cubic in another

『キラキラ☆プリキュアアラモード』、『ボールルームへようこそ』ほか雑感

 記事のタイトルに『プリアラ』と『ボールルーム』を掲げた手前申し訳ないのですが、前置きとしてちょっとだけ『アイカツ!』の話をさせてください。

 『アイカツ』って、私にとっては人生を変えたといってもまだ足りないぐらい大きな存在で、恐らくアニメの見方も本の読み方も音楽の聴き方も物の考え方も人との接し方も、『アイカツ』に出会ったことで変わってしまったのですけれど、一番目に見えて変わったことが、アニメスタッフを意識するようになったこと。「こんなにすごいものを作っている人たちがいるんだ」と作品の向こう側にいる人たちを意識した瞬間(多分4thシーズン入ってからだったと思いますが)から、少しずつ脚本家や演出家、アニメーターなどの方々に興味を抱くようになりました。

 そういうわけで、少しばかりスタッフの方々に寄り添いながら、最近思ったことをまとめて書いておきたいなと思った次第です。

 

 

キラキラ☆プリキュアアラモード』 三上雅人さんの話とか

 もう2週間も前のことになりますが、『プリアラ』24話「転校生は妖精キラリン!?」がとてもよかった。前の週までわりとシリアスめな展開が続いていましたが、その空気を見事振り切ってくれたように思います。それも、ただテンションを上げるのではなく、日常芝居の丁寧さで。この雲の形とか、見ていて心があたたかくなりました。

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 妖精に戻ってしまったキラリンを追いかける一連の流れもとてもよかったと思います。もちろん校長絶好調のくだりも含めて。 

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 あと戦闘のこういうところとか。

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 そういえば戦闘シーンってどこまでが本読みで決められていて、どこからが絵コンテの段階で出た案なんでしょうね。『進撃の巨人』2期7話のミカサが壁を走るところは原画を担当した胡拓磨さんの案らしいですし(『アニメージュ』2017年8月号、128頁)、原画や作監の方のアイデアもある程度混じってそう。まあそれはそれとして、とにかく『プリアラ』24話は全体的に演出がとても丁寧でよかったなあと思った回だったわけです。

 で、この24話の演出をしていたのが三上雅人さん。『まほプリ』のシリーズディレクター(監督)の三雅人さんとは一文字違いの別人です。『まほプリ』最終回の演出は三さんの方がされていたので、EDを見て表記ミスかと思ってしまった方も結構いらっしゃったのではないでしょうか。

 そういえば『まほプリ』最終回の冒頭には、中学二年生の頃の姿に変身するシーンがありますが、これの絵コンテも三上さんが描いてるんですかね。一応バンクではないわけですけれど。

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 他に『まほプリ』最終回でいうと、このチクルンがチクチクするところとかいいなあと思います。

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(そういえば『プリアラ』24話にも似たような構図が)

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 あと最後のこのエフェクト。これも本編のコンテに含まれるんですかね。

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 それにしても、最終回を日常回にして甘いものつながりで『プリアラ』に引き継いだ『まほプリ』の選択は、改めて考えると本当に偉大でした。

 ちょくちょく話が飛んで申し訳ないのですが、『プリアラ』のあおちゃん回(14話)も三上さん演出。あおちゃんの家に向かう時のRPGみたいな演出とか、面白いなあと思います。水嶌さんの眼鏡が透けるところと透けないところを結構細かく分けてるあたりも丁寧ですよね。 

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 そして、『プリアラ』14話と24話の作監は共に上野ケンさん。この輪郭線が私はとても好きです。

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 作監でいうと、やっぱり稲上晃さんはすごいですよね。(Evernoteに「19話の表情がよかった!」って画像付でメモしてあった)。あんまり画像貼りすぎるのもアレなので、先行カットを貼っておきます。

 

 さて、話があちこち飛びすぎて出口が見えなくなってきましたが、一応メインは『プリアラ』24話のつもりだったので、一度その話に戻します。

 24話は久しぶりに学校が舞台でしたが、これがなんとも新鮮でした。制服姿も久しぶりに見たような気がします。というか、『プリアラ』ってある程度意図的に学校を避けているんですね。

ーープリキュアを5人チームにした理由は何ですか?
神木(優) 前作の『魔法つかいプリキュア!』がバディものとして始まったので、今回はチームものかなと最初から決めていました。5人が同い年ではなく、「中2トリオ」と「高2ペア」という組み合わせなのは、暮田公平・貝澤幸男両監督からの意見もありました。「出自や価値観が異なるバラバラな5人が、スイーツを通してつながる」というお話なんですね。周囲のいろいろなキャラクターも描きたいので、学校ではなくスイーツショップや商店街を主な舞台にしています。

アニメージュ』2017年3月号 (91頁、太字引用者)

 ですから、『プリアラ』ってきっと、混ぜることだと思うんです。これは、シリーズ構成の田中仁さんが“『Go!プリ』で描いた「夢」の「その先」の気持ちを描きたい”(『アニメージュ』2017年8月号、101頁)と言っていることとも繋がっているでしょうし、『まほプリ』→『プリアラ』の世代交代とも、いくらか関係のあることでしょう。『まほプリ』50話でいちかのスイーツを食べた後、みらいはこう言うのでした。

いいよね、やっぱり出会いって。私に目標ができたのも、みんなのおかげなんだよ。リコとはーちゃんとモフルンとわくわくの出会いがあったから、もっといろんなところに行って、いろんな人に出会いたいって思ったの

 そしてリコは「立派な魔法って、人と人とを繋ぐもの」(50話)だと言います。この「立派な魔法」の役割を、『プリアラ』ではスイーツが担っている。異質なもの同士を出会わせ、繋いでいるという点は、魔法もスイーツも同じです。そして、新しいものは恐らく、二点以上の間の差異によってしか表出し得ない。出会いによってみらいに目標ができたように、異質なものとの出会いは新しい私との出会いと不可分です。

 だからこそ『プリアラ』の6人は、「持っている素養」と「求めているものや指針」(『アニメージュ』2017年6月号、100頁)を混ぜて変身・・する。「知性と勇気」を混ぜたひまりも、「美しさとトキメキ」を混ぜたゆかりも、もちろん他の4人も、出会いの中で少しずつ変わりはじめています。

 そしてその出会いの輪は、ついにビブリーにまで繋がりました。昨日放送された26話「夏だ!海だ!キラパティ漂流記!」のエピソードは、キラリンとピカリオの一件を踏まえると、とても感慨深いものがあります。キラリン(シエル)からは24話以来ずっと、自分のした事を受け入れた上で前向きに生きようとしている感じが伝わってくるんですよね。

 さて、思いついたことを次々書いていったせいでかなり支離滅裂な感じになってしまいましたが、ここまでにあれこれ書いたことは、構造主義と同一性とか、いくらでも学問的な方向に考えることができるものだと思いますし、それだけいろいろな問題を孕んでいるのだと思います。けれど、ここでそういう話をするのはやめておきます。というか、そういうことを論じるに足る知識が私にはありません。ただ、「“大好き”がいちばんのマストアイテム」であるということだけは、間違いないのではないかと思います。

 

 


 

 『ボールルームへようこそ菊田浩巳さんの話とか

 菊田浩巳さんは、アイカツおじさんにはお馴染みの人ですね。星宮いちご役に諸星すみれさんをキャスティングしたすごい人です。

ーー主人公のいちご役は、なぜ諸星すみれさんに決まったのでしょうか?
 諸星さんが「いちごだったから」です。オーディションの順番は、諸星さんが一番最初だったんですが、その時点でもう「あ、この子がいちごだ」と思ったんですね。たぶん木村監督もそう直感したはず。それで、そのあとの方たちにはいちご役と並行して、ほかの役のオーディションを受けてもらいました。だから、おとめ以降のキャラクターについては、その役専用のオーディションはしていないんです。いちごやあおいなどのオーディションに来ていただけた方に、合いそうな役をその場で演じてもらって決めました。おとめ役の黒沢ともよさん、ユリカ役の沼倉愛美さんは、違う役で来てもらいましたが、現在のとおりの配役に決定しました。

アイカツ!オフィシャルコンプリートブック』(学研パブリッシング、2014年、139頁)

 音響監督の方のインタビューって、なんだか新鮮で面白いんですよね。演技の付け方やキャスティングのこだわりなんかもそうですが、ライブ会場や寄席などでの音の響かせ方をどうするかとか、劇伴と効果音のかぶせ方をどう工夫するかとか、画面を作る人とは少し違った視点がある。あと音響監督ではないですが、スワラプロの今野康之さんのインタビューなんかも面白かった。今野さんは、いわゆる効果音を作っている人で、『SHIROBAKO』にも出てきますね。

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 これは『正解するカド』のインタビューで読んだのですが、メガネをカチャッてやる音は今野さんが発明したみたいです。すごい…。

実は、メガネの「カチャッ」という音を最初にやったのは僕なんです(笑)。多分、佐藤順一監督の『きんぎょ注意報!』だったと思うんですが、汗ジトとか怒りマークみたいな漫符表現に音をつけるという方法をそこで初めてやって。それ以来、しばらくその方法をやっていたんですが、作品によっては声優の演技の邪魔をすることに気づいたんです。涙目で悲しい演技をしているときに「ピロン」って音が鳴ったりとか(笑)。それ以来、漫符に音をつけるのが嫌いになっちゃったんですよね。

『Febri』VOL.42 (2017年、27頁)

 

 菊田浩巳さんの話に戻りましょう。菊田さんって、とても先見の明がある方だなあと思うんです。『アイカツ』1話を見返したことがある方はわかると思いますが、最初って諸星すみれさんも、田所あずささんも、みんなちょっと演技が下手なんですよね。大橋彩香さんがそれなりに安定してるかなというぐらい。おとめちゃんも(別に黒沢ともよさんのせいではないですが)、初期は結構キャラがブレてる気がします。初登場時の大空あかりや氷上スミレも、見返すとかなり初々しい感じ。ところが最終回にもなると、みんなすっかり成長していて、演技も上手くなっている。いちご世代の何人かに関しては、3年半の間で声帯まで成長していて、すっかり大人になっています。『アイカツ』は、こうやって役者の成長とキャラクターの成長とが自然にシンクロしているところが本当にすごい。そして、和久井優さんは『三者三葉』で立派に主役を務めましたし、黒沢ともよさんなんて『響け!ユーフォニアム』2期10話「ほうかごオブリガート」であれだけの名演をしたわけです。この先見の明は、やっぱりすごい。 

(※いろいろと法に触れているので未視聴の方は正式な手段で1話から観てください)

 

 それで、『ボールルームへようこそ』の音響監督も菊田さんなのですが、主人公の富士田多々良役の土屋神葉さんも、佐倉綾音さんとか岡本信彦さんとかと比べると、やっぱり初々しいんですね。でも、それがいい。この初々しさは若手にしか出せないような気がします。特にこういうスポ根モノだとたまらなくいい。『アイカツ』や『カレイドスター』が好きな人は『ボールルーム』もハマると思います。諸星すみれさんも出てます。(ちなみ土屋神葉さんの姉は土屋太鳳さんです)

 『ボールルーム』は絵もなんかすごいですね。たまにほとんど静止画じゃんみたいなツッコミを入れたくなるときはありますが、それにしてもすごい。なんか力強いというか、線自体にエネルギーが宿っているというか。この辺はやっぱり岸田隆宏さんの力が大きいんですかね。

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 そしてなんと、5話の絵コンテが原恵一さん。TVシリーズへの参加はなんと十数年ぶりとのこと。

 それで、ついさっきTOKYO MXでその5話が放送されまして、見たのですけれど、まあすごいですよ。後半息止めてしまった…。演出のこととか私多分ちゃんとわかってないですし、原作も未読なので、仔細らしく語るのはやめておきますが、太陽や影や風なんかの使い方がすごかった気がします(小並…)。「だから…見る!」の後風が吹いて、夕日が射して、その光で目のハイライトの色が変わるんですよね。原恵一さんがコンテを切っている回は、どうやらもう1話あるみたい。

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 それにしても、演出関係はどうやって勉強したらいいんでしょう。最近は暇を見つけて神村幸子さんの『アニメーションの基礎知識大百科』とか読んでみたりしているのですが、コンテや演出のすごさって、あからさまに個性の強いところしかわからない…。でも、同じシーン同じ動きでもカメラのアングルとかで結構変わるものだと思うので、その辺しっかりわかるようになりたいですね。そういえば最近木村隆一監督がツイッターでオススメしてた本があったので、それとか読んでみたらいいのだろうか。富野由悠季監督の『映像の原則』とかも気になるところですね。

 

 


 

 『サクラクエスト』18話からいろいろ

 ここからはもう本当に雑感です。何書くかわかりません。

 ツイッターの検索窓に「サクラクエスト」と入力すると、「サクラクエスト つまらない」とか「サクラクエスト 迷走」とか出てくる時期がありました。私も実際、何度か切ろうと思ったことがありました。でも最近になって、やっぱり見続けてよかったなあと思えることが増えてきて、先週放送された18話「ミネルヴァの杯」もそうでした。特に吊灯篭のとことか、“助け合って生きてる”ことのあたたかさが目に見えて伝わってきて、本当に素晴らしかった…。

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 本当に何様なんだという話ですが、私はずっと『サクラクエスト』ってなんか引き際が下手だなあと思っていました。どうにも幕引きの余韻が足りないというか、いきなりプツッと切れてそのままEDに入っちゃうような感じ。でも、ここにきて文化人類学とデジタルアーカイブの話が出てきたので、むしろ狙ってやっているのではないかと思うようになりました。

 これは14話で由乃の地元が舞台になった時に特に強く感じたのですけれど、時おり『サクラクエスト』のなんでもない生活をそのまま切り取ったような感じに、言い知れぬ感動を覚える瞬間があります。当たり前の生活のあたたかさとか、そこにある悩みとか葛藤とか、そういうものをとにかく自然に描いた感じ。それはある意味退屈ともいえるのですけれど、その普通さ、地続き感がすごくいいんですよね。

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 ですから、『サクラクエスト』で描かれているのは、普通に生きることの中にあるその人らしさとその人たちらしさなんだろうなと。それは間野山の生活をデジタルアーカイブに残すことと同じようなもので、「普通じゃない観光地の、普通じゃないお仕事」をしている人たちは、毎日普通の生活をしている。そしてその普通の生活の中で、いろんな人のその人らしさが集まって影響しあって結果と呼べるような何かが生まれ、それが残されていく。思い返せば5話の駅の彫刻も、そういう集まりでできたものでした。

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いろんな人のその人らしさが影響しあって、また別の何かが生まれていくっていうか… なんかうまく言えないけど、でもきっと、世界ってそういうのの集まりでできてるんじゃないかって思う

第5話「ユグドラシルの芽生え」

 

 で、18話の演出をされていた方が筑紫大介さん。筑紫さんは個人的には『ARIA』でちょくちょく名前を見かける方という印象です。演出wikiには「佐藤順一や元ハルのサテライト金子文雄Pと関わりが深い」と書かれていますね。

 例えば『ARIA The NATURAL』の24話「その 明日のウンディーネに…」とかは、本当に大好きなお話です。晃さんは『ARIA』の厳しい部分を一手に背負っているような感じがして、見るたびに見習わなければいけないなあと思いますね。

不思議なもんだよなあ。嬉しいことってーのはすぐ慣れてあたりまえになるのに、嫌なことはたったひとつ起こっただけでも、ものすごく重く感じてしまう。たぶん、人は自分自身で、嫌な事を何倍も重くしているんだ。

嬉しいことも嫌なことも当たり前にしないで、どっちもしっかり受け止めていかなきゃな。だってあたしは、プリマウンディーネなんだから。

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 『NATURAL』の24話は、太陽に手を伸ばすところとかも強く印象に残っています。手が透ける演出がすごくいい。セリフも全部素晴らしい。脚本は浦畑達彦さん、コンテは佐山聖子さんです。

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 とまあ最近見たということもあって「その明日のウンディーネに…」のことを書きましたが、まあ『ARIA』は全部素晴らしいですね。やっぱり天野こずえさんってめちゃくちゃすごい。佐藤順一さんもめちゃくちゃすごい。

 あと、最近再放送で見直してる『血界戦線』4話の演出も筑紫さんでした。『血界戦線』も本当に全部素晴らしいですね。最終回延期したことなんかどうでもよくなるぐらい。4話は劇伴の『Dust』が流れはじめてからがめちゃくちゃかっこいい(もちろん他のとこもかっこいいです)。

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 1期監督の松本理恵さんは、そのうち国際映画賞的なものを受賞するのではないかという気がします。音響監督も兼任されてますし、いろいろとセンスがありすぎる。どこを取っても画面構成がめちゃくちゃにかっこいいし、劇伴の流れるタイミングとかも毎回絶妙すぎて、こっちの身が持たないからたまには手を抜いてくれとさえ思ってしまいます。この非凡さはどれほど言葉を尽くしても足りません(1話ずつ言及していったら何万字にもなりそう)。2期でもたまにはコンテ描いてくれたりするのでしょうか。2年前にリアルタイムで見ていたときは気にも留めていなかったのですけれど、血界戦線ってエフェクト作監橋本敬史さんですし、美術監督木村真二さんですし、スタッフが信じられないぐらい豪華なんですよね。

 美術監督といえば、『メイドインアビス』の美術監督ジブリ出身の増山修さん。それから、生物デザインが吉成鋼さん。これもまためちゃくちゃ豪華ですね。『メイドインアビス』は見ているとTOKYO MXの放送画質が上がったんじゃないかと思ってしまうぐらいにクオリティが高くて、1話を見たときは度肝を抜かれました。

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 そういえば最後に1つだけ。『ヒロアカ』の新しいOP絵コンテ、水島精二さんと長崎健司監督の共作です。『ヒロアカ』は恐らく『アイカツ』以上に“憧れ”を真正面から描いていて、『アイカツ』で泣くタイプの人は絶対にハマるので、まだ見てない方は是非。私も久しぶりに少年漫画の単行本を買いました。『ボールルーム』も単行本買おう…。

 

 というわけで、思いつくまま好き勝手書いていたら結構な文字数になってしまいましたが、ここまで全部読んでくださった方とかいるのでしょうか。いたら本当にありがとうございます。多分ここまでに書いたことは全部、オタク歴の長い方とかにとっては当たり前のことばかりだと思うのですけれど、もし何か1つでも素敵な作品に出会うきっかけになることができたのなら、この拙文を書いた意味もあるのかなと思います。

曲がり角の向こうへ (『アイカツスターズ!』と『赤毛のアン』)

※『アイカツスターズ!』はもちろんのこと、『赤毛のアン』のネタバレも多分に含みます。予めご了承ください。

 

 

 

 にちょっと書いたのですけれど、『アイカツスターズ!』48話には、白銀リリィが『赤毛のアン』を引用する場面があります。

私の愛する赤毛の少女はこう言いました。「今、曲がり角にきたの。曲がり角の先に、何があるのかはわからない。けど、きっと一番いいものに違いないわ」と。あなたは、誰のものでもない、本当の自分だけの道を歩みはじめたのです。

第48話「わたしだけの歌」

 23話にもあります。

リリィ「この世に好きなものがあるって素敵じゃない?」

ゆず 「ん?それって名言?」

リリィ「歌っている時にいつも頭に浮かぶ、アンの言葉です。久々に思い出しました。この機会を与えてくれたゆずに感謝します」

ゆず 「どういたしまして!だ〜ゾ!」

第23話「ツンドラの歌姫、降臨!」

 それで、まあ『スターズ』が直接の原因ではないのですが、いろいろあって『赤毛のアン』をちゃんと読もうと思い立ちまして、最近ずっと読んでたんですね。そしたらこれがもう本当に素晴らしい。あまりに有名過ぎる作品なので、私がどうこう言うことでもないと思うのですが、『アイカツ!』とか『ARIA』とか好きな人は絶対好きだと思うので、読んだことない人は是非読んでいただければと思います。私は松本侑子さんの訳(集英社文庫)で読んだのですけれど、松本さんの脚註は驚くほど細かいところまで調べられていて、シェイクスピアをはじめとしたいろんな英文学にも間接的に触れられるので、英文科の学生にもおすすめです。(赤毛のアンに隠された英米文学 - 松本侑子ホームページ)

 

 本題に入りましょう。上の48話の引用箇所ですが、リリィはS4戦で自身を抜いて1位に躍り出た桜庭ローラに対してこの言葉を送りました。この時何も知らなかった私は、普通にローラへの賛辞の意を表した言葉だと思っていました。ところが、アン・シャーリーは大学進学を辞退することを決意した際にこの発言をします。ですからこの「曲がり角」の科白は、もちろん非常に前向きで希望に満ちたものでもありますが、ある種の不幸や諦念からきた言葉でもあるわけです。

クィーン学院を出た時は、私の未来は、まっすぐな一本道のように目の前にのびていたの。人生の節目節目となるような出来事も、道に沿って一里塚のように見わたせたわ。でも、今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるか分からないけど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ。それにマリラ、曲がり角というのも、心が惹かれるわ。曲がった先に、道はどう続いていくのかしらって思うもの。緑に輝くきれいな森をぬけて、柔らかな木漏れ日がちらちらしているかもしれない。初めて見る新しい風景が広がっているかもしれない、見たこともないような美しいものに出逢うかもしれない、そして道は曲がりながらどこまでも続き、丘や谷が続いているかもしれない

 白銀リリィは、S4戦で敗北した際にこの科白を引用しましたが、S4戦のステージに立つ前のリリィには、自身のブランドのプレミアムドレスを身に纏い、ゆずと共にステージに立つ自分の姿が、それこそ「まっすぐな一本道のように」はっきりと見えていたことでしょう。

私はこれまで、必要以上の野心を持たないようにしてきました。既に自分のブランドを持つという願いも叶ったのですから。けど今は、新しい野心に突き動かされています。S4になって、自分だけのプレミアムドレスに身を包み、もっと、ゆずと一緒に歌いたい。

第48話「わたしだけの歌」

 けれど、その夢は破れ、S4になることも永遠に叶わなくなってしまった。思い描いていた未来は、ここで絶たれることになります。これはもちろん、最良の結果ではありません。S4になれるのなら、それが一番いいに決まっています。しかしながら、これは道の終わりでもありません。“曲がり角”の向こうには、未だ見ぬ景色が広がっている。だからこそ、彼女はこの言葉を選んだのでしょう。彼女の愛する赤毛の少女と同じように、彼女の“想像力”も決して失われることはない。そして、S4になれなかった白銀リリィは、四ツ星学園で誰よりも早く星のツバサを降ろしました。

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 日々アイカツに励む彼女たちと同じように、私たちの胸の内にも、何か「こうなりたい」とか、「これが私にとっての幸せだ」みたいな考えがあります。そしてそれは、恐らく夢や目標の大きい人ほど明確で、先まで真っ直ぐに見渡せる。そのこと自体はもちろんとてもいいことで、その夢が叶えば、きっと何ものにも代え難い歓びになります。けれど、それ以上のものがないなんて保証は、実はどこにもない。最上のものを知るには、世界はあまりに大きすぎるし、私たちは小さすぎます。

 『スターズ』は2年目で舞台を大きく世界に広げました。元S4の面々は、続々と世界に向かって羽ばたいて行きました。けれど、アンがマシューの死を目の当たりにしたように、恐らく世界は“きれいな物”ばかりではない。昨日まではっきりと見えていた道が、急に見えなくなることもある。でも、それを“全部抱きしめ”た先には、また新しい道が続いている。見たことのない景色が広がっている。そしてもちろん、“願いは負けたりしない”。だからこそ、その先にあるものが「一番いいものに違いない」と信じて、その不確定性の中に夢を見出していく。“根拠のない自身を カードに詰め込んで”、ひとひらの羽ばたきが“やがて風になる”と信じて。『スターズ』の生き方って、きっとそういうものだと思うのです。

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 さて、アン・シャーリーは大学進学を辞退して、アヴォンリーに残ることを選んだわけですが、エイヴリー奨学金の受賞者が決まる試験の結果発表前にはこんなことを言っていました。

とにかく、最善は尽くしたし、『健闘する歓び』* も分かりかけてきたわ。努力して勝つことがいちばんだけど、二番めにいいのは、努力した上で敗れることなんだわ。

 

 

 

 

「新文芸坐×アニメスタイル 原恵一監督のアニメーション映画」と「ポッピンQ展 宮原監督&金丸Pトークショー」

 土曜日は新文芸坐原恵一監督のお話を聞き、日曜日は東京アニメセンターで宮原直樹監督のお話を聞くという、なんとも贅沢な週末を過ごすことができたので、何か書いておこうと思います。イベントレポートみたいなちゃんとしたものには多分なりません。

 

6/17(土) 原恵一監督のアニメーション映画
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 原恵一監督と言えば『オトナ帝国』だと思うのですが、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。『戦国大合戦』だったり、『暗黒タマタマ』だったり、もうちょっと年輩の方だと『エスパー魔美』だったり、80年代の『ドラえもん』だったりするのでしょうか(これ年齢がバレますね)。ともあれ、私にとっての『オトナ帝国』がそうであるように、原恵一監督の作品が映画という枠を飛び越えて記憶の奥深くに根付き、人生の一部になってしまっている、そういう方って結構多いのではないかと思います。

 そんな原監督のお話を聞いてから、朝までかけて映画を3本観たわけなんですが、トークパートで印象的だったのは、藤子F先生の作品をはじめとした“自分の根幹を作ってきたもの”へのリスペクトの強さ。お酒が入ってるせいもあってか、「自分の根幹を作ってきたものを軽んじて、自分の力だけでポッと出たと勘違いしてるような奴らはみんな消えた。泡沫。泡沫。」と、結構痛烈に批判をされていました。

 今回のイベントで上映されたのは『百日紅さるすべり~Miss HOKUSAI~』、『河童のクゥと夏休み』、『カラフル』の3作品でしたが、確かにいずれの作品にも、そういったものへのリスペクトが感じられます。怪奇現象や妖怪、あるいは生き返りみたいな“すこしふしぎ”な要素が、日常と地続きのところにあるドラマに息づいていく。この在り方はドラえもんとかなり近いところがあって、トークで「クゥはドラえもんと同じ」とおっしゃっていたのも、きっとそういうことなのだろうと思います。

 どこにでもあるような家族の風景を描いているという点も、3作品全てに共通しています。現代の小中学生も、江戸時代の絵描きたちも、同じように毎日を生きている。そして、そこに描かれている1人1人のキャラクターや家族の在り方は、恐らくどの年齢の人にも何かを意味します。

 そうして気づけば、私たちの生活に『ドラえもん』が当たり前にあるのと同じように、その作品自体が私たちの生活に歩み寄ってきて、映画という枠を超えた感覚になっている。原恵一監督のすごいところは、そんな“ファンタジーとしての日常”をずっと描き続けていることだと思います。

 僕にとってはそういった描写(普通の日常をアニメで描く事)が、他の人にとってのアクションシーンや、お色気シーンの代わりで、そういうのを作る事に快感を覚えていたのかもしれないですね。『魔美』だけじゃなくて、藤子Fさんの描く家族というのは、東京の郊外に家を持っていて、食事はみんなで一緒でね。ああいうのに憧れがあったのかもしれないですね。僕の実家は商売をやっていて、家族揃って飯食った記憶ってほとんどないんですよ。親父は朝早く出かけて、夜遅く帰ってくるような仕事だったし。「チャコとケンちゃん」とか「ケーキ屋ケンちゃん」とか、あの辺のドラマの中の生活というものに、憧れがあったのかもしれないですね。

(小黒祐一郎) 僕なんかも、思い浮かべる「家族の食卓」って『サザエさん』の中のものなんですよね。今時、お父さんがわざわざ着物に着替えて、ご飯食べるわけないと思うんだけど。

 『おもひでぽろぽろ』の世界みたいな。

 「ファンタジーとしての日常」を描いてるんですね。

 多分、そうですね。そういうのに縁がなかったから。

『この人に話を聞きたい アニメプロフェッショナルの仕事 1998-2001』
(飛鳥新社、2006年、155頁)

 

 ちょっと話が飛びますが、いわゆる批評とか考察とか感想ブログとか、そういうものの意味って、「ある一つの視点を提示することによって、作品のいくつかの点に光が当たって、却って多義的な魅力を引き出すことができる」ことにあると思うんです。少し前に『エヴァンゲリオン』のHDリマスター版がNHKで放送された時、「エヴァ噺」というおまけコーナーが付いていましたが、あれなんかがまさにそうで、森永卓郎さんとか、中川翔子さんとか、神田沙也さんとかが好き勝手『エヴァ』について語ったり、名シーンを選んだりするのですけれど、その噺を聞く度に『エヴァ』の魅力がどんどん引き出されていく。そうして何度でも再視聴に堪えうるものが、名作と呼ばれるのだと思います。

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 ただ、原恵一監督の作品に関しては、「このシーンはこうだ」とか言ってしまうのはちょっと違うような気がしていて、きっと個人個人の経験に寄り添ってこそ意味があるのだと思うし、子供の時に観るのと大人になってから観るのとでは、感じ方もまるで変わってくる。要するに、1人1人が人生をかけて付き合っていく作品だと思うわけです。

 ですから、最後に一言「どの作品もオススメです」とだけ言っておくことにします。

 

 

 

6/18(日) ポッピンQ展 宮原監督&金丸Pトークショー
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 宮原直樹監督の世間のイメージは、『ドラゴンボール』の人でしょうか。『デジモンアドベンチャー』の人でしょうか。それとも『プリキュア』のCGの人でしょうか。経歴を改めて見てみるとかなり手広く意欲的に仕事をされている印象を受けます。そんな宮原監督がはじめて手掛けたアニメーション映画『ポッピンQ』の話です。

 『ポッピンQ』の特徴の一つとして、「よく動く」ということが挙げられると思います。トークショーでは「一番枚数が多い」というオープニングの映像を実際に観ながら、金丸裕プロデューサーがどれだけ動いているのかを解説してくれたのですが、これがまあ信じられないぐらい細かいんですね。ほとんど映ってないけど、メインキャラの後ろにモブが3人(もちろん動いてます)描いてあったりもするらしい。そういえばダンスシーンはリミテッドではなくフルアニメーションですし、他にも背景美術のタッチを現実世界と時の谷とで変えていたり、心情に合わせて光の演出表現を調節していたりと、実はかなりこだわって作られている作品です。

 ところが、これは小黒祐一郎さんもおっしゃっていることですけれど*1、『ポッピンQ』ってすごく初々しいんですよ。いい意味でフィルムに洗練された感じがまるでない。制作工程に“初めて”がたくさんある作品なので、そういうところも影響しているのかなと思います。

僕(松井俊之プロデューサー)は映画にはずっと関わってきましたが、アニメ映画のプロデュースは初めてなんです。そして金丸はプロデュースが初めてで、宮原さんは長編作品の監督が初めて…金丸はアニメが好きっていうアンテナを一番大事にして自由にやってもらい、宮原さんには気負わずにとにかく自由にやってもらいたかった。僕は映画としての枠組みを作ったり、転がしていくというポジションに専念して、2人には自由にやってもらったつもりなので、そこはうまくいったんじゃないかなって思っています。

ポッピンQ』劇場パンフより (太字筆者)

 そして、そのフィルム全体に漂う初々しい雰囲気が、卒業を控えて戸惑いながらも前に進もうとする中学3年生の心情にぴったり合っている。狙ってやっているわけではないのでしょうけれど、この世界観が私は非常に好きだったりします。

 

 加えて宮原監督はキャラクターをしっかり描くことを大事にされている方で、『ポッピンQ』に関しては、企画の段階からキャラクターが物語に先行しています。はじめて劇場で観たときは、「テレビシリーズに続くのか」とか思ったんですけど、どうやらそういうわけでもないらしく、単純に映画とかTVアニメとかそういう“枠”を問題にせず、とにかくキャラクターから膨らませていって形にしたようです。個人的には、ちょっと尺不足かなという感じはするのですけれど*2、それもキャラクター>物語で作った結果なのかなと思います。さらにいえば、アイドルじゃないからダンスシーンはカメラ目線じゃないし、5人それぞれの個性に合わせて、少しずつダンスを崩してあったりもする。要するに映画で観れるのは、たまたま画面に映っている彼女たちの生活の一部分でしかないわけで、徹頭徹尾キャラクター優先で作られているんですね。

 ほとんどイベントの話をしていない上に、収拾付かなくなってきましたが、要は何が言いたいのかというと、某匿名掲示板等で大爆死とか言われてるほど悪くはないですよということ。彼女たちの青春の一幕をちょっと覗いてみようかな、ぐらいの感覚で観てみて欲しいのです。

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(サインありがとうございました)

 

 

 

 

 

*1:アニメージュ2017年6月号』「この人に話を聞きたい」第百九十三回 宮原直樹

*2: (5人のドラマを描くことを考えたらこの映画の尺は)短いと思います。なので、伊純と沙紀に集約せざるを得なかったんですが、他の3人に関しても「描き切れなかった」という感じはないですね。彼女達のドラマに必要だったものは、ちゃんと映画の中に置いていますので。観た人が「足りなかった」と思うのか、「あれがあったから彼女達はあんないい顔でラストシーンを迎えられた」と思ってもらえるのかは、観る人に委ねるところではあるんです。映画の中に残したパーツをパズルのように組み立ててくれた人は「よかった」と思ってくれるだろうし、「足りないかなあ」と思った人も中にはいるんでしょうね。そこはしょうがないです。ある程度のかたちと時間を決めて作ったものなので。(『アニメージュ2017年6月号』114頁)

Remember the love:『ドキドキ!プリキュア』と“愛”の話

 録りためていたBS再放送の『ドキドキ!プリキュア』を今日見終わったので、雑記という形にして短い感想でも書こうかと思ったのですが、思いのほか筆が乗ってきてそこそこの分量になったので、単独で公開することにしました。というわけで『ドキドキ!プリキュア』の話です。

 

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 『ドキプリ』って、設定自体はかなり重めですよね。まず、トランプ王国の話が重い。「ある国の王が不治の病に侵された自分の娘を救うために禁忌を犯し、その結果王国が滅亡する」って、なんかシェイクスピア悲劇に並んでいてもおかしくないような感じがします。しかも剣崎真琴は施設育ちの孤児ですし、円亜久里も事実上孤児なので、プリキュア5人中2人がみなしごなんですよね。かと思えば相田家は絵に描いたような幸せな家庭で、菱川六花は医者の娘で、四葉ありすは財閥のお嬢様という。あまり意識させないようにはなっていますが、その実結構アンバランスな5人だったりします。

 けれど、そんなアンバランスさは全く問題ではないんですね。何故ならそこに“愛”があるから。『ドキプリ』を見ていると、ビートルズの“All You Need Is Love”が頭をよぎることがあります。(YouTube消されてたのでニコニコ動画の方を貼っておきます)

 

 

 ジコチューが浄化される時の声とイントロが似てるとか、そういう話ではないですよ。できないことはできない、作れないものは作れない、でも“愛”があれば別にいいんだっていう。まこぴーのこのセリフなんかがまさにそうですね。

実はね、私も両親がいないの。私がまだ赤ちゃんだった頃に、事故でなくなったんですって。だから私は、お父さんやお母さんの顔は、ちっとも覚えていないの。でも、寂しくなんてなかった。私たちは、王女様の愛に包まれていたから。

(第42話「みんなで祝おう!はじめての誕生日!」)

 

 音楽についての知識はあまり持ち合わせていないので、的はずれなことを言っているかもしれませんが、ジョン・レノンのある種の平和主義的な諦めみたいなものが『ドキプリ』には見られるような気がします。例えば42話で亜久里の誕生日を祝うくだり。誕生日がわからないのはもうどうしようもない。わからないものはわからない。じゃあ今日が誕生日ということでいいじゃないか、祝っちゃえ、っていう。なんだか“Happy Xmas (War Is Over)”のような感じがする。(和訳するのもなんだか恐れ多いので原文だけ載せます)

And so this is Xmas (war is over)
For weak and for strong (if you want it)
For rich and the poor ones (war is over)
The world is so wrong (now)
And so happy Xmas (war is over)
For black and for white (if you want it)
For yellow and red ones (war is over)
Let's stop all the fight (now)

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 亜久里に関しては、自分の正体も年齢もわからなかったわけです。それでも“愛”があれば家族にはなれるのだということを、円亜久里と円茉里は証明して見せました。血の繋がりも年齢も、亜久里が何者であるのかも、とにかく物質的なものは全て“愛”の前では一切関係ないのだということが、そこには暗に示されています。

これは、大切な孫がわたくしのために描いてくれた絵です。消えてしまっても、込められた愛は色褪せたりはしません。あなたの思い、伝わりましたよ。ありがとう、亜久里

(第43話「たいせつな人へ!亜久里の授業参観!」)

 

 ですから、まあとにかく『ドキプリ』は“愛”なわけです。相田マナ(本来の表記は相田愛)って名前がもう「愛だ愛!」って感じですし、ジコチューも“愛”と表裏一体の存在で、生命が生きている限り誰の胸からも“愛の鼓動”は消えたりしない。しかもその上、出自が問題にならない世界でもある。“この世界つなぐものそれは愛”であり、“君と手と手つないだらもう友達”なのです。キングジコチューが開けた時空の穴は、最終回でそのまま残されました。そして、さしたる問題もなく、2つの世界は共存している。これも“愛”ゆえのことです。最近では現実の方のトランプ王国が問題になっていたりもしますが、綺麗事みたいなフィクションの世界から学ぶべきことも、実はたくさんあるのかもしれません。

好きだから。あたし、レジーナが好きだから。それだけじゃ、ダメかな。レジーナが好きだから、レジーナが愛するパパも好きになれる。好きになりたい。わかり合いたい。

(第47話「キュアハートの決意!まもりたい約束!」) 

 

 そんなわけで、夜明けでも、夕焼けでも、真夜中でも、コーヒーを飲んだ回数でも、インチでもマイルでも笑顔でも争いでもなく、愛で人生を測ろう(measure your life in love)と歌ったあの名曲を、結句の代わりとさせていただきたいと思います。

 

 

 

余談

 最終話でイーラが「まあ、あいつらがいたんじゃな」と言って立ち去るシーンがありますが、その時のカット、レジーナ含めて6人映るのですけれど、偶数なのに立花がちょうど真ん中なんですよね…。こういうさりげないところに潜んだエモ、とても素敵だと思います。

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余談2『 アイカツスターズ!』58話から

 単独といいつつ『スターズ』の話になっててもうわけがわからないんですが、ここに書いとくしかなさそうなのでここに書いときます。

 

・変転の妙

 『アイカツスターズ!』に関して最近よく思うことは、印象操作が上手いなあということです。もちろん悪い意味ではありません。

 例えば諸星学園長は、1年前は悪役ともいえるような立ち位置にいました。特に劇場版ではその性質が強く出ており、悪人のいない『アイカツ!』の世界とのギャップに困惑する声も多かったように思います。白鳥ひめとも揉めていた上に、結局映画では諸星ヒカルの真意は明かされなかったので、映画だけ見れば本当にただの悪役です。ところが第36話「虹の向こうへ」を機に印象は逆転し、今ではすっかり愛されるキャラクターになりました。

 と、まあこれだけのことなら取り立てて言うほどのことでもないのですが、先週放送された第58話「ミラクルオーディション!!」。これがすごかった。1話の中で見事にエルザ・フォルテの印象を引っくり返してみせました。冒頭の四ツ星勢とエルザとのやり取りを思い出してみましょう。

エルザ「ユメ・ニジノ、今日のオーディション、勝利の女神は私に微笑むことになっているわ」

リリィ「勝負はまだ始まってもいません」

ゆめ 「そうです。負けませんよ」

 エルザ・フォルテはかなり人気のあるキャラクターだと思いますが、“敵”という性質が非常に強い人物でもあります。四ツ星学園を危機に陥れた張本人ですし、52話では桜庭ローラを下に見るような発言をして、対立を引き起こしたりもしました。“悪”ではないにしても“敵”であることに間違いはないでしょう。その上いつも人に用意してもらった最高級のステーキとか食べてますし、一国の王位継承権まで持ってたりする()ので、いろいろと恵まれた人物だという印象が強いのではないでしょうか。そんなエルザが「勝利の女神は私に微笑むことになっている」なんて言うと、やっぱりちょっと傲岸不遜な感じがします。

 ところが、わずか15分後には、この印象はすっかり逆転してしまいます。エルザ・フォルテは、幸花堂と幸本社長のことを事前に詳しく調べていた。このことが明かされることによって、Aパートのやり取りは全く違った様相を帯びるようになります。白銀リリィが「勝負はまだ始まってもいません」と言う遥か前から、既に勝負は始まっていたわけです。

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 同時にエルザ・フォルテの印象が“才能の人”から“努力の人”へと切り替わります。その上、彼女はただパーフェクトなだけではない、トップに立ってもなお向上心を忘れずさらに上を目指そうとする、真にパーフェクトな存在であるのだということも示される。

私も、こんなファッショナブルなケーキがこの世に存在していることを知り、また一つ学びました。この世は全てファッション。それは、人に感動と喜び、そして幸福をもたらすもの。お菓子でもドレスでも、それは同じことです。

 そんな“パーフェクト・エルザ”に、虹野ゆめと白銀リリィはまさしく完敗したのでした。そして、「追い越したい」敵に出会えた喜びを表明し、文字通り真っ直ぐ敵を見上げて幕を閉じる。完敗したことを喜んでいるこの闘諍の熱も、『スターズ』の魅力の一つであると思います。 

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・その一助となるもの

 「ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」というあまりにも有名な一節がありますが、ジュリエットはその後に続けて、「お父様と縁を切り、その名を捨てて」と言います。「どうしてあなたはロミオなの」というのは、つまり名前というものへの懐疑なんですね。

私の敵は、あなたの名前。
モンタギューでなくても、あなたはあなた。
モンタギューって何? 手でもない、足でもない。
腕でも顔でも、人のどんな部分でもない。
ああ、何か別の名前にして!
名前がなんだというの? バラと呼ばれるあの花は、
ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない。

 ところが赤毛のアン*1ことアン・シャーリーはこんなことを言います。

薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇があざみとか座禅草スカンク・キャベツとかいう名前だったら、あんないい香りはしないはずよ。

 なんでいきなりこんな話を始めたかというと、『スターズ』って“名前”の持つ力が結構大きい作品なんじゃないかと最近思ったからです。

 『アイカツ』にもスターライトクイーンやブランドのミューズみたいな肩書きはありましたが、作中において『スターズ』のS4ほどの大きな役割を担ってはいませんでした。例外的に4thシーズンのラストではスターライトクイーンカップが非常に重要な行事として扱われましたが、初代主人公の星宮いちごは一度もスターライトクイーンになりませんでしたし、いちごがアメリカに留学している間のクイーンカップも回想シーンでしか描かれませんでした。

 『スターズ』でも、もちろんS4になることが全てではないですし、七倉小春のように別の道を志すキャラクターもいます。けれど、基本的に四ツ星学園の生徒は皆S4を目指しているわけですし、そもそも制服が違うので、ビジュアル的にもどうしても無視できない存在感があります。S4の制服に身を包んだゆめや、幹部服を着たローラを見て、とみに成長を実感したという方も多いのではないでしょうか。

ゆめ 「私たちが、1年生の道しるべになろうよ!」

ローラ「…S4になったんだね、ゆめ。」

(第52話「狙われたアイドル!?」)

 ここのやり取りが私には非常に印象的でした。この後ローラがゆめの腹筋を触ることで、この1年で変わったものと変わらないものとをそれとなしに描いていたのも印象的でしたが、それ以上に「S4になったんだね」というセリフが、なんだかスッと胸の中に入ってくるような感触がありました。

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 憧れていた学校の制服に袖を通したとき、出席カードに新しい学年を書いたとき、アンケートの職業欄に会社員と書いたとき、結婚して苗字が変わったとき。そんな節々に感じる“自分が何者かである”という意識は、結構な影響力を持っているように思います。もちろん虹野ゆめは、S4になるに足る十分な努力を積み重ね、なるべくしてS4になったわけですが、実際にS4になってみてから起こった変化というのも相応にあるのではないでしょうか。同じように、エルザ・フォルテの“パーフェクト・エルザ”という肩書きも、彼女の姿勢に影響を与えているのかもしれません。

 ですから、「そんな大役私なんかには務まりませんよ」みたいな態度は、結構世界を狭めてしまっているのかもしれない。案外なってしまえば、何にでもなれるのかもしれない。そして、虹野ゆめのように今の自分ではない自分を想像できる(妄想してしまう)力には、可能性をどこまでも押し広げる、とてつもないエネルギーがあるのかもしれません。

*1:赤毛のアン』といえば、48話で白銀リリィが「私の愛する赤毛の少女」として引用していました。ゆめやリリィは想像力豊かなアン・シャーリーとどこか近いところがあるように思います。

目覚めてる夢に向かって:ソレイユと『Good morning my dream』(改訂版)

紙媒体向けに編集していたことと、40話「ガール・ミーツ・ガール」を観返していて思うところがあったことと、とにかくいろいろあって書き直しました。すいません。一応以前に書いた「3つの星と新しい輝きのメロディー」の続きになります。(2017.07.23)

 

 さて、「3つの星と新しい輝きのメロディー」では “〈夜空→太陽〉への移行は明日へ向かうことである”という話をしました。この記事では、その“動き始めた”太陽の軌道を追っていきたいと思います。

 先に断っておきたいのですが、『Good morning my dream』は、取りも直さず『あかりジェネレーション』の歌です。いちご世代とあかり世代のテーマの相違については以前に書きました。しかしながら、ここでは敢えて“ソレイユ”という人称を固定して『Good morning my dream』を読むということを試みたい。この意図は、歌詞の意味を解釈し固定することではなく、歌詞を通して物語を照らすことにあります。

A word is dead

When it is said,

Some say.

I say it just

Begins to live

That day.

 

言葉は死ぬ

口にしたときに

という人がいる。

私は言う、まさに

その日に

生きはじめると

Emily Dickinson 

 

 では本題に入りましょう。『Good morning my dream』にソレイユという人称が介入すると、「朝」という言葉に新しい意味が浮かび上がってきます。すなわち、朝というのは太陽が昇る時ですから、これはソレイユが動き出したことを歌っている歌だということになるわけです。ソレイユの掛け声は「ソレイユ ライジング!」でした。「新しい服に着替え」、「未来ごと深呼吸」して、「南の空」へと向かっていく。そんな彼女たちの緊張と高揚感が読み取れます。

 より具体的に本編と重ねて言及していきましょう。

大事な決意はきっと ずっと前にしたの

今までと、これからに いちばん似合う朝を待っていたね

 このパートを歌っているのは紫吹蘭です。ソレイユ結成に際しての蘭についてのあれこれは、に述べました。“3人でライブに出ようとはじめて言い出したのは蘭だった”ということも確認しました。ですから、「大事な決意」はきっと、その頃から固まっていた。「今までと、これからに いちばん似合う朝」=ソレイユ結成の瞬間を、彼女はずっと待っていた。もちろんこれは、紫吹蘭1人だけの夢ではありません。「夢にあつまって」スターライト学園で出会い、そこではじまった毎日の中で、3人の夢=ソレイユは「目覚めてた」のです。ここで“friend”と“dream”は、ほとんど同じ意味を持つことになります。なぜなら、彼女たちの夢は、日常の中で生まれた、日常と地続きのものだから。そして「ソレイユを続けること」自体が夢なのだから。したがって、その形になった大きな夢に対する挨拶は「おはよう」でしかあり得ないということになるでしょう。 

扉をあけて出会いにいくよ

(いちご)夢にあつまって

(蘭)はじまる毎日

(あおい)目覚めてたmy dream

おはよう、わたしの大切なfriend 

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 さて、続くは2番のAメロですが、ここはもう言うまでもないかと思います。

あの時ね気づいたの これだってわかったの 世界が生まれかわるくらい

大きな声で呼びかけた 振り向いて欲しくて

 ここを蘭が歌うと、「あの時」が37話「太陽に向かって」のあの時だということになってしまう。自分の進む道を自分で決めた、「これだってわかった」あの時の変化は、まさに「世界が生まれかわるくらい」のものでした。

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 ところで、これは本当にどうでもいいことですが、私の推しは霧矢あおいです。でも、ソレイユの話をすると、不思議なぐらい紫吹蘭の話ばかりになってしまう。それだけ蘭の成長・変化はソレイユ結成と不可分なのだということだと思います。

 というか、そもそもいちごとあおいに関していえば、ある意味では一切の迷いもなかったかのではないかとさえ思うことがあります。ここで、編入試験合格後、はじめて学園の門をくぐる時のいちごとあおいのやり取りを思い出してみましょう。 

あおい「この門を越えたら、私たちのアイカツが本当にはじまる。いちご、一緒に頑張ろうね」

いちご「うん。やるからにはやる!一緒にトップアイドルになろう」

あおい「……どんなことがあっても友達だよ、いちご」

第2話「アイドルがいっぱい!」

 初期は一緒に上がっていけるかどうか、思い悩んでいた時期でした。美月や蘭に厳しい言葉を言われたこともありました。けれど、いちごとあおいはきっとずっと前から、それこそ小学5年生の夏から、根幹はブレていなかったのではないかと思います。

 ここで一度事実確認をしておきましょう。星宮いちごがスターライト学園に入ったきっかけは、紛れもなく霧矢あおいです。もちろん美月のステージを観て憧れたことも大きな理由ではありますが、あおいに誘われなければそもそもステージを観に行くことすらありませんでした。編入試験を受けようと誘ったのも、やっぱりあおいです。

 そして、霧矢あおいがアイドルになりたいと思ったきっかけも、やっぱり星宮いちごです。他ならぬいちごが、あおいを「観る側」から「観られる側」に引きずり込んだのでした。

あれは私がはじめてステージに立った瞬間で、はじめて観る側から、観られる側に回った瞬間。それからなんです。アイドルになりたいと思ったのは。今日まで私を導いてくれたのは、親友の星宮いちごなんです。

第40話「ガール・ミーツ・ガール」

 つまりどういうことかというと、レジェンドアイドルの血を引くいちごや、「アイドル博士」と呼ばれるあおいを突き動かしたのは、“血筋”でも“憧れ”でもなく、“友達”であるということです。導いてくれた親友を、2人が一瞬でも忘れたことがあったとは私には思えません。

 もちろん、2人の関係はここで終わるわけではありません。そこからはじまる毎日がある。新しく出会う仲間がいる。新しく目覚める夢もある。「光の向こうは 世界とつながる」のです。

 さて、かくして出会った3人の「目覚めてた」夢は、37話で形を成し、南の空へと動き始めました。その際、太陽に向かって走ってきた蘭が言った一言を、皆さんは覚えていますでしょうか。 

 

一緒に走り続けたい、仲間がいるから

 

 もうこれ以上の説明は野暮というものでしょう。全ては歌が語ってくれています。

扉をあけて出会いにいこう

(あおい)光の向こうは

(いちご)世界とつながる

(蘭)駆け出してmy dream

どこまでもキミと走っていたい  

 

 

 そして、駆け出した夢は、「ソレイユを続けること」という、進行形の「目覚めてる」夢になりました。最後は、その「目覚めてる」夢の向かう先を見据えて終わりたいと思います。

あおい「経験したことのない、大規模なツアーだけど」

いちご「きっと走りきれる、あおいと蘭が、隣にいてくれるから」

あおい「私も、いちごと蘭と一緒なら、怖いものなし!」

蘭「ああ、あたしもだ!一緒に走りきって、ずっと一緒に走り続けたい」 

いちご「いつの間にか、それは私たち3人の夢になってたね」

蘭「ああ、ずっと前から決まってたみたいにな」

あおい「じゃあ!どこまでも走っていっちゃいましょうか!」

3人「ソレイユ ライジング!」

第125話「あこがれの向こう側」

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 ここで、『Wake up my music』のこの歌詞を思い出してみましょう。

繋いだ手のひらはもう 自然なカタチ

少しずつ、でも最初から 決まってたみたい  

 「ずっと前から決まってたみたい」な夢を走りはじめたソレイユの3人は、この先何があっても、もう大丈夫なのだと思うのです。だって織姫学園長と星宮りんごは、あるいは神崎美月と夏樹みくるは、今でも一緒に走り続けているのですから。

 そんなマスカレードの世代からあかり世代までずっと受け継がれてきたSHINING LINE*を30分に詰め込んだようなエピソードが、173話「ダブルミラクル☆」でした。ソレイユの夢の成功を祈る意味でも、同話からの引用で、ここはひとまず締め括りたいと思います。

織姫 「ステージで心を一つにしたものは、いつだってまた一緒になれるわ」

りんご「私たちみたいにね」

第173話「ダブルミラクル☆」

 

【進撃の巨人】生類視覚効果という心理描写 (6月14日追記)

 『進撃の巨人』Season2の放送がはじまりました。第1期から4年弱。『甲鉄城のカバネリ』の制作も経て、映像技術は大きく進歩を遂げたように思います。なんといってもあの緊迫感。ついつい入り込んでしまって、ただの2Dの四角い画面とは思えないほどの迫力があります。今回はその技法の話です。

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 技法の話をするにあたって、まずは日本のアニメの特徴について少し言及しておきたいと思います。詳しくは高畑勲氏の「60年代頃の東映動画が、日本のアニメーションにもたらしたもの」という論文に、3コマ撮り、止め絵の多用などの「欧米とは異なる日本的娯楽アニメーション」の性質や、作画監督制をはじめとした「メインスタッフ中心主義」的な「日本型作画制作システム」などなど詳しく書かれていますので、興味のある方はそちらを読んでいただければと思います。大塚康生著『作画汗まみれ』(文春ジブリ文庫)に収録されています。

 ここで取り上げておきたいのは日本のアニメには演技が少ないということと、視点が近く主観的であるということです。ここでいう演技とは役者の演技ではなくアニメーターの演技、すなわち動きによってキャラクターの特徴を描写する演技のことです。簡単に言ってしまえば、日本のアニメは動かないということですね。*1

演技に関しては、人間中心の内容や感情移入しやすい主人公作りという側面だけではなく、欧米に比べて表情・身振り・言葉など、あらゆる面でもともと平板で抑制的な日本民族の性格を反映し、日本人を描く作品でなくとも、アメリカンアニメーションの特徴である過剰な流動感や、台詞と結びついた誇張の大きな動きはあまり取り入れなかった。また、主人公でなくとも、アメリカ型の誇張演技は日本製のキャラクターや日本語には似合わなかったし、あまりにわざとらしく感じられた。〈中略〉そして作画枚数節約の至上命令のもとに、①動きの基本は三コマ撮り(一秒間八枚で動きを作ること)、②止め絵多用、③止め絵口パク三枚による台詞が一般化し、緻密な動き・演技よりはいかにカッコイイポーズを描くかが要求されるようになる。

『作画汗まみれ』(文藝春秋、2013年、363-364頁) (太字筆者)

 動かすと枚数が増えるので、当然作画の負担も増えるということになります。ところが、上半身や顔のアップで口パクや目パチを合成すれば、作画枚数は格段に少なくなる。しかも、あまり動かない絵の方が日本製のキャラクターには合っている。そうして「緻密な動き・演技よりはいかにカッコイイポーズを描くか」を追求していくと、必然的にカメラは近くなり、遠くに構えたカメラでキャラクターの全身の動きを客観的に捉えるということは少なくなっていきます。*2

 試しに『白雪姫』を見てみましょう。全体的に流動的で動きが細かく、カメラが遠い感じがしませんか。

 逆に日本のアニメは、全体的にカメラが近く、キャラクターの動きに連動した主観的なカットが多いということがおわかりいただけるかと思います。*3 まあ『白雪姫』と『進撃の巨人』を比べるのもどうなんだという感じはしますが…。

 

 また高畑勲氏は、安易に作品世界に没入させ、主人公に感情移入させようとする日本のアニメの傾向に対し、警笛を鳴らしてもいます。

アメリカ随一の宮崎ファンを自称するジョン・ラセターの『トイ・ストーリー2』やブラッド・バードの『アイアン・ジャイアント』、さらにはニック・パークの『ウォレスとグルミット』の連作など、極上質の娯楽作品がハリウッドその他で生まれはじめている 。これらは、見る子どもたちが超人的な主人公に直接感情移入する(自分が主人公になった気分で作品の世界に没入する)のではなく、他者としての主人公に〈思いやり〉的に感情移入する作品であって、その主人公との適度な距離が「笑い」をも呼び起こすのである。

 現実世界の代用品として、のめり込むように映像を見ることの多い日本の子どもたちの異常な現状を考えるとき、これらの海外作品の示す傾向から深く学ぶべき時が来ているのではなかろうか。

『作画汗まみれ』(374頁) (太字筆者)

 大分かいつまんだ引用になってしまいましたが、あまり長くしすぎると本題に入れなくなりそうなのでこの辺にしておきます。上に見た日本のアニメの特徴の是非を論じるつもりもありません。ともかく「緻密な動き・演技」より「いかにカッコイイポーズを描くか」を追求し、近いカメラで主観的に「作品の世界に没入」させること。こういったことが日本人の性分に合っていて、予算の節約にもなり、毎クール何十本もアニメを量産することを可能にしているということは事実なわけです。

 で、『進撃の巨人』みたいな作品をアニメ化する際は、いかにして作品世界に没入させるかが大きな課題になってくる。間違っても「主人公との適度な距離」なんて感じさせてはいけないわけです。そこで重要な役割を果たしているのが、『甲鉄城のカバネリ』のメイクアップアニメーターを受け継いだ、生類視覚効果という役職です。

 生類視覚効果の基本的な仕事はディテールを盛ること。影や色を加えたり、手描きで毛のブラシを追加したり、目の血管とか細かく描き入れちゃったりする。それが生類視覚効果のお仕事です。『アニメージュ2017年3月号』に生類視覚効果班長の山崎千恵さんのインタビューが載っています。視覚効果を入れる前と後との比較画像も何枚か掲載されているので、気になった人は買ってみてください。

—どんな映像の方向性を目指して作業を?

山崎  巨人がそこにいる感覚ですね。きっと目の前に巨人がいたら、嫌だと思うんです(笑)。その本能的な嫌悪感、見たくないものを調査兵団のみんなは直視しなきゃいけないわけで。

ーその感覚を、観客にも共有させるように?

山崎  そうですね。近くにモノがあると細部まで見えますよね。たとえば机の木目は遠くからだと見えないけれど、近くに寄ればよるほどよく見えるようになります。そういう感覚でディテールを描き込むことで、巨人が本当に目の前にいると感じてもらえるように。

アニメージュ 2017年3月号』(53頁)

 これは、日本のアニメだからこそ生まれた発想だと思います。「現実世界の代用品として、のめり込むように映像を見る」ことを前提に、止め絵の迫力で勝負しているわけです。興味深いのは、近くに寄った感じを出すためにディテールを描き込んでいるということ。ここにはある種文学的な技巧を見ることができます。

凡庸な作家たちが一体に心理描写を好むのは、それがまた、人生ときわめて親和的な要素だからではある。われわれも、凡百の作中人物と同じく、あれこれ心に呟きながら現実を生きているわけです。ところが、いわばテクストに固有の現実というものに目を凝らすと、その凡庸な親和性がやはり、たちどころに瓦解する。すなわち、「彼は心ひそかに××と思った」と書くやいなや、その「××」は、もう心内の秘密ではなくなってしまう。それはすでに、読者によって読み取られているわけですから。したがって、心の中の言葉を秘匿されたものとして書くというのは、それ自身非常に矛盾しているわけですよ。

渡部直己『小説技術論』(河出書房新社、2015年、284頁) (傍点を太字に置換)

 これとは全然違うことですが、映像においても何かが視聴者に見られているということは、 作品世界の物理的なリアリズムを超えた影響力を有しています。人間と巨人の戦いを少し離れたところからカメラが捉えているような構図であっても、細部まで細かく描かれ、見えているということによって、私たちは近寄った感じを与えられるわけです(文学において特定の対象物と読者との距離を決めるのも、もちろん描写です)。

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 ですから、全篇一人称で書かれた小説でなくとも、対物描写は得てしてそのまま心理描写になり得る。「これは誰々の目線から見た巨人だ」などということを明示しなくとも、描かれているということ自体が映像と視聴者との関係において、キャラクター達の心情を表すことになるのです。カメラと対象の物理的距離は、ここでは問題ではありません。客観と主観の区別自体が消滅した、映像テクストに固有の現実というものがそこには展開されている。そして気づけばそこに入り込んでいる。『進撃の巨人』に感じるある種の立体感はそういうものだと思うのです。*4

*1: (6月14日追記)
 ここで「動かない」という言葉が悪い意味で使われているわけではないということをご理解ください(もちろんいい意味で使っているというわけでもありません)。当たり前のことですが、日本にも素晴らしいアニメーターの方々はたくさんいます。ほとんどがアフレコでリップシンクをしていないことを指摘される方もいるかもしれませんが、宮﨑駿はピクサージョン・ラセターに、「アフレコのいいところは、アニメーターが描き上げた最高の到達点が話すことにまで指導力を持つことができるということであって、ただ予算節約のためだけにやっているのではない」という主旨の発言をしています(『ラセターさん、ありがとう』)。

*2:3DCGアニメーションが日本に普及しないことも「平板で抑制的な日本民族の性格を反映」しているのかもしれません。

*3:この辺りのことは、叶精二著『『アナと雪の女王』の光と影』(七つ森書館、2014年)に、ピクサーが日本から受けた影響なども含めて詳しく書かれているので、そちらを参照していただければと思います。

*4:「他者としての主人公に〈思いやり〉的に感情移入する作品」も、少なくとも2017年現在の日本にはいくつかあるように思うのですが、その一つが今年公開された『映画プリキュアドリームスターズ!』です。登場人物たちがこっちの世界に語りかけてきて、観客を否応なく巻き込んでいくわけですが、3つのプリキュアそれぞれの世界と桜が原を行ったり来たりすることもあって、劇中世界と現実世界の区別ははっきりしていました。(私たちのいる世界を遭遇し得る世界の一つとして位置付けていた、といった方が的確かもしれません。)「笑い」の要素も多分に含まれていたと思います。こういう子ども向けの作品は確かにもっと必要かもしれません。

3つの星と新しい輝きのメロディー (トライスター編の糸を手繰る)

 トライスター編は、誤解を恐れずに断言すれば、異質です。『アイカツ!』全体を通してこれほどシリアスなエピソードは他に例がありません。木村監督は「コメディーはコメディーでも、重たいコメディーにはしたくないと思って、すみずみまで気を使いました」*1と言っているのに、トライスター編ははっきり言って重たい。神崎美月が悪役として嫌われてしまう可能性だって考えられるし、トライスター結成後の忙しさの演出も、蘭の退寮や深夜まで続くレッスンなど、不自然に感じてしまうほどに過剰です。ですが、『アイカツ!』ほどの作品が、意味もなく物語をシリアスにし、「かわいそう」なキャラクターに強制的に感情移入させ、徒に涙を煽るようなことをするはずがありません。では、トライスター編は何故必要だったのか。トライスター編に纏わるユニット結成の意義とキャラクターの成長を考えてみたいと思います。

 

 まあ大方はソレイユの話です。まずは、第35話「涙の星」の公開面接での、星宮いちご、霧矢あおい、紫吹蘭それぞれの受け答えを見てみましょう。

 いちごは、面接開始直後頭が真っ白になってしまいましたが、あおいと蘭のことを思い浮かべ、乗り切ることができました。さらに面接中、あおいがスターライトに誘ってくれたことや、蘭が自分の目を覚ましてくれたことなどを語り、いい親友に恵まれたことだけは自信があると明言しています。

 あおいは、いちごと蘭と共に最後の3人に残れたことの喜びを語り、今の自分は「ヘビとマングースに睨まれて生き残ったハムスターみたいな気分」だと言います。そして、いちごと蘭のアイドルとしての才能についてどう見ているのかを美月から尋ねられ、2人の魅力を熱心に語りました。

 ところが蘭の場合は、他の2人の面接では最初に訊かれていた「最後の3人に残れた今の気持ち」についての質疑が描かれておらず、いきなり蘭が「紫吹蘭が加わったら…」と最後の質問に答えるところから面接のシーンがはじまります。ここでは、いちごやあおいのことに関しては一切触れられていません。

私にとっては、ステージが自分の居場所なんです。隣に誰が来ても、誰と組んでも、例えトライスターに加わっても、紫吹蘭は紫吹蘭です。

 まるで自分を戒め騙しているようなセリフです。大嘘です。35話のホットケーキのシーンを見ても、第24話「エンジョイ オフタイム」を見ても、そんなことは火を見るより明らかです。実際、トライスターで蘭がミスをした際に、美月は「あなたらしからぬミスね」(第37話)と言った。「隣に誰が来ても、誰と組んでも、例えトライスターに加わっても、紫吹蘭は紫吹蘭」だなんてことは全くなかったわけです。

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  思うに、蘭はまだ自分の気持ちに素直になれていなかったのではないでしょうか。「確かにいちごやあおいといると楽しい。でも、アイカツは遊びじゃないんだ。」といったような具合で。そんな蘭が「あたしが探してた言葉」は「頑張ってね」じゃなくて「頑張ろう」だったのだと気づくためには、一度2人から引き離される必要があった。蘭が自分の気持ちに気づき、自分の意志で自分の居場所を決めなければ、ソレイユ結成の意味がないのです。

 

 ソレイユといえば『ダイヤモンドハッピー』です。この曲が第37話「太陽に向かって」において、劇中ではじめて歌われたことには大きな意味があります。

熱く確かな世界 動き始めた
そうだ私の世界
進め大好きな世界 とまらない鼓動
これが私の世界

動き始めた「熱く確かな世界」、「大好きな世界」を「私の世界」だとはっきり言えるようになったことが紫吹蘭の成長であり、ソレイユ結成の意義なのです。

 ちなみに、3人でライブに出ようとはじめて言い出したのは、実は紫吹蘭でした。

でも、ありかもな…。出てみるか?3人で、スペシャルオーディション。〔中略〕あたしも、なんか2人と一緒に闘ってみたくなった。(第8話「地下の太陽」)

 そして、第9話「Move on now!」ではじめて3人でステージに立ち、『Move on now!』を歌いました。この時のステージに上がる前のかけ声は、「明日へ向かってMove on now!」でした。

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 そして、37話で美月が蘭に送ったメールには、次のようにあります。

蘭の心にこれ以上雨がふらないように、蘭にはトライスターを外れてもらいます。

あなたには太陽のもとでかがやいていてほしいから!

私の夢であなたの夢を振り回してしまって、ごめんなさい。

いつも、夜空からあなたたちをみています

行く道は違っても、お互い同じ空で輝きましょう。

 夜が明け、太陽が昇るということは、明日が来るということです。37話で蘭は、文字通り太陽に向かって走りました。トライスターという夜空からソレイユという太陽に向かって、「明日へ向かってMove on」したのです。そして再び手を重ね、「これからは3人一緒に輝こう」と言った。

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  世界一硬い鉱物と考えられているダイヤモンドには、「永遠の絆」という宝石言葉があり、「壊れることのない変わらぬ気持ち」や「確かなるもの」を表します。*2 ソレイユとは、まさにこれからを照らす「永遠の絆」の太陽であり、自らの意志で明日へと向かう「新しい輝きのメロディー」なのです。

上を向けば太陽キラリ
まぶしくなれもっとね
君は光るダイヤモンド
新しい輝きのメロディー

 

 さて、このエピソードを通して大きく成長した人物がもう1人います。神崎美月です。美月がトライスターの3人目のメンバーに蘭を選んだ理由は、次のようなものでした。

私がアイドルユニットを組むからには、そのメンバーは、一人でも強く輝ける力を持つ人でなければと考えました。そして、オーディションの紫吹蘭の姿に、そのプロ意識が見えました。(第35話「涙の星)

 初期の神崎美月は、徹底した実力主義です。レベルの合うアイドルがおらず、1人でトップに立ち続けていた彼女が「一人で輝ける強さがあるかどうか」をユニットメンバー選出の基準にしたのは、当然の成り行きといえるでしょう。そして、蘭を「一人でも強く輝ける力を持つ人」だと判断し、トライスターのメンバーに選びました。ところが、それは間違いだったと気づく。単に強い光が集まればいいのではないのだと。ここから、神崎美月の成長物語がはじまります。

どんな惑星だって ひとりぼっちで

輝けるわけじゃない

 結局、美月はトライスター3人目のメンバーに、藤堂ユリカを選びました。あれだけ大規模なオーディションを行い、徹底的にふるいにかけて力のある人物を選び出したのにもかかわらず、ふるい落とされた側の人間を選んだのです。

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 ユリカは、単に力不足で脱落したのではありません。吸血鬼キャラを死守して、言い換えれば、自分だけの輝きを守って脱落したのです。そんなユリカを美月は選んだ。輝きの強さだけでなく、一つ一つの輝きそれ自体に目を向けるようになった証拠です。もしかえでとユリカの相性の良さも見抜いていたのだとしたら、これはものすごい成長です。そして、この成長はスターアニスへと繋がっていくのです。

夜空に輝く北極星は、3つの星が重なり合って一際目映く輝いている。私たちも一つになれば、きっとどこまでも大きく輝くことができる。この夏一番光り輝く、スターアニスという星に。(第41話「夏色ミラクル☆」)

 第41話「夏色ミラクル☆」で、みんなで同じ部屋に泊まりたいとリクエストしたのは、他でもない神崎美月でした。ずっと1人でトップを走り続けていた美月は、「ひとりだけれど独りではないスタート」へと進んでいくのです。*3

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 同じく41話で停電に見舞われた際、美月はその場で、おとめとかえでのマジックショーや、さくらの生け花、蘭のウォーキング、いちごとユリカの漫才(会話?)、あおいの「美月ちゃんクイズ」を発案し、電気を使わずに観客を楽しませます。その姿にいちごは強く感銘を受けたのでした。

美月さんはやっぱりすごい。私たち一人一人をちゃんと見てくれていて、ファンのみんなだって、こんな笑顔に。

 その後、美月は輝きを見つける側であるプロデュースに興味を持つようになり、スターライト学園を去った後、ドリームアカデミーのアドバイザーに就任します。

あなたたちと過ごした日々は輝いていた。でも、先輩としてもっと上手に後輩のあなたたちを導けたんじゃないかって思ってたわ。そう考えるうちに、プロデュースに興味を持ったの。(第63話「紅白アイカツ合戦!」)

 そして、最終的に彼女が選んだパートナーは、夏樹みくるでした。みくるって、言ってしまえばアイドル素人です。ど素人です。あの実力主義の神崎美月が、アイドルですらないみくるをパートナーに選んだ。彼女の輝きに気づくことができた。ここに美月の成長が集約されています。

いちごはたくさんいっぱいいろんなことを気づかせてくれた。そんな、いちごからもらったいっぱいで紡いだ翼を羽ばたかせて、私は新しいアイカツをスタートさせる。〔中略〕新しい私だけの、私自身で立ち上げた事務所から、ユニットで。(第78話「ミラクルはじまる!」)

 なんとも見事なのは、トライスターという3つの星が、スターアニスという3つのユニットの結び合せに繋がり、その「夏色ミラクル」が夏樹みくるへと繋がっているという点でしょう。涙の星にはじまった神崎美月の物語は、夏色のキセキに出会い、花の涙で一旦その幕を下ろしたのです。

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*1:アイカツ!オフィシャルコンプリートブック』(学研パブリッシング、2014年、126頁)

*2:ダイヤモンドの宝石言葉

*3:第42話「船上のフィナーレ☆」のいちごとかえでの会話が、『ヒラリ/ヒトリ/キラリ』の歌詞と呼応している点も見事。スターアニスの活動はいちごの「ひとりだけれど 独りではない スタート! 進むためのレッスン」にもなっている。