレイユが動き出したことを歌っている歌だということになるわけです。ソレイユの掛け声は「ソレイユ ライジング!」でした。「新しい服に着替え」、「未来ごと深呼吸」して、「南の空」へと向かっていく。そんな彼女たちの緊張と高揚感が読み取れます。

 より具体的に本編と重ねて言及していきましょう。

大事な決意はきっと ずっと前にしたの

今までと、これからに いちばん似合う朝を待っていたね

 このパートを歌っているのは紫吹蘭です。ソレイユ結成に際しての蘭についてのあれこれは、に述べました。“3人でライブに出ようとはじめて言い出したのは蘭だった”ということも確認しました。ですから、「大事な決意」はきっと、その頃から固まっていた。「今までと、これからに いちばん似合う朝」=ソレイユ結成の瞬間を、彼女はずっと待っていた。もちろんこれは、紫吹蘭1人だけの夢ではありません。「夢にあつまって」スターライト学園で出会い、そこではじまった毎日の中で、3人の夢=ソレイユは「目覚めてた」のです。ここで“friend”と“dream”は、ほとんど同じ意味を持つことになります。なぜなら、彼女たちの夢は、日常の中で生まれた、日常と地続きのものだから。そして「ソレイユを続けること」自体が夢なのだから。したがって、その形になった大きな夢に対する挨拶は「おはよう」でしかあり得ないということになるでしょう。 

扉をあけて出会いにいくよ

(いちご)夢にあつまって

(蘭)はじまる毎日

(あおい)目覚めてたmy dream

おはよう、わたしの大切なfriend 

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 さて、続くは2番のAメロですが、ここはもう言うまでもないかと思います。

あの時ね気づいたの これだってわかったの 世界が生まれかわるくらい

大きな声で呼びかけた 振り向いて欲しくて

 ここを蘭が歌うと、「あの時」が37話「太陽に向かって」のあの時だということになってしまう。自分の進む道を自分で決めた、「これだってわかった」あの時の変化は、まさに「世界が生まれかわるくらい」のものでした。

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 ところで、これは本当にどうでもいいことですが、私の推しは霧矢あおいです。でも、ソレイユの話をすると、不思議なぐらい紫吹蘭の話ばかりになってしまう。それだけ蘭の成長・変化はソレイユ結成と不可分なのだということだと思います。

 というか、そもそもいちごとあおいに関していえば、ある意味では一切の迷いもなかったかのではないかとさえ思うことがあります。ここで、編入試験合格後、はじめて学園の門をくぐる時のいちごとあおいのやり取りを思い出してみましょう。 

あおい「この門を越えたら、私たちのアイカツが本当にはじまる。いちご、一緒に頑張ろうね」

いちご「うん。やるからにはやる!一緒にトップアイドルになろう」

あおい「……どんなことがあっても友達だよ、いちご」

第2話「アイドルがいっぱい!」

 初期は一緒に上がっていけるかどうか、思い悩んでいた時期でした。美月や蘭に厳しい言葉を言われたこともありました。けれど、いちごとあおいはきっとずっと前から、それこそ小学5年生の夏から、根幹はブレていなかったのではないかと思います。

 ここで一度事実確認をしておきましょう。星宮いちごがスターライト学園に入ったきっかけは、紛れもなく霧矢あおいです。もちろん美月のステージを観て憧れたことも大きな理由ではありますが、あおいに誘われなければそもそもステージを観に行くことすらありませんでした。編入試験を受けようと誘ったのも、やっぱりあおいです。

 そして、霧矢あおいがアイドルになりたいと思ったきっかけも、やっぱり星宮いちごです。他ならぬいちごが、あおいを「見る側」から「見られる側」に引きずり込んだのでした。

あれは私がはじめてステージに立った瞬間で、はじめて見る側から、見られる側に回った瞬間。それからなんです。アイドルになりたいと思ったのは。今日まで私を導いてくれたのは、親友の星宮いちごなんです。

第40話「ガール・ミーツ・ガール」

 つまりどういうことかというと、レジェンドアイドルの血を引くいちごや、「アイドル博士」と呼ばれるあおいを突き動かしたのは、“血筋”でも“憧れ”でもなく、“友達”であるということです。導いてくれた親友を、2人が一瞬でも忘れたことがあったとは私には思えません。

 もちろん、2人の関係はここで終わるわけではありません。そこからはじまる毎日がある。新しく出会う仲間がいる。新しく目覚める夢もある。「光の向こうは 世界とつながる」のです。

 さて、かくして出会った3人の「目覚めてた」夢は、37話で形を成し、南の空へと動き始めました。その際、太陽に向かって走ってきた蘭が言った一言を、皆さんは覚えていますでしょうか。 

 

一緒に走り続けたい、仲間がいるから

 

 もうこれ以上の説明は野暮というものでしょう。全ては歌が語ってくれています。

扉をあけて出会いにいこう

(あおい)光の向こうは

(いちご)世界とつながる

(蘭)駆け出してmy dream

どこまでもキミと走っていたい  

 

 

 そして、駆け出した夢は、「ソレイユを続けること」という、進行形の「目覚めてる」夢になりました。最後は、その「目覚めてる」夢の向かう先を見据えて終わりたいと思います。

あおい「経験したことのない、大規模なツアーだけど」

いちご「きっと走りきれる、あおいと蘭が、隣にいてくれるから」

あおい「私も、いちごと蘭と一緒なら、怖いものなし!」

蘭「ああ、あたしもだ!一緒に走りきって、ずっと一緒に走り続けたい」 

いちご「いつの間にか、それは私たち3人の夢になってたね」

蘭「ああ、ずっと前から決まってたみたいにな」

あおい「じゃあ!どこまでも走っていっちゃいましょうか!」

3人「ソレイユ ライジング!」

第125話「あこがれの向こう側」

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 ここで、『Wake up my music』のこの歌詞を思い出してみましょう。

繋いだ手のひらはもう 自然なカタチ

少しずつ、でも最初から 決まってたみたい  

 「ずっと前から決まってたみたい」な夢を走りはじめたソレイユの3人は、この先何があっても、もう大丈夫なのだと思うのです。だって織姫学園長と星宮りんごは、あるいは神崎美月と夏樹みくるは、今でも一緒に走り続けているのですから。

 そんなマスカレードの世代からあかり世代までずっと受け継がれてきたSHINING LINE*を30分に詰め込んだようなエピソードが、173話「ダブルミラクル☆」でした。ソレイユの夢の成功を祈る意味でも、同話からの引用で、ここはひとまず締め括りたいと思います。

織姫 「ステージで心を一つにしたものは、いつだってまた一緒になれるわ」

りんご「私たちみたいにね」

第173話「ダブルミラクル☆」

 

【進撃の巨人】生類視覚効果という心理描写 (6月14日追記)

 『進撃の巨人』Season2の放送がはじまりました。第1期から4年弱。『甲鉄城のカバネリ』の制作も経て、映像技術は大きく進歩を遂げたように思います。なんといってもあの緊迫感。ついつい入り込んでしまって、ただの2Dの四角い画面とは思えないほどの迫力があります。今回はその技法の話です。

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 技法の話をするにあたって、まずは日本のアニメの特徴について少し言及しておきたいと思います。詳しくは高畑勲氏の「60年代頃の東映動画が、日本のアニメーションにもたらしたもの」という論文に、3コマ撮り、止め絵の多用などの「欧米とは異なる日本的娯楽アニメーション」の性質や、作画監督制をはじめとした「メインスタッフ中心主義」的な「日本型作画制作システム」などなど詳しく書かれていますので、興味のある方はそちらを読んでいただければと思います。大塚康生著『作画汗まみれ』(文春ジブリ文庫)に収録されています。

 ここで取り上げておきたいのは日本のアニメには演技(芝居)が少ないということと、視点が近く主観的であるということです。ここでいう演技とは役者の演技ではなくアニメーターの演技、すなわち動きによってキャラクターの特徴を描写する演技のことです。簡単に言ってしまえば、日本のアニメは動かないということですね。*1

演技に関しては、人間中心の内容や感情移入しやすい主人公作りという側面だけではなく、欧米に比べて表情・身振り・言葉など、あらゆる面でもともと平板で抑制的な日本民族の性格を反映し、日本人を描く作品でなくとも、アメリカンアニメーションの特徴である過剰な流動感や、台詞と結びついた誇張の大きな動きはあまり取り入れなかった。また、主人公でなくとも、アメリカ型の誇張演技は日本製のキャラクターや日本語には似合わなかったし、あまりにわざとらしく感じられた。〈中略〉そして作画枚数節約の至上命令のもとに、①動きの基本は三コマ撮り(一秒間八枚で動きを作ること)、②止め絵多用、③止め絵口パク三枚による台詞が一般化し、緻密な動き・演技よりはいかにカッコイイポーズを描くかが要求されるようになる。

『作画汗まみれ』(文藝春秋、2013年、363-364頁) (太字引用者)

 動かすと枚数が増えるので、当然作画の負担も増えるということになります。ところが、上半身や顔のアップで口パクや目パチを合成すれば、作画枚数は格段に少なくなる。しかも、あまり動かない絵の方が日本製のキャラクターには合っている。そうして「緻密な動き・演技よりはいかにカッコイイポーズを描くか」を追求していくと、必然的にカメラは近くなり、遠くに構えたカメラでキャラクターの全身の動きを客観的に捉えるということは少なくなっていきます。*2

 試しに『白雪姫』を見てみましょう。全体的に流動的で動きが細かく、カメラが遠い感じがしませんか。

 逆に日本のアニメは、全体的にカメラが近く、キャラクターの動きに連動した主観的なカットが多いということがおわかりいただけるかと思います。*3 まあ『白雪姫』と『進撃の巨人』を比べるのもどうなんだという感じはしますが…。

 

 また高畑勲氏は、安易に作品世界に没入させ、主人公に感情移入させようとする日本のアニメの傾向に対し、警笛を鳴らしてもいます。

アメリカ随一の宮崎ファンを自称するジョン・ラセターの『トイ・ストーリー2』やブラッド・バードの『アイアン・ジャイアント』、さらにはニック・パークの『ウォレスとグルミット』の連作など、極上質の娯楽作品がハリウッドその他で生まれはじめている 。これらは、見る子どもたちが超人的な主人公に直接感情移入する(自分が主人公になった気分で作品の世界に没入する)のではなく、他者としての主人公に〈思いやり〉的に感情移入する作品であって、その主人公との適度な距離が「笑い」をも呼び起こすのである。

 現実世界の代用品として、のめり込むように映像を見ることの多い日本の子どもたちの異常な現状を考えるとき、これらの海外作品の示す傾向から深く学ぶべき時が来ているのではなかろうか。

『作画汗まみれ』(374頁) (太字引用者)

 大分かいつまんだ引用になってしまいましたが、あまり長くしすぎると本題に入れなくなりそうなのでこの辺にしておきます。上に見た日本のアニメの特徴の是非を論じるつもりもありません。ともかく「緻密な動き・演技」より「いかにカッコイイポーズを描くか」を追求し、近いカメラで主観的に「作品の世界に没入」させること。こういったことが日本人の性分に合っていて、予算の節約にもなり、毎クール何十本もアニメを量産することを可能にしているということは事実なわけです。

 で、『進撃の巨人』みたいな作品をアニメ化する際は、いかにして作品世界に没入させるかが大きな課題になってくる。間違っても「主人公との適度な距離」なんて感じさせてはいけないわけです。そこで重要な役割を果たしているのが、『甲鉄城のカバネリ』のメイクアップアニメーターを受け継いだ、生類視覚効果という役職です。

 生類視覚効果の基本的な仕事はディテールを盛ること。影や色を加えたり、手描きで毛のブラシを追加したり、目の血管とか細かく描き入れちゃったりする。それが生類視覚効果のお仕事です。『アニメージュ』2017年3月号に生類視覚効果班長の山崎千恵さんのインタビューが載っています。視覚効果を入れる前と後との比較画像も何枚か掲載されているので、気になった人は買ってみてください。

—どんな映像の方向性を目指して作業を?

山崎  巨人がそこにいる感覚ですね。きっと目の前に巨人がいたら、嫌だと思うんです(笑)。その本能的な嫌悪感、見たくないものを調査兵団のみんなは直視しなきゃいけないわけで。

ーその感覚を、観客にも共有させるように?

山崎  そうですね。近くにモノがあると細部まで見えますよね。たとえば机の木目は遠くからだと見えないけれど、近くに寄ればよるほどよく見えるようになります。そういう感覚でディテールを描き込むことで、巨人が本当に目の前にいると感じてもらえるように。

アニメージュ 2017年3月号』(53頁)

 これは、日本のアニメだからこそ生まれた発想だと思います。「現実世界の代用品として、のめり込むように映像を見る」ことを前提に、止め絵の迫力で勝負しているわけです。興味深いのは、近くに寄った感じを出すためにディテールを描き込んでいるということ。ここにはある種文学的な技巧を見ることができます。

凡庸な作家たちが一体に心理描写を好むのは、それがまた、人生ときわめて親和的な要素だからではある。われわれも、凡百の作中人物と同じく、あれこれ心に呟きながら現実を生きているわけです。ところが、いわばテクストに固有の現実というものに目を凝らすと、その凡庸な親和性がやはり、たちどころに瓦解する。すなわち、「彼は心ひそかに××と思った」と書くやいなや、その「××」は、もう心内の秘密ではなくなってしまう。それはすでに、読者によって読み取られているわけですから。したがって、心の中の言葉を秘匿されたものとして書くというのは、それ自身非常に矛盾しているわけですよ。

渡部直己『小説技術論』(河出書房新社、2015年、284頁) (傍点を太字に置換)

 これとは全然違うことですが、映像においても何かが視聴者に見られているということは、 作品世界の物理的なリアリズムを超えた影響力を有しています。人間と巨人の戦いを少し離れたところからカメラが捉えているような構図であっても、細部まで細かく描かれ、見えているということによって、私たちは近寄った感じを与えられるわけです(文学において特定の対象物と読者との距離を決めるのも、もちろん描写です)。

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 ですから、全篇一人称で書かれた小説でなくとも、対物描写は得てしてそのまま心理描写になり得る。「これは誰々の目線から見た巨人だ」などということを明示しなくとも、描かれているということ自体が映像と視聴者との関係において、キャラクター達の心情を表すことになるのです。カメラと対象の物理的距離は、ここでは問題ではありません。客観と主観の区別自体が消滅した、映像テクストに固有の現実というものがそこには展開されている。そして気づけばそこに入り込んでいる。『進撃の巨人』に感じるある種の立体感はそういうものだと思うのです。*4

*1: (6月14日追記)
 ここで「動かない」という言葉が悪い意味で使われているわけではないということをご理解ください(もちろんいい意味で使っているというわけでもありません)。当たり前のことですが、日本にも素晴らしいアニメーターの方々はたくさんいます。ほとんどがアフレコでリップシンクをしていないことを指摘される方もいるかもしれませんが、宮﨑駿はピクサージョン・ラセターに、「アフレコのいいところは、アニメーターが描き上げた最高の到達点が話すことにまで指導力を持つことができるということであって、ただ予算節約のためだけにやっているのではない」という主旨の発言をしています(『ラセターさん、ありがとう』)。

*2:3DCGアニメーションが日本に普及しないことも「平板で抑制的な日本民族の性格を反映」しているのかもしれません。

*3:この辺りのことは、叶精二著『『アナと雪の女王』の光と影』(七つ森書館、2014年)に、ピクサーが日本から受けた影響なども含めて詳しく書かれているので、そちらを参照していただければと思います。

*4:「他者としての主人公に〈思いやり〉的に感情移入する作品」も、少なくとも2017年現在の日本にはいくつかあるように思うのですが、その一つが今年公開された『映画プリキュアドリームスターズ!』です。登場人物たちがこっちの世界に語りかけてきて、観客を否応なく巻き込んでいくわけですが、3つのプリキュアそれぞれの世界と桜が原を行ったり来たりすることもあって、劇中世界と現実世界の区別ははっきりしていました。(私たちのいる世界を遭遇し得る世界の一つとして位置付けていた、といった方が的確かもしれません。)「笑い」の要素も多分に含まれていたと思います。こういう子ども向けの作品は確かにもっと必要かもしれません。

3つの星と新しい輝きのメロディー (トライスター編の糸を手繰る)

 トライスター編は、誤解を恐れずに断言すれば、異質です。『アイカツ!』全体を通してこれほどシリアスなエピソードは他に例がありません。木村監督は「コメディーはコメディーでも、重たいコメディーにはしたくないと思って、すみずみまで気を使いました」*1と言っているのに、トライスター編ははっきり言って重たい。神崎美月が悪役として嫌われてしまう可能性だって考えられるし、トライスター結成後の忙しさの演出も、蘭の退寮や深夜まで続くレッスンなど、不自然に感じてしまうほどに過剰です。ですが、『アイカツ!』ほどの作品が、意味もなく物語をシリアスにし、「かわいそう」なキャラクターに強制的に感情移入させ、徒に涙を煽るようなことをするはずがありません。では、トライスター編は何故必要だったのか。トライスター編に纏わるユニット結成の意義とキャラクターの成長を考えてみたいと思います。

 

 まあ大方はソレイユの話です。まずは、第35話「涙の星」の公開面接での、星宮いちご、霧矢あおい、紫吹蘭それぞれの受け答えを見てみましょう。

 いちごは、面接開始直後頭が真っ白になってしまいましたが、あおいと蘭のことを思い浮かべ、乗り切ることができました。さらに面接中、あおいがスターライトに誘ってくれたことや、蘭が自分の目を覚ましてくれたことなどを語り、いい親友に恵まれたことだけは自信があると明言しています。

 あおいは、いちごと蘭と共に最後の3人に残れたことの喜びを語り、今の自分は「ヘビとマングースに睨まれて生き残ったハムスターみたいな気分」だと言います。そして、いちごと蘭のアイドルとしての才能についてどう見ているのかを美月から尋ねられ、2人の魅力を熱心に語りました。

 ところが蘭の場合は、他の2人の面接では最初に訊かれていた「最後の3人に残れた今の気持ち」についての質疑が描かれておらず、いきなり蘭が「紫吹蘭が加わったら…」と最後の質問に答えるところから面接のシーンがはじまります。ここでは、いちごやあおいのことに関しては一切触れられていません。

私にとっては、ステージが自分の居場所なんです。隣に誰が来ても、誰と組んでも、例えトライスターに加わっても、紫吹蘭は紫吹蘭です。

 まるで自分を無理矢理説得し、丸め込もうとしているようなセリフです。大嘘です。35話のホットケーキのシーンを見ても、第24話「エンジョイ オフタイム」を見ても、そんなことは火を見るより明らかです。実際、トライスターで蘭がミスをした際に、美月は「あなたらしからぬミスね」(第37話)と言った。「隣に誰が来ても、誰と組んでも、例えトライスターに加わっても、紫吹蘭は紫吹蘭」だなんてことは全くなかったわけです。

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  思うに、蘭はまだ自分の気持ちに素直になれていなかったのではないでしょうか。「確かにいちごやあおいといると楽しい。でも、アイカツは遊びじゃないんだ。」といったような具合で。そんな蘭が「あたしが探してた言葉」は「頑張ってね」じゃなくて「頑張ろう」だったのだと気づくためには、一度2人から引き離される必要があった。蘭が自分の気持ちに気づき、自分の意志で自分の居場所を決めなければ、ソレイユ結成の意味がないのです。

 

 ソレイユといえば『ダイヤモンドハッピー』です。この曲が第37話「太陽に向かって」において、劇中ではじめて歌われたことには大きな意味があります。

熱く確かな世界 動き始めた
そうだ私の世界
進め大好きな世界 とまらない鼓動
これが私の世界

動き始めた「熱く確かな世界」、「大好きな世界」を「私の世界」だとはっきり言えるようになったことが紫吹蘭の成長であり、ソレイユ結成の意義なのです。

 ちなみに、3人でライブに出ようとはじめて言い出したのは、実は紫吹蘭でした。

でも、ありかもな…。出てみるか?3人で、スペシャルオーディション。〔中略〕あたしも、なんか2人と一緒に闘ってみたくなった。(第8話「地下の太陽」)

 そして、第9話「Move on now!」ではじめて3人でステージに立ち、『Move on now!』を歌いました。この時のステージに上がる前のかけ声は、「明日へ向かってMove on now!」でした。

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 そして、37話で美月が蘭に送ったメールには、次のようにあります。

蘭の心にこれ以上雨がふらないように、蘭にはトライスターを外れてもらいます。

あなたには太陽のもとでかがやいていてほしいから!

私の夢であなたの夢を振り回してしまって、ごめんなさい。

いつも、夜空からあなたたちをみています

行く道は違っても、お互い同じ空で輝きましょう。

 夜が明け、太陽が昇るということは、明日が来るということです。37話で蘭は、文字通り太陽に向かって走りました。トライスターという夜空からソレイユという太陽に向かって、「明日へ向かってMove on」したのです。そして再び手を重ね、「これからは3人一緒に輝こう」と言った。

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  世界一硬い鉱物と考えられているダイヤモンドには、「永遠の絆」という宝石言葉があり、「壊れることのない変わらぬ気持ち」や「確かなるもの」を表します。*2 ソレイユとは、まさにこれからを照らす「永遠の絆」の太陽であり、自らの意志で明日へと向かう「新しい輝きのメロディー」なのです。

上を向けば太陽キラリ
まぶしくなれもっとね
君は光るダイヤモンド
新しい輝きのメロディー

 

 さて、このエピソードを通して大きく成長した人物がもう1人います。神崎美月です。美月がトライスターの3人目のメンバーに蘭を選んだ理由は、次のようなものでした。

私がアイドルユニットを組むからには、そのメンバーは、一人でも強く輝ける力を持つ人でなければと考えました。そして、オーディションの紫吹蘭の姿に、そのプロ意識が見えました。(第35話「涙の星)

 初期の神崎美月は、徹底した実力主義です。レベルの合うアイドルがおらず、1人でトップに立ち続けていた彼女が「一人で輝ける強さがあるかどうか」をユニットメンバー選出の基準にしたのは、当然の成り行きといえるでしょう。そして、蘭を「一人でも強く輝ける力を持つ人」だと判断し、トライスターのメンバーに選びました。ところが、それは間違いだったと気づく。単に強い光が集まればいいのではないのだと。ここから、神崎美月の成長物語がはじまります。

どんな惑星だって ひとりぼっちで

輝けるわけじゃない

 結局、美月はトライスター3人目のメンバーに、藤堂ユリカを選びました。あれだけ大規模なオーディションを行い、徹底的にふるいにかけて力のある人物を選び出したのにもかかわらず、ふるい落とされた側の人間を選んだのです。

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 ユリカは、単に力不足で脱落したのではありません。吸血鬼キャラを死守して、言い換えれば、自分だけの輝きを守って脱落したのです。そんなユリカを美月は選んだ。輝きの強さだけでなく、一つ一つの輝きそれ自体に目を向けるようになった証拠です。もしかえでとユリカの相性の良さも見抜いていたのだとしたら、これはものすごい成長です。そして、この成長はスターアニスへと繋がっていくのです。

夜空に輝く北極星は、3つの星が重なり合って一際目映く輝いている。私たちも一つになれば、きっとどこまでも大きく輝くことができる。この夏一番光り輝く、スターアニスという星に。(第41話「夏色ミラクル☆」)

 第41話「夏色ミラクル☆」で、みんなで同じ部屋に泊まりたいとリクエストしたのは、他でもない神崎美月でした。ずっと1人でトップを走り続けていた美月は、「ひとりだけれど独りではないスタート」へと進んでいくのです。*3

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 同じく41話で停電に見舞われた際、美月はその場で、おとめとかえでのマジックショーや、さくらの生け花、蘭のウォーキング、いちごとユリカの漫才(会話?)、あおいの「美月ちゃんクイズ」を発案し、電気を使わずに観客を楽しませます。その姿にいちごは強く感銘を受けたのでした。

美月さんはやっぱりすごい。私たち一人一人をちゃんと見てくれていて、ファンのみんなだって、こんな笑顔に。

 その後、美月は輝きを見つける側であるプロデュースに興味を持つようになり、スターライト学園を去った後、ドリームアカデミーのアドバイザーに就任します。

あなたたちと過ごした日々は輝いていた。でも、先輩としてもっと上手に後輩のあなたたちを導けたんじゃないかって思ってたわ。そう考えるうちに、プロデュースに興味を持ったの。(第63話「紅白アイカツ合戦!」)

 そして、最終的に彼女が選んだパートナーは、夏樹みくるでした。みくるって、言ってしまえばアイドル素人です。ど素人です。あの実力主義の神崎美月が、アイドルですらないみくるをパートナーに選んだ。彼女の輝きに気づくことができた。ここに美月の成長が集約されています。

いちごはたくさんいっぱいいろんなことを気づかせてくれた。そんな、いちごからもらったいっぱいで紡いだ翼を羽ばたかせて、私は新しいアイカツをスタートさせる。〔中略〕新しい私だけの、私自身で立ち上げた事務所から、ユニットで。(第78話「ミラクルはじまる!」)

 なんとも見事なのは、トライスターという3つの星が、スターアニスという3つのユニットの結び合せに繋がり、その「夏色ミラクル」が夏樹みくるへと繋がっているという点でしょう。涙の星にはじまった神崎美月の物語は、夏色のキセキに出会い、花の涙で一旦その幕を下ろしたのです。

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(2017.08.24追記)

 『アイカツスターズ!』70話「ジャングルカツドウ!」がすごかったのでちょっと書き足させてください。

 ダイハツがやばいとか、霧矢あおいちゃんが動いてるのやばいとか、徳井十九出てたのやばいとか、言いたいことは山ほどあるのですけれど、こういう感情の高ぶりは言語になるものでもないと思うのでとりあえず置いておいて、この記事に関係のあるところだけ少し書こうかなと。まずは紫吹蘭と七倉小春のやり取りについてですかね。

小春「蘭さんたちは、チームを組んで長いんですか?」

蘭 「ああ。もうずいぶん経つな。何をやるにも一緒だし、あの2人といると心強いよ」

小春「仲がいいんですね」

蘭 「ああ。一緒にいられなかった時期もあったけど、かえって絆が深まったかもしれない

小春「そうなんですね。実は私も留学していて、ついこの間戻ってきたんです。それで… ゆめちゃんたちと一緒にアイカツできるのが、今すごく嬉しくて」

蘭 「あたしにもわかるよ、その気持ち。一度離れたからこそ、私の居場所はいちごとあおいの隣なんだって強く思えた

小春「はい。離れた時間はムダじゃなかったって、そう思います」

蘭 「同感」 

 まさか蘭と小春、美月と夜空を合わせてくるとは…。正直今回のコラボ企画についてはあまり何も考えていなかったどころか、多少訝しく思ってさえいたので、不意を突かれた感じです。

 離れた時間の意味についての私見は上に散々書きましたし、ソレイユについては別でもう一つ書いたので、今更くだくだしく述べるのはやめておきますが、やっぱり心にしみ入るものがありますね。この流れで『ダイヤモンドハッピー』とかやられると、本当に受け止めきれなくなる…。劇中で歌われた言葉がどんどん新しい意味を獲得していって、放たれる度にその言葉に命が吹き込まれていくといいますか。とにかくここが『アイカツ』のすごいところで、いろんなところで歌詞考察が絶えず行われているのもそのためなのかなと思います。

 そして、美月とローラの方ですね。「人は自分で限界を決めてしまいがち。でも、近くに可能性を教えてくれる人がいるのは、とても幸せなことね」。これもやっぱり、トライスター、スターアニス、WMという3つのユニットを経た、今の神崎美月ならではの言葉だと思います。『アイカツ』は好きだけど『スターズ』は見るのやめちゃったという方もわりといらっしゃるような気がするのですけれど、まずは先週と今週の2話だけでも見ていただけたらと思いますね。

 とまあ『アイカツ』の話ばかりしていても仕方がないので、『スターズ』の話もしましょう。というかしないといけません。今回のコラボが素晴らしかったのは、決して後ろ向きなものではなかったというところ。正直フォトカツで『アイカツメロディ!』が出たときはちょっとそれどうなのと思ったのですけれど、やっぱりちゃんと「未来向き」なんですよね。

 さっき、“劇中で歌われた言葉がどんどん新しい意味を獲得していって、放たれる度にその言葉に命が吹き込まれていく”という言い方をしましたが、今回の『STARDOM!』に関してもそうで、この流れで、『ダイヤモンドハッピー』の後で、「憧れは次の憧れを生む わたしはここだよ」なんて歌うと、これもまた違う意味を帯びてくる。そして、このコラボ企画は決して過去を懐かしむためだけのものではないのだなということが伝わってくるわけです。しかも1年前は『アイカツ』と比較されてあれこれ批判的なことを言われていた『スターズ』のCGが、今では『アイカツ』と並んでも遜色ないどころか、過去に捕らわれない独自の表現を獲得しているものですから、感動もまた一入というもので。CGチームをそのまま引き継ぐということをしなかったあの時の勇敢な選択は、やはり間違っていなかったのでしょうね。

 といいつつ最後に懐古厨みたいなことを言いますが、絵コンテ・演出が木村隆一さん、そして作画監督が宮谷里沙さん(吉田和香子さんと共同)というところが、前作のファンには非常に嬉しいところ。しかも崖登りの作画は渡部里美さんです。

 演出に関してはOPがカットされていたので、これは最後にOP流れるやつか、と期待していたのですが、結局普通に『STARDOM!』を劇中歌として使い、EDに多少本編が食い込んではいたものの、幕引きは一応いつも通りでした。これも、『アイカツ』とのコラボが何か特権的な地位を与えられているわけではないということなのかなと思うのですが、単にやりたいことが多すぎて尺が足りなくなっただけかもしれませんね。まあどっちにしても、『Bon Bon Voyage!』は半分劇中歌、半分エンディングみたいな使い方をされていたわけですが、“普通なら出会わない人同士が無人島で出会い、アイカツの「WA」が広がる”という物語内容に『Bon Bon Voyage!』がぴったり合っていた。その上、「未来へ」ですからね。これもまたアイカツシリーズらしい楽曲の使い方だなあと思います。

 それで、脚本が森江美咲さん。コラボ回は、無難に柿原優子さんか、『アイカツ』、『スターズ』両方で脚本を書いている野村祐一さんか、ひょっとすると加藤陽一さんか、あとあるとしたら森江美咲さんかな、なんて考えていたのですが、結局先週のあかり世代の方を柿原優子さん、そして今週が森江美咲さんでしたね。

 森江美咲さんは、『アイカツ』の方で設定協力としてずっと参加されていた方で、わりと『アイカツ』よりの脚本を書かれる方という印象があります。というか私が初期の『スターズ』にあれこれ文句付けていたときも、森江さんの担当回は結構好きだったんですね。そうなんですよ。思い返せば『スターズ』がはじまったばかりの頃は、結構私文句ばっかり垂れていまして、特に山口宏さんの脚本が好きになれなかった(多分4話の裏方発言のせいです)。けれど、単純に『アイカツ』とは方向性が違うというだけの話ですから、老害的思考というのは恐ろしいものです。(山口さんをdisってるわけじゃないですよ。『エヴァ』16話とか大好きです)

 話が逸れましたが、まあ何が言いたかったかというと、アイカツシリーズへの愛が深く感じられて、もうそれが何より嬉しかったという話です。1000字に届かないぐらいしか書くつもりなかったのですけれど、思いの外長くなってしまいましたね。そろそろ畳むことにします。

 

*1:アイカツ!オフィシャルコンプリートブック』(学研パブリッシング、2014年、126頁)

*2:ダイヤモンドの宝石言葉

*3:第42話「船上のフィナーレ☆」のいちごとかえでの会話が、『ヒラリ/ヒトリ/キラリ』の歌詞と呼応している点も見事。スターアニスの活動はいちごの「ひとりだけれど 独りではない スタート! 進むためのレッスン」にもなっている。

『やがて君になる』の意味を考える

 読み返していてふと思いついたことがあったので、ちょっと書いてみようと思います。『アイカツ!』以外のことについて書くつもりは全くなかったのですが、どうしてこうなるんでしょうね。

 

 まず前提として、「やがて君になる、の「なる」は「成る」ではなく、樹木に果実がなる、などの「生る(なる)」である。」という話は、「週刊話半分」さんの方で1年以上前に書かれているので、まずはそちらを読んでいただければと思います。

 

 さて、『やがて君になる』を読み進めていくと、「そのまま」という言葉が重要な位置を占めているような印象を受けます。例えば燈子が過去を語るシーンには

成績は平凡 友達だって多くなくて

怖がりで いつも誰かの陰に隠れてた

だけどある日 そのままじゃ いられなくなったから*1

とありますし、「特別って気持ちがわからない」*2という侑に対し、燈子は「君はそのままでいいんだよ」*3と言ったのでした。

 

 ここで思い当たるわけです。そういえば受験古文では「やがて」は「そのまま」という意味だったなあと。現代語にも「そのまま」という意味は残っています。

やがて (出典:デジタル大辞泉)

そのまま。引き続いて。「山の仕事をして、―食べる弁当が」〈左千夫・野菊の墓

  すると、「やがて君になる」は「そのまま君に生る」と言い換えることができる。こうすると辻褄が合うんですね。

 

 ここで一度、燈子と侑の、どこまでも特別な関係性を整理しておきましょう。

  燈子は人前で「そのまま」でいることができません。我慢が必要になるとしても、「特別な私のままでいたい」*4のです。燈子に好意を寄せる人たちは「特別」な燈子のことが好きなのであり、また好きになるということは、その人を特別だと思うことでもあるので、燈子は誰とも付き合うことをしません。燈子に取って「好き」だと思われることは、暴力なのです。

「好き」って暴力的な言葉だ

「こういうあなたが好き」って

「こうじゃなくなったら好きじゃなくなる」ってことでしょ?

「好き」は束縛する言葉

だから「好き」を持たない君が

世界で一番優しく見えた*5

 燈子を特別な存在だと思わないただ一人の存在が侑でした。「弱い自分も完璧な自分も肯定されたくないくせに 誰かと一緒にいたい」*6燈子に取って、侑はこの上なく特別な存在です。だからこそ燈子は侑に「君はそのままでいいんだよ」と言った。誰かを特別だと思えないままでいい。それが燈子にとっての特別なのだから。

f:id:hitotosem:20170201235545j:plain*7

 一方、侑は「特別って気持ちがわからない」人物です。だから、誰かに好意を向けられても、応えることができない。誰かに特別だと思われても、その人を特別だと思うことはできないのです。そして、そのことを寂しいと感じているし、変わりたいと思っている。

 燈子に取って、「特別って気持ちがわからない」侑は、どんなに近づいても自分を特別視しない特別な人物です。ですから、侑の前でだけは、燈子は「そのまま」でいることができる。逆に侑は、人を特別だと思わない「そのまま」の姿でいることで、自分に対する燈子の特別に応えることができる。侑に取っての燈子は、特別がわからない「そのまま」の自分を特別だと思ってくれる、どこまでも特別な存在です。頭ではわかっているのですが、言葉にするとなんて複雑なんでしょう。

…七海先輩が

そのままでいいって言ってくれたから

好きって言われても好きって返せないわたしのことが好きだって

そう言ってくれるから

今はもう寂しくないかな*8

 

 つまり、二人は「そのまま」の状態(侑は人を特別に思えないまま、燈子は特別を演じないありのまま)で特別になれる唯一の相手同士であるということです。「やがて君になる」とは、「そのままの私の花が君の中に咲いていく」「君の中でしか存在し得ないありのままの私が君の中に芽吹いていく」ということではないでしょうか。だから「Bloom Into You(君の中へと咲いていく)」なのです。

 これはとても悲しい恋です。恋ですらないのかもしれません。なぜって、侑の中に恋心が芽生えてしまったら、この関係性は壊れてしまうからです。唯一好きになれるかもしれない、好きになりたい存在であるのにもかかわらず。

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 また、侑の願い通り燈子が特別な自分を演じるのをやめてしまったら、燈子の「そのまま」が特別でなくなってしまったら、その瞬間侑は燈子に取っての特別ではなくなってしまいます。

f:id:hitotosem:20170201235843j:plain*10

 

 「そのまま」が特別になってしまうのですから、「そのまま」という言葉もある種暴力的です。「そのまま」の姿の私は、君の中で容赦なく花を咲かせていく。特別ではないことにおいて特別な二人は、特別になったら特別ではなくなってしまう。

 9話では脈で聞いていた心臓の音を、16話では直接聞いています。距離は確実に近づいている。簡単に壊れてしまうけれど、それ故に何よりも特別な二人の関係は、これからどう転がってもおかしくありません。侑の中に少しずつ恋心が芽生えはじめ、どこへ向かうかわからない今、これ以上私見を述べるのは野暮というものでしょう。

*1:1巻155頁

*2:1巻34頁

*3:1巻38頁

*4:1巻156頁

*5:2巻169頁

*6:2巻161頁

*7:1巻160-161頁

*8:3巻137頁

*9:2巻154-155頁

*10:3巻106頁

『魔法つかいプリキュア!』の「魔法」の話

 49話「さよなら…魔法つかい!奇跡の魔法よ、もう一度!」、すごかったですね…。本当にすごくて、月曜になっても全く余韻が消えなくて、それでいろいろとEvernoteに書き殴っていたのですが、それが気がついたら結構な分量になっていまして、もうどうせなら公開してしまおうかなと。そんなところです。うまいこと構成し直して加筆・修正を加えてはみたのですが、要するに49話を見て思いの丈をぶつけただけなので、あまり論理的とはいえないですね。まあなんでもいいです。

 

 さて、本作では、言葉や思いの強さが起こす奇跡を「魔法」と形容する描写が何度かありました。『魔法つかいプリキュア!』における「魔法」とはそういうものなのだと思います。花海ことはという名前も、「素直な言の葉は、時に魔法となって人の心を動かす」という校長先生の言葉を受けてのものでした。モフルンの存在もそうで、モフルンが動いたり話したりできるようになったのは、みらいと話したいと思い続けていたからなのでした。(36話) 

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 そして49話では、ものすごいことが明かされました。見てた時は涙で画面が見えなくて、何も考えられなかったのですが、あとから考えるとものすごいことです。全文を引用します。

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リコ、ありがとうモフ。あの時モフルンを見つけてくれて。

モフルンは『魔法つかいがいた』って、みらいに教えてあげたくて、一生懸命つたわるようにねがったモフ。

そしたらリコはモフルンに気づいてくれて、みらいのお友達になってくれて、モフルンもみらいとおしゃべりできて、いっぱいいっぱいおしゃべりできて、とってもうれしかったモフ。

みらい、リコ、はーちゃん。みんな大すきモフ。

 つまり、みらいとリコ、違う世界に住む2人が出会えたのは、モフルンが「一生懸命つたわるようにねがった」からであり、思いの強さが起こした奇跡=魔法の力によるものだったということになります。決して偶然ではないのです。 

 すると、「二人の奇跡 キュアミラクル」と「二人の魔法 キュアマジカル」に変身する際に、みらいとリコがモフルンをはさんで手を繋ぐのは、二人の出会いがモフルンの思いの強さが起こした奇跡であり魔法だからなのだと考えることができます。

 

 あと感動したのが、「わたしたちの手に」ではなく「わたしたちの手で」になっていたことですね。

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 いきなり48話の話に飛びますが、混沌っていうなればハッピーエンドなんですよね。魔法界、ナシマホウ界、妖精の里の境がなくなり、共存することができればそれが一番いいわけです。でも、彼女たちは安易に混沌を受け入れることをしなかった。それは自分たちの力で掴み取らなければ意味がないのだと。そして「わたしはわたしで、その隣に誰かがいてくれる。それが何よりもすてきなの」だと。 

 あんまり引用するつもりなかったのですが、見返したら素晴らしいセリフばかりだったので、少し引用させてください。特にリコの「夕日がきれいなのは、そうしんじてるから」ってセリフが素晴らしい…

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みらい「夕日がしずんだら、みんなおうちに帰る時間。でも新しい朝が… 明日が来れば…」
リコ 「また会える。夕日がきれいなのは、そうしんじてるから…」
みらい「うん。どうなるかなんて、今は、まよってちゃダメ。取りもどさなくっちゃ!わたしたちの… みんなの夕日!」
ミラクル  「本当は、ちょっぴりうれしかった。2つの世界のみんなが、あんなふうになかよく笑顔でいられる世界。でも…!」
マジカル  「それは、ただ待ってて手に入れられるものじゃないわ。」
フェリーチェ「そう、自分たちの力でいつか…。そのために明日を、かならず守って見せます!」 

 『魔法つかいプリキュア!』における「魔法」は、努力なしに何でも解決してくれる便利なツールではないのです。素直な言葉や強い思いが起こす奇跡。それが魔法であって、彼女たちが「魔法つかい」であるというのは、そういう文脈においてなのだと思うのです。 

 そして、デウスマストを倒した後、彼女たちは何年も再会を信じ続けた。また会える明日が来ると信じ続けた。その強い思いこそが魔法なのであり、「わたしたちの手で」起こした奇跡なのです。
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 もう一つ、おばあちゃんの話を少ししておきたいと思います。みらいにモフルンをあげたおばあちゃん、結希かの子。彼女がどの程度魔法界を知っているのかは不明ですが、というか不明なままでいいと思うのですが、少なくとも校長先生を見たことはあるわけです。もし彼女が2つの世界の接近を願っていたとしたら、その願いがモフルンに魔法をかけたと考えることもできると思います。 

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かの子「モフルンはみらいを見守ってくれてる。小さい頃からずーっと、今でもね。」
みらい「わたし、おばあちゃんのお話、大すき。不思議なお話をいっぱいしてくれたから、色んなことに興味を持てて…。だから、出会えたんだ。
かの子「素直な言葉は力になる。」
みらい「えっ?」
かの子「思いがつながっていれば、それは… 奇跡を起こすのよ。」

 おばあちゃんのキャラクターに関しては曖昧な余韻を残す狙いがあると思うので、解釈を提示するのもどうかなとは思ったのですが、まあ一つの見方ということで。ただ、視聴者の視点の分身的な役割はあるのだろうなとは思います。

 

 『アイカツ!』最終回に際して、松澤千晶さんがこんなツイートをしていらっしゃいました。

 松澤千晶さん、本当に素晴らしい感性をお持ちなんですよね…。毎回文面から作品への愛がこれでもかというほど伝わってきます。エッセイとか出して欲しい。

 まあそれはさておき、『魔法つかいプリキュア!』も、「画面の中から自分の中へ宿る感覚に」なってくれればなあと思うわけです。素直な言葉や強い気持ちがあれば、奇跡は起こせる=魔法は使えるのだということ。そして、違う世界の人とだってわかり合えるのだということ。子供たちにはいつまでも忘れないでいて欲しいなあと思います。 

 最終回のサブタイトルにある通り、『魔法つかいプリキュア!』の「魔法」は、未来(あした)をいい日にしてくれる魔法でもあるのかもしれません。

 そう、最終回まだ終わってないんです。なので、とりあえずは49話に寄せてということで。