cubic in another

『血界戦線 & BEYOND』EDの映像演出について

 


DAOKO × 岡村靖幸『ステップアップLOVE』MUSIC VIDEO

 


 

 松本理恵さんの映像演出には、ジャンプカット*1・同ポジ*2の多用、フレームのある構図、ロングショットの絶妙な間の取り方等々、いくつかの特徴がありますが、映像と音の親和性が異常なまでに高いというのも特徴の一つではないかと思います。

 この「映像と音の親和性の高さ」について、一つ興味深い言及があります。

 といって幾分かうろ覚えではあるのですが、確か『京騒戯画』配信第一弾のオーディオコメンタリーだったと思います(DVD借りてきて確認します。すいません)釘宮理恵さんがこんなことを言っていました。曰く、松本監督とはじめて会った時「釘宮さんは赤だと思うんです」と言われて、それでなんだか100%信用してしまった、と。言われてみると、松本理恵さんは、音を「色」として捉えているように思えてきます。

 これはもちろん「松本理恵はシドバレットのような共感覚を持った天才なんだ!」とかそういう話ではなくて、つまり、視覚的なものと聴覚的なものの総体として映像を捉え、どう演出していくか。表情、動き、背景、劇伴、効果音、声、それぞれの色をどう混ぜ合わせて、一つの連続した映像にまとめ上げていくか。こういうことを徹底的に考え抜いて、コンテを描いたり、選曲をしたり、演技指示を出したりしているように思うのです。

 では、松本理恵さんはBGM、SE、セリフの出し方・ニュアンスまで全部絵コンテ上で計算しているのか。というとさすがにそれはないらしく、ダビング*3の段階で直すことも多いそう。これについては、『血界戦線』で音楽演出を担当されていた佐藤恭野さん(佐藤順一監督の奥さまです)のインタビューで少し触れられています。

佐藤 松本監督の場合は、このシーンのこのカットにはこの曲のこのフレーズがきて欲しい、みたいなイメージがきちんとある場所が多いので、それに沿って選曲・編集するのだけど、ダビングでセリフと効果音と曲が合わさった時に、彼女の中に新たに効果音の音質のイメージや曲の始まりやフレーズの位置、セリフの聞かせ方などのアイデアがどんどん湧きあがってくるんです。そのアイデアや直しが、悔しいかな「なるほど!」と思えちゃう。だからみんなそれに応えるべく、効果音を作り直したり、曲の編集を細かくやり直したりで、ダビングに10数時間かかったりしていましたね。彼女とは『血界戦線』の前に『京騒戯画』のTVシリーズ(2013年)で初めてお仕事をしたんですけど、そこで音楽編集の腕を買ってくださり、『血界戦線」でも指名していただいたので、期待に添えるよう頑張りました。

この人に話を聞きたい 第187回 佐藤恭野 (『アニメージュ』2016年7月号収録)

 

 そして、『血界戦線&BEYOND』のED映像も、音楽と映像の親和性が非常に高い。恐らく6コマ撮り、3コマ撮り*4をメインに、時に変則的なコマ数の撮影も混ぜながら、素材を重ねているのだと思いますが、まるで曲のテンポにぴったり合わせたかのような気持ちよさ。と同時に、むしろ少しずつずれていくことが心地良くもある。文章にすると支離滅裂ですが、この感覚は誰もが感じているのではないでしょうか。いやわかりませんが。

 

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 そして色使いが素晴らしい。背景のカラフルなノイズも、伴奏のピコピコ音と相互に影響しあって、互いを引き立て合っているようです。

 

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 「結論・ミクロン・1秒」とリリックが細かくなるところで6コマ→3コマに変える、右から入ってくるギターの音とほぼ同時*5にK・Kが上手からフレームイン*6、花びらの動くタイミングをバスとスネアの音に合わせるなど、前面に出てくる音との同期も図られています。

 

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 さらに見事なのが、Bメロの展開の仕方。「岡村靖幸の声と堕落王めっちゃ合ってるよね」とかそういうのもありますが、ここでシネスコサイズ*7アスペクト比を変えているのがすごいところ。フィルムノイズの哀愁も相俟って、曲の聴こえ方にかなり影響を与えているように思います。密着マルチ*8の速度も絶妙ですし、ここで一度テンションを落とすことで、見事にまとまったEDになっている。OP・EDの演出は、ある意味「編曲」だと言えるのかもしれません。映像によって音楽の聞こえ方も変わるし、音楽によって映像の見え方も変わる。そうして〈視覚の聴覚的刺激〉と〈聴覚の視覚的刺激〉が、絶妙に作用し合った映像に仕上がっているように思います。

 

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 最後のサビ折り返し後のカットも見事で、パトランプとビルの灯り、街灯の明滅、ビルの揺れ、これらの頻度の差が独特な視覚的リズムを生み出している。前カットのピコピコ音と対応した背景のノイズのニュアンスも、パトランプとカラフルなビルのライトによってしっかりと維持され、シークエンスを保ちながらも映像のテンションが少し下がり、終わりへと向かっていく。

 

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 そして最後、キメとぴったり合わせたカット割り、タイトルロゴの出し方、逆光、手ブレ、いやもう単純にかっこいい。

 


 

 そんなわけで、感動に補助線を引くような形でいろいろと書いてはみましたが、結局松本理恵さんの作る映像は、ギチギチに計算されて詰め込まれていてリズムが良く、端的にめちゃくちゃかっこよくて、セリフとセリフ、音と音の“間”に深い感動を覚えたりもする、と。そういうことだと思います。本当に、すっかり虜になってしまった…。

 なので、本稿は準備稿のようなものです。いつになるかはわかりませんが、いずれもっと資料を集めて、きちんとまとまったものを書きたいと思っています。

(とりあえず東映でも東宝でもアニメスタイルでも、どこでもいいので絵コンテ集(本編)を出して欲しい)

 

 


※映像演出の知識に乏しいので、用語の使い方に間違いがあるかもしれません。

*1:映画の編集技法の一種。画面の連続性を意図的に無視して、カットを繋げること。例えば、時間経過や場所移動を示す映像をあえて省略することでスピード感を出すなど、様々な演出効果を出すことができる。ジャン=リュック=ゴダールの「勝手にしやがれ」(1959)で始めて用いられたといわれている(作画@wiki

*2:以前使われたカットと同じ構図を使うこと。(作画@wiki

*3:音声データと、BGM(劇伴)と、効果音を映像と合わせる作業のこと(『SHIROBAKO』公式サイト

*4:6フレームで1回動く絵、3フレームで1回動く絵、という意味です。ちょっと使い方違うかもしれません…

*5:若干K・Kの方が遅い

*6:映画・テレビの演出用語で、登場していなかったものが画面の中へ入ること。(デジタル大辞泉

*7:コトバンク

*8:セルや背景を重ねて、違った速度で同時に動かすこと⇔SL(作画@wiki

芸カ14のご案内

 

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11月12日の「芸能人はカードが命!」第14回にて、『秘密の空をめぐって』という考察本のようなものを頒布します。A5版、70ページ、500円、スペースは【プ53】です。

よろしくお願いします。

『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』讃

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 今更ですが、本日、『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』を観てきました。本当に今更です。「どうせ総集編だろう」「演奏シーン映画館で観れるなら行くか」とどこかで高を括っていた自分が恥ずかしくなります。『響け!ユーフォニアム』はこの劇場版なくして完結しない、ということに気づくには、少し遅すぎたかもしれません。

 まず驚かされたのは、焦げ付いた鍋のメタファーでした。久美子の姉、黄前麻美子が味噌汁を作ろうとして焦がしてしまった鍋。その意味するところについては重々承知しているつもりでしたが、TV版で丹念に描かれた物語を105分に詰め込んだ劇場版では、そこに秘められたものがより克明に描き出されていたように思います。

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 「大人」はいろいろなことを言います。「吹奏楽をやめろ」と言ったり、「勉強しろ」と言ったりします。それは、恐らくある程度まで正しいことです。そして、田中あすかのような「頭のいい」人間ほど、何ともないような顔をして「大人ぶる」ことができます。けれど、そんなあすかに対して、久美子は言うわけです。「先輩だってただの高校生なのに!」。これは明らかに、姉の言葉を受けてのものです。

 「大人」との軋轢、「世界」との軋轢、そういう鍋の底にへばりついて取れない焦げのようなものに対して「わかったふり」をするのではなく、必死で擦ってそれを削り落とす。そうして傷だらけになって、はじめて見えてくる輝きがある。そういう傷だらけの美しい光を、人は時に“青春”と呼ぶのでしょう。それは「大人ぶる」こととは正反対でありながら、「大人になる」ために必要不可欠なプロセスでもあります。

 

 この3人*1のユーフォ奏者——黄前久美子、黄前麻美子、田中あすか——の青春を捉えたフィルムは、「ユーフォっぽい」という不明瞭な言葉に輪郭を与えてもくれました。

 ユーフォニアムという楽器は、非常にマイナーな楽器です。“『響け!ユーフォニアム』を観るまでそんな楽器知らなかった”という人も多いと思います(私もそうです)。その上、合奏では埋もれます。基本的に目立たない。けれど、柔らかく丸みのあるその音色は、メロディ(ソロ)にも適している。そんな立ち位置の楽器だそうです。*2

 久美子やあすかも、基本的には目立とうとしません。というより、素を前に出そうとしません。どこか冷めたような顔をして、他人の領分にあまり踏み込まない。けれど、内にはとてつもなく熱いものを秘めている。そういう性質を指して、あすかは「ユーフォっぽい」という褒め言葉を使っているのではないでしょうか。

 そして、この作品は『響け!ユーフォニアム』です。『響け!トランペット』でもなければ『きたうじ!』でもない。ユーフォニアムを中心に据えた物語です。だからこそ、この映画を作らなければならなかった。久美子とあすか——2人のユーフォニアム奏者に焦点を当てて、物語を再構成しなければならなかった。

 人間というのは本当にめんどくさい生き物で、その身一つで表現できることなんてほとんどありません。傷を剥き出しにして闘えるほど、器用ではありません。だからこそ彼女たちは、その“届けたいメロディ”をユーフォに託す。傷だらけになって、内に秘めたものを解き放つ。「響け!」と。

 そうです。この物語のタイトルは響け!ユーフォニアムです。「ユーフォっぽい」2人の青春だからこそ意味がある。『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』という珠玉のフィルムは、その被写界深度の浅さによってしか描けない“青春”をどこまでも美しく捉えていました。

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* 余談ですが、進藤正和と田中あすかの親子関係がユーフォの音で繋がっているところ、しかもユーフォの音と滝先生を通して伝えられた一言だけで16年分の空白が埋まってしまうというところも「ユーフォっぽ」っくて本当に素晴らしい。

*1:書くと冗長になってしまいそうな上、劇場版ではあまり焦点が当たってなかったので省きましたが、夏紀先輩の不器用さも非常に「ユーフォっぽい」ところです。

*2:ネットで調べたりYoutubeで演奏を聴いたりしただけの雑な知識なので、あんまり当てにしないでください。

『けものフレンズ』の黄金比

※本記事は、たつき監督や株式会社KADOKAWAをはじめとした特定の個人、法人等を擁護または攻撃するものではありません。

 

 『けものフレンズ』は、改めて思い返すと、ものすごいアニメでした。普段アニメを観ない人まで巻き込んで、とてつもないブームを巻き起こし、遂にはMステにまで進出。朝7時半の再放送で子どもたちの人気も獲得。放送時間前後のSNS(特にTwitter)は、今考えると異常とさえいえるほどの盛り上がりを見せていました。

 ヒットの要因は数多くありますが、「作家性の強さ」もその一つでしょう。監督・シリーズ構成・脚本・コンテ・演出――声優以外全部*1と言ってしまえるほどの仕事量を、たつきという一人の人間がこなしてしまった。その結果、画面全体に対する一人の作家の支配力が極限まで高められ、「ひとケタのコントロール」ができるほどにまでなっていました。たつき監督は、こう語っています。

――人気の原因には謎めいた世界観にもあると思いますが、これは原作の吉崎(観音)先生のなかにもあった世界観なんですか?

たつき 「アニメはアニメで自由にやってもらっていい」ということで、吉崎先生と細かく世界観のお話をしたわけではありません。ただ、最初の打ち合わせのとき、先生とは廃墟の話ですごく盛り上がったんですよ(笑)。その気配で「これならこういう世界観でいけそうだ」と思いました。もともと2つの軸をもつ作品が好きで、ほんわか笑える方面と、そうではない終末感が漂う雰囲気の両方をもたせたかったんです。ただ、その配合がとても難しかったですね。序盤はかわいかった話が途中からいもきなり反転してハードな展開になる作品というパターンがひとつあると思うのですが、ずっと51対49の配分で進むものはなかなか大変で。それにはひとケタのコントロールができなければならない。その点にはずっと苦心していました。激しいお話の波を描くのではなく、「けもの」ではずっと凪のような波に抑えていました。そうしながら、第4話や第7話ではその凪が徐々に大きくなっていくんですね。特に第11話と第12話では今までよりも大きな波が描かれるので、熱心に見てくださっている方の反応がとても心配でした。  

Newtype』2017年5月号 (太字引用者)

 アニメーションは分業が基本であり、コンテと演出処理を別の人が担当することも、作画監督を複数人置くことも当たり前になっていますから、普通はこの「ひとケタのコントロール」はできません。宮﨑駿さんのようにレイアウトを全カット担当するとか、コンテに中割りの枚数まで書いてしまうとか、そういうことになれば話は別かもしれませんが、基本的には無理です。では、『けものフレンズ』にはなぜそれができたのか。それはやはり、映像としてのクオリティが低かったから、ということになるでしょう。

 映像のクオリティを下げることで*2、画面全体に対する作家の支配力を極限まで上げる。そうして、どんなに波が大きくなっても、51対49のバランスが保たれる。だから、いつまで経ってもどっちに転ぶかわからない。来週何が起こるのか、全く予想ができない。目が離せない。『けものフレンズ』は、ひとケタ単位で徹底的に計算され尽くしたアニメであったからこそ、ここまで大きな社会現象になったのだと思います。

 EDのシルエットの消失、1話が全体の縮図になっている、などなど、その「仕掛け」を数えたら枚挙に暇がありません。けれど、それは全て視聴者に突きつけられた、解かなければならない「問題」ではない。あくまでも、楽しむための「仕掛け」に過ぎないものです。そういう視聴者を楽しませるための配慮が、画面の隅々にまで行き届いていた。そういう意味では、どこまでもクオリティの高いフィルムに仕上がっていました。

 「けものは居ても のけものは居ない」、「姿かたちも十人十色」という歌詞がありましたが、『けものフレンズ』という51対49の配分で編まれたフィルムは、「日常系」にも「終末もの」にも傾かない。「オタク向け」でも「子供向け」でもない。小さい子から「ガチ」な大人まで、全ての人が楽しく観れる。そういう「のけものを作らない仕掛け」がひとケタ単位で施されたフィルムだったのかもしれません。


*1:アニメイトタイムズ

*2:もちろん意図的に下げたという意味ではありません。予算とかいろいろ大変だったと思います。

『true tears』と『宝石の国』の陰翳

 


true tears』の陰翳

 『true tears』を観ていると、しばしば谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出します。『陰翳礼讃』は、非難を承知で乱暴に要約すれば、「日本のものには、建築にしても風呂にしても厠にしても吸い物にしても、必ず陰翳がある。対して西洋では、僅かな蔭をも許さず、四隅を隈なく照らすことを志向する」というような話です。今日ではもう著作権が切れているので、青空文庫で読むことができます。

 そして、何故『true tears』の話が出てくるのかというと、『true tears』では“隅々まで照らすこと”が注意深く避けられ、“陰翳を残すこと”が志向されているように思うからです。 

 例えば、『true tears』の背景美術には、ほぼ全編に渡って画用紙のようなテクスチャがあり、もやが薄くかかっています。

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もちろん、これが『陰翳礼讃』で述べられている日本式の厠と同じだとか、唐紙や和紙の話と繋がるだとか、そういうことを安易に言うつもりはありません。が、写実的に描かれた背景や、3DCGで作られた空間と比べると、“もやもやしている“、あるいは“ぼかされている”、ということにはなるでしょう。

いくら美人の玉の肌でも、お臀や足を人前へ出しては失礼であると同じように、あゝムキ出しに明るくするのはあまりと云えば無躾千万、見える部分が清潔であるだけ見えない部分の連想を挑発させるようにもなる。やはりあゝ云う場所は、もや/\とした薄暗がりの光線で包んで、何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧とぼかして置いた方がよい。

 この「けじめを朦朧とぼか」す効果は、入射光の激しく射す以下のカットにも見て取れます。

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特に第6話の残酷なまでの美しさは、強く印象に残っている方も多いのではないでしょうか。激しく射し込む入射光によって、文字通りの陰翳が表れる。それは彼女たちの心情を、間接的でありながらどこまでも直接的に、言葉に依らない表現によって描き出してもいました。

 そして、この激しく射し込む光は、背景とセルの区切りを見えにくくします。そういうけじめの曖昧なもの、陰翳のあるものに、少なくとも私は不思議な美しさを感じます。「物体と物体との作り出す陰翳のあや」ですね。

「掻き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの野原なりけり」と云う古歌があるが、われ/\の思索のしかたはとかくそう云う風であって、美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳の作用を離れて美はないと思う。

 また、これは『true tears』というより西村純二演出の特徴ですが、ハーモニー処理の多用というのがあります。このハーモニーでの“止め”にもある種の陰翳といいますか、秘匿美のようなものを見ることができます。*1 例えば、会話の途中や転ぶ瞬間などに、不意にハーモニーのカットが挿入される。すると、一連のシークエンスの中で、一部の動きが明示されなくなるわけです。

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 『true tears』ではこの“見せない”演出があらゆるところで行われています。その一例が随所への俯瞰カットの挿入。ふとした時に、空高くから撮影したようなカットが挿入されることで、ちょっと突き放したようなリズムが生まれる。そんな風に、作品全体として、踏み込みすぎない、奥まで照らし出さない、という特徴があります。その在り方は、素直に感情を表せない思春期の彼女たちの心とも対応しているのでしょう。

 思春期の感情の揺れ動きということで言えば、それ自体そもそも奥の見えないものです。5話には同じシーンを視点を変えて繰り返すという一風変わった演出がありましたが、比呂美視点で描かれた2回目も、結局言ったセリフを心のなかで繰り返すだけだったりしました。思春期の心の機微というのは、多分そんなものなのでしょう。思ったことが口をついて出てしまって、自分(比呂美)にも眞一郎にも苛立ってきて、自分の考えてることもよくわからなくて、みたいな。あれはそういう心情の描写だったのだと思います。*2 そして、これをメタレベルで考えると、“蔭を残すこと”だということになる。ここにも演出の形式と描かれる内容との鮮やかな対応関係を見ることができます。内面を描くように見せておいて、隅まで隈なく照らし出すことはしない、というわけです。

 さて、唐突に言いますが、ここまで述べてきたような『true tears』の演出は、漆器に入ったお吸い物なのだと私は思います。何を言い出すんだと思われるかもしれませんが、どうにもこれが一番しっくりきます。つまり、ぼんやりほんのりしているわけです。蔭になっている部分は見せない。みなまでは語らない。そこにどこか神秘的な美しさがある。

吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口にふくむ前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。

(太字引用者)

 もちろん、これを指して日本の国民性だなどと言うつもりは全くありません。こういう「人間関係に漂うやわらかな色気」*3に美しさを感じるのは私だけではないはずですし、日本人だけでもないはずです。

 そして、その「やわらかな色気」をかたどるかのように、彼女たちは本物の涙を流す。それはとても哀しく、残酷で、でもどこまでも綺麗で、純粋で、「誰かを大切に思えた」という形のない真実をその奥に透かしています。『true tears』は、そういう明かしきれない“青春”の物語なのでしょう。

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宝石の国』の陰翳

 さて、『陰翳礼讃』を踏まえると「日本人がCGアニメをあまり好まないのは、それが空間の隅々まで明瞭に描き出すものだからだ」とか、「はっきりとした数字的な境界線を持っているからだ」とかいうことを考えることができます。もちろん日本でも省略様式のセルアニメよりちゃんと動く3DCGアニメの方が好きだという人はいますし、逆に、例えばカナダには手描きアニメーションの最高峰と言っても過言ではないフレデリック・バック氏がいたりしますから、一概に国単位で括ることはできませんが、どうにも私たちには「手描き」をありがたがる風潮があるようです。『サザエさん』は実に2013年までセルを使ってアナログで撮影していましたし、最近でも、例えば『キラキラプリキュアアラモード』のOPの背景は、全て絵の具で塗っていたりします。*4

 それはCGアニメも例外ではなく、日本初の「フル3Dライブアニメ」である『APPLESEED』(2004)の頃から恐らくずっと、日本のCGアニメは「手描きに見えること」を目指して作られてきました。トゥーンレンダリングですね。今年だと『正解するカド』なんかがまさにそうです。11話のキスシーンなんかは、CGだということを忘れて見入ってしまったりしたものです。メインキャラ以外はCGモデルがなかったので、実家に帰って普段出てこないキャラクターが出てくると、ちょっと雰囲気があったかくなったりもして、いろいろな意味で成功したアニメだったと思います。

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 そんな中、最近放送がはじまった『宝石の国』は、CGならではの表現を追求している非常に特殊な例であるといえます。原作が漫画作品なのでもちろん基本はセルルックですし、背景美術にも手描きの質感はかなりありますが、CGでなければできないようなカメラワークを頻繁に使っていますし、何より宝石の質感が非常にリアルです。

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 それで、このフォスの髪なんですが、興味深いことに繊維質の素材が髪の中に敷き詰めてあって、そのシルエットを内部で乱反射させることによって、この質感を出しているんですね。その話を聞いて、どうしても谷崎を思い出してしまった。

支那人はまたぎょくと云う石を愛するが、あの、妙に薄濁りのした、幾百年もの古い空気が一つに凝結したような、奥の奥の方までどろんとした鈍い光りを含む石のかたまりに魅力を感ずるのは、われ/\東洋人だけではないであろうか。ルビーやエメラルドのような色彩があるのでもなければ、金剛石のような輝きがあるのでもないあゝ云う石の何処に愛着を覚えるのか、私たちにもよく分らないが、しかしあのどんよりした肌を見ると、いかにも支那の石らしい気がし、長い過去を持つ支那文明のおりがあの厚みのある濁りの中に堆積しているように思われ、支那人があゝ云う色沢や物質を嗜好するのに不思議はないと云うことだけは、頷ける。


水晶などにしても、近頃は智利チリから沢山輸入されるが、日本の水晶に比べると、智利のはあまりきれいに透きとおり過ぎている。


昔からある甲州産の水晶と云うものは、透明の中にも、全体にほんのりとした曇りがあって、もっと重々しい感じがするし、草入り水晶などと云って、奥の方に不透明な固形物の混入しているのを、寧ろわれ/\は喜ぶのである。

 なんでも『陰翳礼讃』と結びつけるのはどうなんだと自分でもちょっと思いますが、やはりここはさすが文豪と言うべきではないでしょうか。どういうわけか私たちは(少なくとも私は)、奥まで隈なく見えているものに対してあまり美しさを感じない。二重三重にフィルターがかぶせてあって、奥がうっすらとしか見えなくなっている(=陰翳ができている)ものに対して、ある種の神秘性を感じるようです。私は『true tears』や『宝石の国』を見る度、あまりに綺麗すぎて何か言い知れぬ感動に襲われ、唐突に泣きそうになったりするのですが、そこにはいつも陰翳の美しさがあるような気がしてなりません。何か奥へ奥へと誘致するような、神秘的で重々しい翳り。そういうものに心を惹かれているのでしょう。

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 というわけで、『宝石の国』の放送はまだはじまったばかりです。これからも各方面で話題になり、各種メディアで様々な特集が組まれることと思います。私はまだ『MdN』しか読めていませんが、それだけでも、光、影、色彩、明暗、草の質感、波のゆらめき、塵、フレア、入射光、コースティクスなどなど、細部まで徹底的に作り込まれていることがわかります(あまり取り上げられていませんが、音響演出もかなりこだわっているように思います)。髪に至っては、モデルになっている宝石の質感を踏まえて個別に作っているそうです。ものをつくっている人たちは、どうしてこうもすごいのでしょうね。本当に頭が上がりません。リンクを貼っておくので、是非読んでみてください(アフィリエイトではありません)。私はとりあえず明日にでも『CGWORLD』を買ってこようと思います。

 

CGWORLD (シージーワールド) 2017年 11月号 [雑誌]

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余談:手描きアニメの「奥」を読む

 先日、東京国際映画祭で『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』を観てきました。今年は既に2回、原恵一監督の話を直接聞ける機会がありまして、本当に上京してよかったなあと思っています。が、私の思い出話はこの際どうでもいいことです。

 会場では、入場特典として30頁ちょっとの冊子が配られていました。それがインタビューも絵コンテも載っている本当に素晴らしいものなのですが、そこに氷川竜介さん*5がこれまた素晴らしいことを書いています。

『オトナ帝国』や『百日紅』のクライマックスで使われる「背景動画」も、その一例だ。水彩画のはずの背景をベタ塗りの「アニメーション作画(動画)」で動かす技法で、走り出した人物をカメラマンが行先を見届けようと気持ちに寄り添って追うという演出意図で使われている。しかし実写や3DCGと異なり、「アニメーターがパワーをこめて動画にする」ということで、アニメの平面が立体以上の「世界」に見えてくる。主人公が倒れても立ち上がって走り続けるという意気込み、心意気も実写以上に激しく伝わるが、それは手描きがこめた熱量ゆえである。

(太字引用者)

 何故緻密に作られたCG空間よりも不格好な背景動画を好むのか。それは、そこに描かれているもの以上の何かがあるから。その奥に込められた熱量を読み取るから。そこに平面でも立体でもない「世界」があるから。

 この記事では、“奥にある何かを感じさせるような沈んだ翳りのあるもの”についての話をしてきましたが、私たちが手描きに執着する理由もここにあるのかもしれません。描かれているものの奥に込められた熱量。その熱量が作り出す「世界」。人の手で描き出されたアニメーションには、理屈では語れない「奥深さ」があるようです。

 

 

 


 ※ここまで書いておいて何ですが、私はCGアニメの歴史について全然詳しくないので、ご批判があれば喜んで拝聴します。

※(10.30)一部表現を改めました。

*1:ハーモニー処理は「実線部分のみセルで描き、色は背景画でつける画面処理」なので、上に見た入射光のカット同様セルと背景の境界を曖昧にしてるんだ、ということもできますが、曖昧にするというよりは境界そのものを失くしてしまう手法なので、少し意味合いが変わってくるように思います。

*2:8話には「思わず口から出た言葉って、本心だと思う?」というセリフもありました。

*3:松澤千晶さんのツイート(『カードキャプターさくら』についてのものですが、表現が好きなのでお借りしました。)

*4:アニメージュ』2017年10月号(81頁) 

*5:氷川竜介さんといえば、こちらの『true tears』論(mine)が本当に素晴らしいので是非読んでください。

片渕須直監督のアニメーション ―『アリーテ』『マイマイ新子』『この世界の片隅に』

※引用箇所の太字は全て引用者によるものです
※記事内のAmazonへのリンクはアフィリエイトではありません
※(10.21)誤字を修正しました
※(11.10)参考文献を修正しました

 

 約一年前のことですが、片渕須直監督が大学の講義にゲストとして来てくださったことがありました。その時におっしゃっていたことで、どうしても忘れられないことがあります。教室は書物ではないので、明確な出典はありませんが、確かにこう言っていました。

例えば、戦時中の世の中っていうのは、今私たちが生きている現代とは、全然違うわけですよ。でも、違うんだけど、断絶しているわけではない。アニメーションは、そういう地続きになっている世界への橋渡しをすることができる。

 この“地続きの世界へと橋を架けること”は、片渕監督のアニメーション作品で、一貫して行われていることのように思います。そしてそれは、「魔法」であり「奇跡」です。というと少し唐突に感じるかもしれませんが、どうしてもこういう言い方になります。

 例えば『アリーテ姫』では“胸の奥で何かを思い描く”ということが、魔法と同列のものとして扱われています。ボックスが幼い頃に訪れた浜辺を回想するシーンですね。アリーテに「一番行きたいと願う場所」を思い描いてみてと言われて、実際に思い浮かべる。その回想シーンの後、アリーテは自分の胸に手を当て、ボックスにこう言います。

今、遠い浜辺に立っていた?

千年もの時を飛び越えて、すごい魔法が詰まってるのよ。人のここには。そして、それは未来へ向けることだって。

 もう1つ、『アリーテ姫』で魔法と同等に扱われているものがあります。周知の通り、“手で何かを作ること”ですね。これはもう最初のセリフからそうです。

本物の魔法使いのものとは違うけれど、人の手には、確かに魔法のようなものが備わっている。だとしたら、この手にも。

 ラストも、ボックスが自分の手を見つめるカットで終わります。

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 ここで当然思い当たるのは、アニメーションも人が何かを想像し、それを人の手で描くことによって作られている、ということ。千年もの時を飛び越えるボックスの回想シーンだって、人が想像して手で描いているわけです。

 それは『マイマイ新子と千年の魔法』で描かれた千年前の周防も同じです。片渕監督はオーディオコメンタリーで、「時間は不可逆ではないのではないか」という話をされています。つまり、ロケハンをした時には、新子たちの住む昭和30年の景色すら存在していなかった。にもかかわらず、それを想像してアニメーションにしたり、あるいは「この場所って昔こうだったんだよね」なんて言いながら普通に思い浮かべたりできてしまう。そこにある種の奇跡のようなものを感じながら仕事をしている、と。

 だから、『マイマイ新子』では、レトロに見えるような撮影効果は使われていないんですね。資料やロケハンを元に思い浮かべた世界を、そのまま人の手で描いて再現している。それも、氷川竜介さんが言うように、「科学技術的発想の監督」*1として、徹底的なリサーチに基づいて描いている。つまり、想像力というのは、自分本位で好き勝手に妄想するということとは違うわけです。もちろん安易に「同じ」だと決めつけることでもない。それは、『この世界の片隅に』をご覧になられた方にはわかると思います。

 そうなると、その想像力というのは、やはり“地続きになっている世界”へと向かうことになります。記号化された歴史ではない、ある種民俗学的な視点ですね。“世界の片隅”と言い換えてもいいかもしれません。アリーテも新子もすずさんも“世界の片隅に”生きている。世界の中心にはいないわけです。

片渕 『マイマイ新子と千年の魔法』の「千年の魔法」は映画化するとき、原作の中にあった言葉をタイトルに入れたわけですが、どういうわけか前に作った『アリーテ姫』ではすでに「千年の魔法」という言葉が自分が書いたセリフとして登場しているんです。そして両方とも想像力に関わる物語です。想像力をどう扱うか。まったく存在しないものを想像するのではなく、自分の目の前にいる人の心を推し量ったり思いやることだったり、自分の目の前の風景にしても「ここにはかつてこんな人たちがいて、こんな経過をたどって目の前にあるんだな」ということを想像することだと思うんです。その想像力自体、アニメーションにとって非常に大事な原点だと思うわけです。今回、戦時中の普通の日常生活という題材ですが、この「想像力のあり方」がものすごく大事なポイントになっています。それが主人公の人となりや運命を定めているところでもある。その点では、自分が今まで何本も作ってきた作品の中で、一貫してると思っています。 

クリエイターズ・セレクション VOL.38 片渕須直

 『マイマイ新子』で描かれているのは、今日という1日を真剣に生きる、ごく普通の子どもたちの世界です。大人の事情、世界の不条理さに振り回されながらも、精一杯今日を遊び尽くし、明日を信じて生きていこうとする、そんな“こどものせかい”。諾子(清少納言)だって、同じ世界に生きています。もちろん平安時代ともなると、憶測で描いている部分が大半になるのだとは思いますし、実際に清少納言がどんな人だったのかも私たちにはわかりません。けれど、それでも時間は不可逆ではないのだろう。『マイマイ新子』の世界で新子たちと諾子たちが“想像力”で繋がっていく様子を観ていると、不思議とそう思えます。

千年経っても生えておる松よ。懐かしい今日のことを、いつまでも覚えておいておくれ。昔にも人はいる。千年経った先にも、誰かいる。 

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 一方『アリーテ姫』には、アリーテが城の窓から城下へと目を遣り、そこで暮らす人々が俯瞰的に描かれるシーンがあります。ここにはいわゆるガヤが入るのですが、そのガヤが、最早ガヤではないんですね。城下に生きている人たち1人1人が生きているのだということがはっきりとわかる。そしてアリーテはこう綴るわけです。

いつしか、お姫様の心は、愛おしさと羨ましさに溢れておりました。人の数だけ生きる物語があって、誰もがその主人公。なのに私は…。いいえ。私だってその1人のはず。

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そして最後、アリーテは「私は生きよう、この大地に生きる、人の間で」と言って、人混みの中に消えていきます。

 さらに、これは氷川竜介さん*2や、確か叶精二さんも言っていたような気がするんですが、片渕監督が学生時代に手掛けた『名探偵ホームズ』の脚本にも似たところがあるんですね。『名探偵ホームズ』の第5話「青い紅玉」は、ポリィという想像力を糧に生きている身寄りのない女の子の話なんです。サンドイッチを作ってみんなで食べるシーンなんかがあったりする。

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 こうして、この世界の片隅に生きる1人1人に想像力を働かせること。こういうことが、過去か現在か未来か、現実かファンタジーかに関係なく、片渕監督の作品では一貫して行われてきました。

 ですから、こういう人が『この世界の片隅に』のアニメーションを手掛けたという事実に対しては、何か歴史の必然性のようなものを感じずにはいられません。もちろん、片渕監督本人からの働きかけによって実現した部分が大きいのでしょうが、こうの史代さんは片渕監督の『名犬ラッシー』を観て、生活を正面に描くものをやりたいという意識を強くした*3と言いますから、やはり何か運命的なものを感じます。

 『この世界の片隅に』に対して公的にレスポンスをした著名人の1人に、『ガンダム』の富野由悠季監督がいます。富野監督は、『アニメージュ』2017年4月号で、「戦争をこんな風に描ける世代がついに現れたのだなと感じ入りましたし、嬉しく思いました」と発言しています。

 富野監督は、宮﨑駿監督と同じ1941年生まれ。1941年というと、太平洋戦争が開戦した年です。*4 ぎりぎり戦争を経験している世代、ということになるでしょうか。戦時中の体験をどれほど記憶していらっしゃるかはわかりませんが、戦後復興の時代に大人になったわけですから、やはり戦争というものをリアルに感じている世代なのだと思います。4歳の頃の記憶もなんとなく覚えているようです。*5

 そんな富野監督のいう「戦争をこんな風に描ける世代がついに現れたのだなと感じ入りました」というのは、恐らく“『この世界の片隅に』には「反戦思想」というイデオロギーがない”という文脈においてのものでしょう。などと勝手に書くのもどうかと思いますが、少なくともこの記事を読んだ限りではそうです。

今までの確固たるイデオロギーを持った人たちが、反戦を主張する表現をこれからもずっと続けられるのかということには、僕には疑問はあって、この眼差しは極めて新しい視点ではないかと思ったのです。


観客の立場から、別の言い方をすると、あの時代を極めて冷静に、客観的に表現している、ということに尽きます。イデオロギー色がついていない、監督の「体臭」もついていない作品で、それがあの時代というのは「こうなんだ」というのがストレートに感じられる作りになっています。


うかつにメッセージを入れてしまったら最後、つまらない――「お前、その程度の言葉しか使えないのね」っていう作品になったと思いますよ。

 私はいわゆる「若者」ですから、戦争を経験した世代にイデオロギー色のない客観的な表現ができるのかどうかについてはわかりません。けれど、「反戦思想」のないこういう映画を、戦争を経験したことのない世代が作ってしまった。このことの偉大さについては理解しているつもりです。それは恐らく、遠く離れた世界を想像して手で描くアニメーションでなければできないことです。

片渕 「『この世界の片隅に』は実写だってできるじゃないか」って時々言われますが、飛んでいるB-29とか、すずさんの家の裏の畑から見える呉軍港とか、CGで本当に生活者のドラマと同じように描けるのかな、という疑問があるんです。でも、自分たちの仕事ならできると。

――それはアニメーションだから?

片渕 そう、まさにアニメーションだから。だって自分たちが全部手で描けばいい。CGは今回1カットも使ってないし。手で描くなら、すずさんを描くのも、すずさんの住んでる家を描くのも、空を飛んでるB-29を描くのも、それが落とす爆弾を描くのも、全部同じにできる。そういう姿勢を通そうとしました。そうすることで、すずさんの実在に肉薄していきたかったんです。フィクションというよりは半実在みたいな境地に。そういう目的には、ドキュメンタリーのような手法がいいと思いました。『マイマイ新子』にはカメラを手持ちで構えて振っている感じがありますが、こっちはカメラはFIX(固定)で据え、すずさんが風景を眺めてるのをじっと撮っている画面が多い。PAN(カメラの振り移動)は控えめにしました。要するに世界がそこにあり、ポンと据えたカメラで撮ることで、ドキュメンタリーっぽい感じを出そうと。

クリエイターズ・セレクション VOL.38 片渕須直

富野 何よりも重要なのは、こういう形でアニメという媒体を使っていながらも、「実写以上に」戦時中の日常を描ききることができたということは、おそらく実写の監督たちにはできなかったのではないかなと思っている部分もあります。「アニメだということを忘れて最後まで観きってしまった」というような評論が多い、というのはどういうことなのか? という別の言い方もありますけど、これは後ほどお話ししましょう。よくできた作品というのはこういうもので、アニメも実写も関係ないんです。実写の監督にはできないだろうと言ったのは、実写であの時代を撮ろうと思った時に、きっと「作為」がアニメ以上に作用するんです。それで、『この世界の片隅に』ほどには穏やかには作りきれなかっただろうなということもあって、大変優れた映画だと思いました。


富野 だから、そういう造形も含めてなんですが、それを実写でやったらどうなるのか? ということも観ている間考えていて、やはりアニメの絵が持っている――「力」という言い方はしませんが――「象徴性」というものがシンボルとして機能していると思いました。それこそすずさんが嫁入りをしてから戦争が終わるまでの2年間、その成長を描いた物語ではないと思うのですが、それでも彼女は成長する。それがすごく綺麗に描かれていて、うかつな役者を連れてきたら、その役者の「個性」が出てしまうので、すずという物語上のキャラクター=シンボル――別の言い方をすれば偶像としての「アイドル」――としての形を作れないだろう、とは思いますね。

『この世界の片隅に』は宝――「実写以上に」戦時中の日常を描ききっている! 富野監督が片渕監督に伝えたかった言葉とは?

 戦争を経験した世代が「客観的」だと称するほどのものを、1968年生まれのこうの史代先生と1960年生まれの片渕監督が、その手で作り上げた。これは本当に、偉大な達成です。「自分が生きているこの時代が決定的な終わりであり、決定的な始まりである」という思考は「根本的にナチス的であり、根本的にカルト的」だと言いますし*6、『この世界の片隅に』を作り上げた“人の力(=想像力,手で描くこと)”は、違う世界、違う時間、違う国、違う人を思いやり推し量ることと同じ力ですから、こういう作品を作ることのできる人たちがいなければ、人類はまた同じ間違いを繰り返してしまうのではないか、とも思います。

 片渕監督は、『アリーテ姫』の公開以前から、こういうことを言っています。

世の中で誰もがぶつかる現実というものの大きさに対して、自分の心を保つためにエンタテインメントが必要なのではないか。勿論、エンタテインメントと言っても、その場しのぎのものではなくてね。『アリーテ姫』は、大きな現実の前で自分の存在が値打ちがあるのか知りたいと思ってる人の、気持ちに応えるような映画にしようと思った。

『アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい 2001-2002』(講談社、2011年、120頁)

 戦争というのは、この上なく不条理で大きな現実です。それでも、私たちは今ここに、この世界の片隅に生きています。『この世界の片隅に』という映画はそういう意味で、1つの「勝利」なのではないかと思います。つまり、すさまじい破壊と運命に対して、この世界の片隅に生きる人たちの「生活」は負けなかった。そして、その「生活」は今も続いている。しかも、戦争というのは、断絶した世界のことではない。私たちは戦争と地続きの世界に生きていて、その時代に橋を架けることもできる。目を背けない限り、時間は不可逆ではない。

 だから、『この世界の片隅に』という作品は、千年経って、戦争も軍隊もなくなったとしても、きっと残るのだと思います。『マイマイ新子』で諾子が言っていたように。あるいは『アリーテ姫』の金色の鷲のように。そして、この世界の片隅に今生きている私たちに思いを馳せてくれる人が、千年後にもきっといる。そうやって世界は少しずつよくなっていくのだと思います。

 ちょっと気恥ずかしくなってきましたね。最後は富野監督に譲ろうと思います。

まさに巧まずして、客観的に、「この時代は大変だった」ということを(直截には)何ひとつ言わずに、するするっとまとめているという意味では――本当にあの、言い過ぎるかも知れないんだけど……言い過ぎるな(笑)。うん、ちょっとした「宝」だなあと思っています。

 

 


参考:坂口安吾『もう軍備はいらない』

 腕力と文明を混同するのがマチガイのもとである。原子バクダンだって鬼がふりまわすカナ棒の程度のもので、本当の文明文化はそれとはまるで違う。めいめいの豊かな生活だけが本当の文明文化というものである。
 国防のためには原子バクダンだって本当はいらない筈のものだ。攻めこんでくるキ印がみんな自然に居候になって隅ッこへひっこむような文明文化の生活を確立するに限るのである。五反百姓の子沢山という日本がこのままマトモに働いて金持になれないというのは妄想である。有り余るお金や耕しきれない広大な土地は財産じゃない、それを羨む必要はないのである。そして国民全体が優秀な技術家になることや、国そのものが優秀な工場になることは不可能ではなかろう。
 我々の未来が過去の歴史や過去の英雄から抜けだすことはありうるものだ。食うものを食わずにダンビラを買い集めて朝夕せッせととぎすましたり原子バクダンを穴倉にためこむような人々を羨む必要はないじゃないか。何百万何千万人の兄弟を殺したあげくにようやく戦争に勝ったというようなことが本当の勝利であろうか。
 泥棒や人殺しは割が合わないと云うが、戦争というものも勝っても割が合わないものだ。かりに一ツの国が全世界を征服しても、全世界を征服することによってはじめて得られるという特別の個人生活は有りやしない。そんなバカバカしく大ゲサなことをしたって有り余るものを持ちすぎるだけのことで、人を征服することによって自分たちの生活が多少でも豊かになるような国はもともとよッぽど文化文明の生活程度が低かっただけの話、つまり彼は単に腕ッ節の強いキ印であるにすぎず、即ち彼はやがて居候になるべき人物であるにすぎないのである。文化文明の生活程度を高めるためには、戦争することも、人を征服することも不要である。そこにはおのずから限度があって、戦争に引き合うような途方もない国民生活水準が有るべきものではないのである。

目覚めてる夢に向かって:ソレイユと『Good morning my dream』(改訂版)

紙媒体向けに編集していたことと、40話「ガール・ミーツ・ガール」を観返していて思うところがあったことと、とにかくいろいろあって書き直しました。すいません。一応以前に書いた「3つの星と新しい輝きのメロディー」の続きになります。(2017.07.23)

 

 さて、「3つの星と新しい輝きのメロディー」では “〈夜空→太陽〉への移行は明日へ向かうことである”という話をしました。この記事では、その“動き始めた”太陽の軌道を追っていきたいと思います。

 先に断っておきたいのですが、『Good morning my dream』は、取りも直さず『あかりジェネレーション』の歌です。いちご世代とあかり世代のテーマの相違については以前に書きました。しかしながら、ここでは敢えて“ソレイユ”という人称を固定して『Good morning my dream』を読むということを試みたい。この意図は、歌詞の意味を解釈し固定することではなく、歌詞を通して物語を照らすことにあります。

A word is dead

When it is said,

Some say.

I say it just

Begins to live

That day.

 

言葉は死ぬ

口にしたときに

という人がいる。

私は言う、まさに

その日に

生きはじめると

Emily Dickinson 

 

 では本題に入りましょう。『Good morning my dream』にソレイユという人称が介入すると、「朝」という言葉に新しい意味が浮かび上がってきます。すなわち、朝というのは太陽が昇る時ですから、これはソレイユが動き出したことを歌っている歌だということになるわけです。ソレイユの掛け声は「ソレイユ ライジング!」でした。「新しい服に着替え」、「未来ごと深呼吸」して、「南の空」へと向かっていく。そんな彼女たちの緊張と高揚感が読み取れます。

 より具体的に本編と重ねて言及していきましょう。

大事な決意はきっと ずっと前にしたの

今までと、これからに いちばん似合う朝を待っていたね

 このパートを歌っているのは紫吹蘭です。ソレイユ結成に際しての蘭についてのあれこれは、に述べました。“3人でライブに出ようとはじめて言い出したのは蘭だった”ということも確認しました。ですから、「大事な決意」はきっと、その頃から固まっていた。「今までと、これからに いちばん似合う朝」=ソレイユ結成の瞬間を、彼女はずっと待っていた。もちろんこれは、紫吹蘭1人だけの夢ではありません。「夢にあつまって」スターライト学園で出会い、そこではじまった毎日の中で、3人の夢=ソレイユは「目覚めてた」のです。ここで“friend”と“dream”は、ほとんど同じ意味を持つことになります。なぜなら、彼女たちの夢は、日常の中で生まれた、日常と地続きのものだから。そして「ソレイユを続けること」自体が夢なのだから。したがって、その形になった大きな夢に対する挨拶は「おはよう」でしかあり得ないということになるでしょう。 

扉をあけて出会いにいくよ

(いちご)夢にあつまって

(蘭)はじまる毎日

(あおい)目覚めてたmy dream

おはよう、わたしの大切なfriend 

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 さて、続くは2番のAメロですが、ここはもう言うまでもないかと思います。

あの時ね気づいたの これだってわかったの 世界が生まれかわるくらい

大きな声で呼びかけた 振り向いて欲しくて

 ここを蘭が歌うと、「あの時」が37話「太陽に向かって」のあの時だということになってしまう。自分の進む道を自分で決めた、「これだってわかった」あの時の変化は、まさに「世界が生まれかわるくらい」のものでした。

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 ところで、これは本当にどうでもいいことですが、私の推しは霧矢あおいです。でも、ソレイユの話をすると、不思議なぐらい紫吹蘭の話ばかりになってしまう。それだけ蘭の成長・変化はソレイユ結成と不可分なのだということだと思います。

 というか、そもそもいちごとあおいに関していえば、ある意味では一切の迷いもなかったかのではないかとさえ思うことがあります。ここで、編入試験合格後、はじめて学園の門をくぐる時のいちごとあおいのやり取りを思い出してみましょう。 

あおい「この門を越えたら、私たちのアイカツが本当にはじまる。いちご、一緒に頑張ろうね」

いちご「うん。やるからにはやる!一緒にトップアイドルになろう」

あおい「……どんなことがあっても友達だよ、いちご」

第2話「アイドルがいっぱい!」

 初期は一緒に上がっていけるかどうか、思い悩んでいた時期でした。美月や蘭に厳しい言葉を言われたこともありました。けれど、いちごとあおいはきっとずっと前から、それこそ小学5年生の夏から、根幹はブレていなかったのではないかと思います。

 ここで一度事実確認をしておきましょう。星宮いちごがスターライト学園に入ったきっかけは、紛れもなく霧矢あおいです。もちろん美月のステージを観て憧れたことも大きな理由ではありますが、あおいに誘われなければそもそもステージを観に行くことすらありませんでした。編入試験を受けようと誘ったのも、やっぱりあおいです。

 そして、霧矢あおいがアイドルになりたいと思ったきっかけも、やっぱり星宮いちごです。他ならぬいちごが、あおいを「見る側」から「見られる側」に引きずり込んだのでした。

あれは私がはじめてステージに立った瞬間で、はじめて見る側から、見られる側に回った瞬間。それからなんです。アイドルになりたいと思ったのは。今日まで私を導いてくれたのは、親友の星宮いちごなんです。

第40話「ガール・ミーツ・ガール」

 つまりどういうことかというと、レジェンドアイドルの血を引くいちごや、「アイドル博士」と呼ばれるあおいを突き動かしたのは、“血筋”でも“憧れ”でもなく、“友達”であるということです。導いてくれた親友を、2人が一瞬でも忘れたことがあったとは私には思えません。

 もちろん、2人の関係はここで終わるわけではありません。そこからはじまる毎日がある。新しく出会う仲間がいる。新しく目覚める夢もある。「光の向こうは 世界とつながる」のです。

 さて、かくして出会った3人の「目覚めてた」夢は、37話で形を成し、南の空へと動き始めました。その際、太陽に向かって走ってきた蘭が言った一言を、皆さんは覚えていますでしょうか。 

 

一緒に走り続けたい、仲間がいるから

 

 もうこれ以上の説明は野暮というものでしょう。全ては歌が語ってくれています。

扉をあけて出会いにいこう

(あおい)光の向こうは

(いちご)世界とつながる

(蘭)駆け出してmy dream

どこまでもキミと走っていたい  

 

 

 そして、駆け出した夢は、「ソレイユを続けること」という、進行形の「目覚めてる」夢になりました。最後は、その「目覚めてる」夢の向かう先を見据えて終わりたいと思います。

あおい「経験したことのない、大規模なツアーだけど」

いちご「きっと走りきれる、あおいと蘭が、隣にいてくれるから」

あおい「私も、いちごと蘭と一緒なら、怖いものなし!」

蘭「ああ、あたしもだ!一緒に走りきって、ずっと一緒に走り続けたい」 

いちご「いつの間にか、それは私たち3人の夢になってたね」

蘭「ああ、ずっと前から決まってたみたいにな」

あおい「じゃあ!どこまでも走っていっちゃいましょうか!」

3人「ソレイユ ライジング!」

第125話「あこがれの向こう側」

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 ここで、『Wake up my music』のこの歌詞を思い出してみましょう。

繋いだ手のひらはもう 自然なカタチ

少しずつ、でも最初から 決まってたみたい  

 「ずっと前から決まってたみたい」な夢を走りはじめたソレイユの3人は、この先何があっても、もう大丈夫なのだと思うのです。だって織姫学園長と星宮りんごは、あるいは神崎美月と夏樹みくるは、今でも一緒に走り続けているのですから。

 そんなマスカレードの世代からあかり世代までずっと受け継がれてきたSHINING LINE*を30分に詰め込んだようなエピソードが、173話「ダブルミラクル☆」でした。ソレイユの夢の成功を祈る意味でも、同話からの引用で、ここはひとまず締め括りたいと思います。

織姫 「ステージで心を一つにしたものは、いつだってまた一緒になれるわ」

りんご「私たちみたいにね」

第173話「ダブルミラクル☆」