cubic in another

【エロマンガ先生】紗霧アニメーターの仕事を推し量る

 こんにちは。春アニメも終盤に差し掛かり、吹く風も次第に夏めいてまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私の方はといいますと、『正解するカド』がめちゃくちゃ面白いとか、『冴えカノ』がめちゃくちゃエモいとか、『アリスと蔵六』の桜美かつしコンテがすごいとか、相変わらずそんな感じです。

 なので、書きたいことはいろいろあるのですけれど、今回は『エロマンガ先生』について書くことにします。というのも、以前『進撃の巨人』の生類視覚効果について()書いたら思いの外受けが良かったんですね。なので、『エロマンガ先生』の紗霧アニメーターも掘り下げたら面白いんじゃないかと思ったわけです。

 

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  バッチリ1話からクレジットされている紗霧アニメーターの小林恵祐さん。竹下良平監督がXEBECにいた頃の後輩にあたり、監督からの信頼はかなり厚いようです。

 たまに勘違いしている方がおられるのですが、紗霧アニメーターは紗霧だけを専門に描くアニメーターではありません。海外だとキャラ毎に専属のアニメーターがいたりすることもありますが、そういうのとはちょっと違います。exciteニュースのインタビュー記事で、少し触れられていますね。

伏見 エロマンガ先生の動画配信シーンは、原作を超えたと思っています。紗霧がお尻を振りながらイラストを描いてる姿がチラチラと映ったりして、すごく可愛くなっていましたよね。僕が文章で表現しきれなかった部分を強化して描いていただけたと思っています。

竹下 そこは「紗霧アニメーター」の仕事だと思います。今回、女の子の芝居が得意な小林恵祐さんというアニメーターに、紗霧の重要なカットを専門で描いてもらっていて。コンテの段階で各話10カットくらいの「紗霧カット」を指定して。そこだけをお願いしているんです。

 また、『アニメージュ』2017年6月号に収録されている竹下監督のインタビュー記事には、「とても洗練された女の子の芝居を描ける小林恵祐さん」に「各話数カットずつ紗霧を中心に、他の女の子の芝居も担当してもらっている」(52頁)とあります。

 一番詳しく具体的に書かれているのは、pixivisionでしょうか。竹下監督曰く、「紗霧をメインに描いてもらっていますが、フェチ心をくすぐるポイントはここ! というところを描いてもらっています。いわゆる「紗霧カット」と呼ばれているところですね」とのこと。

 つまりまとめると、紗霧アニメーターは、「各話数カットから10カット程度、紗霧をはじめとした女の子の洗練された芝居が必要とされる、フェチ心をくすぐるような勝負カット(紗霧カット)を専門に描く役職」ということになるでしょうか。

 そして、私が確認できる範囲で「紗霧アニメーターの担当カットだ」と公言されているものが、以下の7つになります。 並べてみると、確かに動きが細かく、「アニメとリアルのギリギリのところを攻めている」ような印象を受けます。「ループする」という要素もしっかりありますね。

 

<exiteニュース>

・「お尻を振りながらイラストを描いてる」カット

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<pixivision>

・「パジャマを脱いでいるシーン」 

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 ・「自分のお尻を撮影してイラストの参考にするカット」

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・「紐パンを結ぶシーン」

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 ・「部屋を出たくないと駄々をこねる」シーン

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< アニメージュ 2017年7月号> (119頁) 

・「紗霧が靴下を脱ぐシーン」

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・「ベッドの上でゴロゴロするシーン」

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 というわけで、情報不足の感は否めませんが、以上のことを踏まえて紗霧アニメーターっぽいカットを抄出してみようというのが本記事の主旨になります。注意深く観ていると、急に動きが細かくリアルになるカットがあるので、恐らくそこが「紗霧カット」なのだろうと思います。(あくまで推測に過ぎないということをご理解ください。また、GIFは結構適当なので、アニメーター志望の方とかがもしいらしたら、ちゃんと本編をコマ送りで観ることをオススメします。)

※作画MADも参考にさせていただきました

 

 

 

#1 「妹と開かずの間」

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#2 「リア充委員長と不敵な妖精」

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#3 「全裸の館と堕落の主」

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#4 「エロマンガ先生

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#5 「妹とラノベ企画を創ろう」 (OP前ほとんど紗霧カットな気がする)

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#6 「和泉マサムネと一千万部の宿敵」

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#7 「妹と世界で一番面白い小説」
 原画に小林恵祐さんがクレジットされていなかったため、紗霧カットなしと判断しました

 

#8 「夢見る紗霧と夏花火」

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#9 「妹と妖精の島」

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#10 「和泉マサムネと年下の先輩」
 原画に小林恵祐さんがクレジットされていなかったため、紗霧カットなしと判断しました

 

#11 「二人の出会いと未来の兄妹ふたり

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#12 「エロマンガフェスティバル」 (6/25追加)

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「新文芸坐×アニメスタイル 原恵一監督のアニメーション映画」と「ポッピンQ展 宮原監督&金丸Pトークショー」

 土曜日は新文芸坐原恵一監督のお話を聞き、日曜日は東京アニメセンターで宮原直樹監督のお話を聞くという、なんとも贅沢な週末を過ごすことができたので、何か書いておこうと思います。イベントレポートみたいなちゃんとしたものには多分なりません。

 

6/17(土) 原恵一監督のアニメーション映画
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 原恵一監督と言えば『オトナ帝国』だと思うのですが、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。『戦国大合戦』だったり、『暗黒タマタマ』だったり、もうちょっと年輩の方だと『エスパー魔美』だったり、80年代の『ドラえもん』だったりするのでしょうか(これ年齢がバレますね)。ともあれ、私にとっての『オトナ帝国』がそうであるように、原恵一監督の作品が映画という枠を飛び越えて記憶の奥深くに根付き、人生の一部になってしまっている、そういう方って結構多いのではないかと思います。

 そんな原監督のお話を聞いてから、朝までかけて映画を3本観たわけなんですが、トークパートで印象的だったのは、藤子F先生の作品をはじめとした“自分の根幹を作ってきたもの”へのリスペクトの強さ。お酒が入ってるせいもあってか、「自分の根幹を作ってきたものを軽んじて、自分の力だけでポッと出たと勘違いしてるような奴らはみんな消えた。泡沫。泡沫。」と、結構痛烈に批判をされていました。*1

 今回のイベントで上映されたのは『百日紅さるすべり~Miss HOKUSAI~』、『河童のクゥと夏休み』、『カラフル』の3作品でしたが、確かにいずれの作品にも、そういったものへのリスペクトが感じられます。怪奇現象や妖怪、あるいは生き返りみたいな“すこしふしぎ”な要素が、日常と地続きのところにあるドラマに息づいていく。この在り方はドラえもんとかなり近いところがあって、トークで「クゥはドラえもんと同じ」とおっしゃっていたのも、きっとそういうことなのだろうと思います。

 どこにでもあるような家族の風景を描いているという点も、3作品全てに共通しています。現代の小中学生も、江戸時代の絵描きたちも、同じように毎日を生きている。そして、そこに描かれている1人1人のキャラクターや家族の在り方は、恐らくどの年齢の人にも何かを意味します。

 そうして気づけば、私たちの生活に『ドラえもん』が当たり前にあるのと同じように、その作品自体が私たちの生活に歩み寄ってきて、映画という枠を超えた感覚になっている。原恵一監督のすごいところは、そんな“ファンタジーとしての日常”をずっと描き続けていることだと思います。

 僕にとってはそういった描写(普通の日常をアニメで描く事)が、他の人にとってのアクションシーンや、お色気シーンの代わりで、そういうのを作る事に快感を覚えていたのかもしれないですね。『魔美』だけじゃなくて、藤子Fさんの描く家族というのは、東京の郊外に家を持っていて、食事はみんなで一緒でね。ああいうのに憧れがあったのかもしれないですね。僕の実家は商売をやっていて、家族揃って飯食った記憶ってほとんどないんですよ。親父は朝早く出かけて、夜遅く帰ってくるような仕事だったし。「チャコとケンちゃん」とか「ケーキ屋ケンちゃん」とか、あの辺のドラマの中の生活というものに、憧れがあったのかもしれないですね。

(小黒祐一郎) 僕なんかも、思い浮かべる「家族の食卓」って『サザエさん』の中のものなんですよね。今時、お父さんがわざわざ着物に着替えて、ご飯食べるわけないと思うんだけど。

 『おもひでぽろぽろ』の世界みたいな。

 「ファンタジーとしての日常」を描いてるんですね。

 多分、そうですね。そういうのに縁がなかったから。

『この人に話を聞きたい アニメプロフェッショナルの仕事 1998-2001』
(飛鳥新社、2006年、155頁)

 

 ちょっと話が飛びますが、いわゆる批評とか考察とか感想ブログとか、そういうものの意味って、「ある一つの視点を提示することによって、作品のいくつかの点に光が当たって、却って多義的な魅力を引き出すことができる」ことにあると思うんです。少し前に『エヴァンゲリオン』のHDリマスター版がNHKで放送された時、「エヴァ噺」というおまけコーナーが付いていましたが、あれなんかがまさにそうで、森永卓郎さんとか、中川翔子さんとか、神田沙也さんとかが好き勝手『エヴァ』について語ったり、名シーンを選んだりするのですけれど、その噺を聞く度に『エヴァ』の魅力がどんどん引き出されていく。そうして何度でも再視聴に堪えうるものが、名作と呼ばれるのだと思います。

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 ただ、原恵一監督の作品に関しては、「このシーンはこうだ」とか言ってしまうのはちょっと違うような気がしていて、きっと個人個人の経験に寄り添ってこそ意味があるのだと思うし、子供の時に観るのと大人になってから観るのとでは、感じ方もまるで変わってくる。要するに、1人1人が人生をかけて付き合っていく作品だと思うわけです。

 ですから、最後に一言「どの作品もオススメです」とだけ言っておくことにします。

 

 

 

6/18(日) ポッピンQ展 宮原監督&金丸Pトークショー
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 宮原直樹監督の世間のイメージは、『ドラゴンボール』の人でしょうか。『デジモンアドベンチャー』の人でしょうか。それとも『プリキュア』のCGの人でしょうか。経歴を改めて見てみるとかなり手広く意欲的に仕事をされている印象を受けます。そんな宮原監督がはじめて手掛けたアニメーション映画『ポッピンQ』の話です。

 『ポッピンQ』の特徴の一つとして、「よく動く」ということが挙げられると思います。トークショーでは「一番枚数が多い」というオープニングの映像を実際に観ながら、金丸裕プロデューサーがどれだけ動いているのかを解説してくれたのですが、これがまあ信じられないぐらい細かいんですね。ほとんど映ってないけど、メインキャラの後ろにモブが3人(もちろん動いてます)描いてあったりもするらしい。そういえばダンスシーンはリミテッドではなくフルアニメーションですし、他にも背景美術のタッチを現実世界と時の谷とで変えていたり、心情に合わせて光の演出表現を調節していたりと、実はかなりこだわって作られている作品です。

 ところが、これは小黒祐一郎さんもおっしゃっていることですけれど*2、『ポッピンQ』ってすごく初々しいんですよ。いい意味でフィルムに洗練された感じがまるでない。制作工程に“初めて”がたくさんある作品なので、そういうところも影響しているのかなと思います。

僕(松井俊之プロデューサー)は映画にはずっと関わってきましたが、アニメ映画のプロデュースは初めてなんです。そして金丸はプロデュースが初めてで、宮原さんは長編作品の監督が初めて…金丸はアニメが好きっていうアンテナを一番大事にして自由にやってもらい、宮原さんには気負わずにとにかく自由にやってもらいたかった。僕は映画としての枠組みを作ったり、転がしていくというポジションに専念して、2人には自由にやってもらったつもりなので、そこはうまくいったんじゃないかなって思っています。

ポッピンQ』劇場パンフより (太字筆者)

 そして、そのフィルム全体に漂う初々しい雰囲気が、卒業を控えて戸惑いながらも前に進もうとする中学3年生の心情にぴったり合っている。狙ってやっているわけではないのでしょうけれど、この世界観が私は非常に好きだったりします。

 

 加えて宮原監督はキャラクターをしっかり描くことを大事にされている方で、『ポッピンQ』に関しては、企画の段階からキャラクターが物語に先行しています。はじめて劇場で観たときは、「テレビシリーズに続くのか」とか思ったんですけど、どうやらそういうわけでもないらしく、単純に映画とかTVアニメとかそういう枠を問題にせず、とにかくキャラクターから膨らませていって形にしたようです。個人的には、ちょっと尺不足かなという感じはするのですけれど*3、それもキャラクター>物語で作った結果なのかなと思います。さらにいえば、アイドルじゃないからダンスシーンはカメラ目線じゃないし、5人それぞれの個性に合わせて、少しずつダンスを崩してあったりもする。要するに映画で観れるのは、たまたま画面に映っている彼女たちの生活の一部分でしかないわけで、徹頭徹尾キャラクター優先で作られているんですね。

 ほとんどイベントの話をしていない上に、収拾付かなくなってきましたが、要は何が言いたいのかというと、某匿名掲示板等で大爆死とか言われてるほど悪くはないですよということ。彼女たちの青春の一幕をちょっと覗いてみようかな、ぐらいの感覚で観てみて欲しいのです。

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(サインありがとうございました)

 

 

 

 

 

*1:もちろんおっしゃっていた言葉そのままではありません。「泡沫泡沫」はそのままですが。

*2:アニメージュ2017年6月号』「この人に話を聞きたい」第百九十三回 宮原直樹

*3: (5人のドラマを描くことを考えたらこの映画の尺は)短いと思います。なので、伊純と沙紀に集約せざるを得なかったんですが、他の3人に関しても「描き切れなかった」という感じはないですね。彼女達のドラマに必要だったものは、ちゃんと映画の中に置いていますので。観た人が「足りなかった」と思うのか、「あれがあったから彼女達はあんないい顔でラストシーンを迎えられた」と思ってもらえるのかは、観る人に委ねるところではあるんです。映画の中に残したパーツをパズルのように組み立ててくれた人は「よかった」と思ってくれるだろうし、「足りないかなあ」と思った人も中にはいるんでしょうね。そこはしょうがないです。ある程度のかたちと時間を決めて作ったものなので。(『アニメージュ2017年6月号』114頁)

【雑記】『ユーリ!!! on ICE』二面性のダンス、『リトルウィッチアカデミア』の教育観、『アイカツスターズ!』その一助となるもの

 雑記です。本当は『ドキドキ!プリキュア』についても一緒くたにして書く予定で、『ユーリ!!! on ICE』については愛繋がりでまとめようと思っていたのですが、思いの外筆が乗ってしまったので別になりました。最終的に書き終わってみると『ドキプリ』が一番文字数少ないんじゃないかという気もするのですが、もうなんでもいいです。それぞれに相関性は全く無いので、お好きな作品のものだけ選んで読んでいただければと思います。

 

 

ユーリ!!! on ICE』 二面性のダンス
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 『ユーリ』が放送されていたのが2016年秋クールだったので、もう半年も前になるんですね。2016年秋は『響け!ユーフォニアム2』や『フリップフラッパーズ』、『DRIFTERS』、『舟を編む』、『灼熱の卓球娘』等々名作揃いで、いわゆる豊作と呼べるような時期だったと思いますが、『ユーリ』はその中で覇権アニメの座を取ったと言える作品ではないでしょうか。商業的成功の背景には、いわゆる腐女子受けの良さとか、まあいろいろとあるのだとは思いますが、何よりこの時代にあって動き(animation)で勝負したというところに『ユーリ』の偉大さがあるのではないかと思います。キャラクターの成長や心情を語りや台詞に依らず動きでもって表現する。それはある意味アニメーションの原点でもあるわけですが、そこが逆に新しくもあり、挑戦的でもありました。

 そしてそのスケートシーンがなんと全て手描きなんですね。私はロトスコープ(ニコニコ大百科)かなと思っていたんですが、ロトスコープでもないらしく、実写の映像を参考にしつつ、あくまで絵コンテに添って描き起こしていたようです。3DCGも途中から使われるようになりますが、南健次郎の簡易的なCGモデルを加工して使い回すしかなかったらしく、つまり最終的に映像に載っているものは、全て手描きということになります。

 ちなみに、ユリオことユーリ・プリセツキーの作画をメインに担当されていた立中順平さんはディズニーアニメーションジャパン出身なのですが、ディズニーには「12の基本原則」(12 basic principles of animation)という絵を自然に動かすためのテクニックみたいなものがありまして、その技法がユリオのあの動きには生かされているようです。

(上二段落はほとんど全て『アニメスタイル011』からの情報です。これ以上書くと著作権とかやばそうなので、是非買って読んでいただければと思います。クリエイターの方々の貴重なお話が満載です。)

 ついでながら、ロトスコープを考案したマックス・フライシャー、およびフライシャー兄弟のフライシャー・スタジオ(Fleischer Studios, Inc.)は、ディズニーのライバル的存在でもありました。ディズニーもロトスコープを応用して『白雪姫』や『眠れる森の美女』なんかを作るわけですが、フライシャー・スタジオとウォルト・ディズニー・プロダクションの関係は、なんだかいろいろあるみたいですね…。

 さて、『ユーリ』の話に戻りましょう。御存知の通り『ユーリ』はアニメーションとして非常に魅力的で、かつレベルの高い作品なわけですが、ここではまた少し違った魅力を掘り下げてみたいと思います。具体的にいえば、“二面性”の魅力についての話です。

 —振付を担当した宮本賢二さんは、ヴイクトルは大理石の彫像のイメージだと言われていました。

平松  ああ、リビングレジェンドらしさというところですかね。あとヴィクトルは、大人っぽさと子どもっぽさが同居していて何をするか分からない意外性もありますね。そこも彼の魅力だと思います。そしてユリオは「未完成な原石」といったところですかね。とても繊細で、揺れ動きやすい。もちろん揺れやすいのは勇利も同じですが、ユリオの場合はロシアンヤンキーっぽく振る舞っているけど本当は傷つきやすい子で、勇利とはコインの裏表みたいな感じです。逆に勇利は気弱に見えて、案外図太かったりするので(笑)

 『アニメージュ2017年3月号』平松禎史インタビュー (36頁)

 ヴィクトルは大人っぽさと子供っぽさが同居、勇利は気弱に見えて案外図太い、ユリオは気が強いけど実は傷つきやすい。3人それぞれに二面性があり、さらに勇利とユリオは裏表の関係になっています。そして、この二面性って、芸術にはつきものなのではないかと思うのです。

 普段抑え込まれている本性が芸術においてのみ解放されるということもあるでしょう。自分自身とは違う理想像を、芸術として具現化するということもあるでしょう。どちらにしても芸術というものには、そこにしか存在し得ない“私”がある。他の手段で表現できるなら、歌ったり踊ったり演奏したり、詩や小説を書いてみたりする必要なんてないわけです。そして、そこには必ず“私”と“芸術表現における私”という二項対立が発生します。

 勝生勇利は、彼自身の曲に自ら『Yuri on ICE』と名付けました。これは自信の表れかもしれないし、強い自分に変わろうという意志の表れかもしれない。ただ一つ確かなことは、フィギュアスケートという芸術を通してしか表現できない、氷の上にしか存在し得ない勝生勇利がいるということです。

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 もちろんこの二面性は真実:虚構の関係と同じものではありません。氷の上の勇利は理想像に過ぎないのかもしれないし、逆に氷の上の勇利が本物で、普段の自分がそれを抑え込んでいるだけなのかもしれない。けれど、そのどちらであったとしても、『Yuri on ICE』を踊るのは普段の気弱な勝生勇利ではないということに変わりはないわけです。

勇利  「ミナコ先生も西郡も優子ちゃんもうちの家族も、弱い僕を弱い人間として扱ってなかった。ちゃんと成長できるって信じてくれて、心の中に踏み込まないでくれたんだなって」

ヴィクトル「勇利は弱くないよ。みんなもそう思ってるだけさ」

(第4滑走「自分を好きになって… 完成!!フリープログラム」)

 愛の調べに彩られた芸術を、氷の上でしか表出し得ない“私”の一面が、その時ばかりの生命を燃やして踊る。この二面性の演舞を通常パートとスケートシーンとの差異が演出し、手描きで作られた動きのエネルギーが魂を吹き込んでいる。『ユーリ』のスケートシーンには、アニメーションでなければ描けない美しさと力強さがあるように思うのです。

 

 

 

リトルウィッチアカデミア』の教育観

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 いきなりですが、私は『リトルウィッチアカデミア』があまり好きではありませんでした。なんとなく勝手に苗木野そらのような主人公を想像していて、TRIGGERの熱いノリで夢に向かって突き進む、ある種のスポコン色のある物語だと思っていたので、なんだか拍子抜けしてしまった、というのが主な理由です。つまり私が勝手にあらぬ方向に期待して勝手に凹んだだけなので、別に『LWA』が悪いというわけではないのですが、とはいえアツコ・カガリの不真面目さになんとなく疑問を感じる人も一定数いるように思います。ところが、そんな私が気づけばマンスリー上映会に足を運んだり、今意味のわからない文章を書いていたりする。これは一体どういうことだろうかと。思い返してみると、転換点は12話「What you will」であったように思います。

 12話はアッコが鏡のいたずらでダイアナになってしまう回でした。この時ダイアナの隠れた努力を身をもって知ったアッコは意地を張りながらも「ダイアナはすごいなあ」と素直に認めます。理想と現実のギャップに苦悶するその姿は非常に印象的でした。そして、まだ成長途中のアッコが未熟なのは当たり前じゃないか、こうして間違いながらも夢を見失わず、一歩一歩前に進んでいるではないかと気付かされました。この時、なんだか愛せる作品の幅が一気に広がったような感じがしたのを覚えています。

悔しいけど、みんなの言う通りだもん。ダイアナってすごい。想像したこともないくらい大人で、手の届かない遠いところにいるみたいだった。それに比べて、あたしなんて子供なんだろう。

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 同時に、たとえ周りに何と言われようとも、箒に乗ることさえできなくとも、「月光の魔女になる」と宣言できてしまうアッコの勇敢さにも気付くようになりました。続く13話「サムハインの魔法」では、そんな“失敗しても傷ついても手の届かないものに手を伸ばす”アッコの姿が、ロッテやスーシィに影響を与えるようになっていきます。

ロッテ 「もう3週間、アッコ頑張ってるね」

スーシィ「3週間と3日ね。ちっとも上手くならない」

ロッテ 「ねぇスーシィ、アッコは、なんであんな風にできるのかな。失敗しても傷ついても手の届かないものに手を伸ばす」

スーシィ「バカだからでしょ。諦めが悪いのさ」

ロッテ 「でも、そういうところすごいよ」

 

 そして、この作中世界の空気って、わりと制作現場そのままなのではないかと思うのです。もちろん参加しているわけではないので実態はわかりませんが、『LWA』は元々文化庁のアニメーター育成プロジェクトからはじまっていますし、アニメ業界の話でもあるというのは結構有名な話ですよね。TV版になってからも若手のスタッフさんたちが重要なポストを引き受け、活躍されているようです。

ー 劇場版とTV版を比較して、作品や作業の変化は?


吉成 作品としてみると、劇場版は時間の関係上ストーリーやキャラクターを部分的にしか切り取れず、それぞれのバックグラウンドを省略する形でしか本編に入れることができませんでした。しかし、いま放映中のTV版では、アッコたちが成長していくシーンもふくめて深く掘り下げることができたと思っています。制作スタッフに関しても、アッコたちのように若い人にどんどんチャレンジしてほしいという思いがあるので、責任のある仕事を任せていて、みんな悪戦苦闘しながら制作の中心になってやってくれています。若手という意味では、キャラクターデザインをお願いした半田(修平)がまさにそうですし、メインアニメーターの堀剛史さんも、こちらでは手が回らないアニメーションの一番重要な部分を率先してやってもらってます。デザインワークスの芳垣(祐介)もそうですね。世界観をまとめあげるデザインのフィニッシュが「リトルウィッチアカデミア」らしい形に収まっているのは、ほとんど芳垣のおかげです。劇場版から参加してくれたほかの新人アニメーターたちもアッコたち同様に一生懸命になりながら仕事をしてくれているし、それぞれの成長を実感しています。

アニメージュ2017年5月号』吉成曜インタビュー (99頁) (太字筆者)

 吉成曜監督に関しては『グレンラガン』でメカとか描いてるなんかめっちゃすごい人ぐらいの印象しかなくて、勉強不足を恥じ入るばかりなのですが、『LWA』を見ていたり、『LWA』関係のインタビューを読んだりしていると、“育てる”ということに対して非常に真摯な方なのだなあという印象を受けます。同時に、アッコを許せなかった放送開始当初の私はなんてバカだったのだろうと、忸怩たる思いに駆られたりもします。アッコたちのように一生懸命取り組んで、たくさん間違えて、たくさん失敗して…。そういうことが許される空間ってアニメ業界に限らず、もっともっと必要なものですよね。

 そういうわけですので、ここは一つ吉成監督が「作品のテーマそのものともいえるキャラ」(『アニメージュ2017年5月号』99頁)と称するアーシュラ先生のお言葉をお借りして、この場を締め括ろうと思います。

「確かにカガリさんは、他の生徒に比べたら、魔法を使えないダメな生徒かもしれません。でも彼女は、魚類語がわかるようになり、まだまだ中途半端ですが、こうやって変身魔法も身につけようとしています。比べるべきは他の生徒ではなく、入学当初の彼女です。たくさん失敗して確実に成長しているじゃないですか」
「目の前で悲しんでいる者を放っておけず、自分のことよりも相手の気持ちになれることは評価されるべきじゃないんですか。成績や世間体ばかり気にするなんて、バカです。私が彼女を評価します」

(第7話「オレンジサブマリナー」)

 

 

 せっかくなので羽海野チカ先生のツイートも。大事なことを教えてくれる漫画やアニメって、本当に素敵ですよね。

 

 

 

アイカツスターズ!』 その一助となるもの

・変転の妙

 『アイカツスターズ!』に関して最近よく思うことは、印象操作が上手いなあということです。もちろん悪い意味ではありません。

 例えば諸星学園長は、1年前は悪役ともいえるような立ち位置にいました。特に劇場版ではその性質が強く出ており、悪人のいない『アイカツ!』の世界とのギャップに困惑する声も多かったように思います。白鳥ひめとも揉めていた上に、結局映画では諸星ヒカルの真意は明かされなかったので、映画だけ見れば本当にただの悪役です。ところが第36話「虹の向こうへ」を機に印象は逆転し、今ではすっかり愛されるキャラクターになりました。

 と、まあこれだけのことなら取り立てて言うほどのことでもないのですが、先週放送された第58話「ミラクルオーディション!!」。これがすごかった。1話の中で見事にエルザ・フォルテの印象を引っくり返してみせました。冒頭の四ツ星勢とエルザとのやり取りを思い出してみましょう。

エルザ「ユメ・ニジノ、今日のオーディション、勝利の女神は私に微笑むことになっているわ」

リリィ「勝負はまだ始まってもいません」

ゆめ 「そうです。負けませんよ」

 エルザ・フォルテはかなり人気のあるキャラクターだと思いますが、“敵”という性質が非常に強い人物でもあります。四ツ星学園を危機に陥れた張本人ですし、52話では桜庭ローラを下に見るような発言をして、対立を引き起こしたりもしました。“悪”ではないにしても“敵”であることに間違いはないでしょう。その上いつも人に用意してもらった最高級のステーキとか食べてますし、一国の王位継承権まで持ってたりする()ので、いろいろと恵まれた人物だという印象が強いのではないでしょうか。そんなエルザが「勝利の女神は私に微笑むことになっている」なんて言うと、やっぱりちょっと傲岸不遜な感じがします。

 ところが、わずか15分後には、この印象はすっかり逆転してしまいます。エルザ・フォルテは、幸花堂と幸本社長のことを事前に詳しく調べていた。このことが明かされることによって、Aパートのやり取りは全く違った様相を帯びるようになります。白銀リリィが「勝負はまだ始まってもいません」と言う遥か前から、既に勝負は始まっていたわけです。

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 同時にエルザ・フォルテの印象が“才能の人”から“努力の人”へと切り替わります。その上、彼女はただパーフェクトなだけではない、トップに立ってもなお向上心を忘れずさらに上を目指そうとする、真にパーフェクトな存在であるのだということが示される。そんな“パーフェクト・エルザ”に、虹野ゆめと白銀リリィはまさしく完敗したのでした。

私も、こんなファッショナブルなケーキがこの世に存在していることを知り、また一つ学びました。この世は全てファッション。それは、人に感動と喜び、そして幸福をもたらすもの。お菓子でもドレスでも、それは同じことです。

 そして、「追い越したい」敵に出会えた喜びを表明し、文字通り真っ直ぐ敵を見上げて幕を閉じる。完敗したことを喜んでいるこの闘諍の熱も、『スターズ』の魅力の一つであると思います。 

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・その一助となるもの

 「ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」というあまりにも有名な一節がありますが、ジュリエットはその後に続けて、「お父様と縁を切り、その名を捨てて」と言います。「どうしてあなたはロミオなの」というのは、つまり名前というものへの懐疑なんですね。

私の敵は、あなたの名前。
モンタギューでなくても、あなたはあなた。
モンタギューって何? 手でもない、足でもない。
腕でも顔でも、人のどんな部分でもない。
ああ、何か別の名前にして!
名前がなんだというの? バラと呼ばれるあの花は、
ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない。

 ところが赤毛のアン*1ことアン・シャーリーはこんなことを言います。

薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇があざみとか座禅草スカンク・キャベツとかいう名前だったら、あんないい香りはしないはずよ。

 なんでいきなりこんな話を始めたかというと、『スターズ』って“名前”の持つ力が結構大きい作品なんじゃないかと最近思ったからです。

 『アイカツ』にもスターライトクイーンやブランドのミューズみたいな肩書きはありましたが、作中において『スターズ』のS4ほどの大きな役割を担ってはいませんでした。例外的に4thシーズンのラストではスターライトクイーンカップが非常に重要な行事として扱われましたが、初代主人公の星宮いちごは一度もスターライトクイーンになりませんでしたし、いちごがアメリカに留学している間のクイーンカップも回想シーンでしか描かれませんでした。

 『スターズ』でも、もちろんS4になることが全てではないですし、七倉小春のように別の道を志すキャラクターもいます。けれど、基本的に四ツ星学園の生徒は皆S4を目指しているわけですし、そもそも制服が違うので、ビジュアル的にもどうしても無視できない存在感があります。S4の制服に身を包んだゆめや、幹部服を着たローラを見て、とみに成長を実感したという方も多いのではないでしょうか。

ゆめ 「私たちが、1年生の道しるべになろうよ!」

ローラ「…S4になったんだね、ゆめ。」

(第52話「狙われたアイドル!?」)

 ここのやり取りが私には非常に印象的でした。この後ローラがゆめの腹筋を触ることで、この1年で変わったものと変わらないものとをそれとなしに描いていたのも印象的でしたが、それ以上に「S4になったんだね」というセリフが、なんだかスッと胸の中に入ってくるような感触がありました。

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 憧れていた学校の制服に袖を通したとき、出席カードに新しい学年を書いたとき、アンケートの職業欄に会社員と書いたとき、結婚して苗字が変わったとき。そんな節々に感じる“自分が何者かである”という意識は、結構な影響力を持っているように思います。もちろん虹野ゆめは、S4になるに足る十分な努力を積み重ね、なるべくしてS4になったわけですが、実際にS4になってみてから起こった変化というのも相応にあるのではないでしょうか。同じように、エルザ・フォルテの“パーフェクト・エルザ”という肩書きも、彼女の姿勢に影響を与えているのかもしれません。

 ですから、「そんな大役私なんかには務まりませんよ」みたいな態度は、結構世界を狭めてしまっているのかもしれない。案外なってしまえば、何にでもなれるのかもしれない。そして、虹野ゆめのように今の自分ではない自分を想像できる(妄想してしまう)力には、可能性をどこまでも押し広げる、とてつもないエネルギーがあるのかもしれません。

*1:赤毛のアン』といえば、48話で白銀リリィが「私の愛する赤毛の少女」として引用していました。ゆめやリリィは想像力豊かなアン・シャーリーとどこか近いところがあるように思います。

Remember the love:『ドキドキ!プリキュア』と“愛”の話

 録りためていたBS再放送の『ドキドキ!プリキュア』を今日見終わったので、雑記という形にして短い感想でも書こうかと思ったのですが、思いのほか筆が乗ってきてそこそこの分量になったので、単独で公開することにしました。というわけで『ドキドキ!プリキュア』の話です。

 

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 『ドキプリ』って、設定自体はかなり重めですよね。まず、トランプ王国の話が重い。「ある国の王が不治の病に侵された自分の娘を救うために禁忌を犯し、その結果王国が滅亡する」って、なんかシェイクスピア悲劇に並んでいてもおかしくないような感じがします。しかも剣崎真琴は施設育ちの孤児ですし、円亜久里も事実上孤児なので、プリキュア5人中2人がみなしごなんですよね。かと思えば相田家は絵に描いたような幸せな家庭で、菱川六花は医者の娘で、四葉ありすは財閥のお嬢様という。あまり意識させないようにはなっていますが、その実結構アンバランスな5人だったりします。

 けれど、そんなアンバランスさは全く問題ではないんですね。何故ならそこに“愛”があるから。『ドキプリ』を見ていると、ビートルズの“All You Need Is Love”が頭をよぎることがあります。(YouTube消されてたのでニコニコ動画の方を貼っておきます)

 

 

 ジコチューが浄化される時の声とイントロが似てるとか、そういう話ではないですよ。できないことはできない、作れないものは作れない、でも“愛”があれば別にいいんだっていう。まこぴーのこのセリフなんかがまさにそうですね。

実はね、私も両親がいないの。私がまだ赤ちゃんだった頃に、事故でなくなったんですって。だから私は、お父さんやお母さんの顔は、ちっとも覚えていないの。でも、寂しくなんてなかった。私たちは、王女様の愛に包まれていたから。

(第42話「みんなで祝おう!はじめての誕生日!」)

 

 音楽についての知識はあまり持ち合わせていないので、的はずれなことを言っているかもしれませんが、ジョン・レノンのある種の平和主義的な諦めみたいなものが『ドキプリ』には見られるような気がします。例えば42話で亜久里の誕生日を祝うくだり。誕生日がわからないのはもうどうしようもない。わからないものはわからない。じゃあ今日が誕生日ということでいいじゃないか、祝っちゃえ、っていう。なんだか“Happy Xmas (War Is Over)”のような感じがする。(和訳するのもなんだか恐れ多いので原文だけ載せます)

And so this is Xmas (war is over)
For weak and for strong (if you want it)
For rich and the poor ones (war is over)
The world is so wrong (now)
And so happy Xmas (war is over)
For black and for white (if you want it)
For yellow and red ones (war is over)
Let's stop all the fight (now)

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 亜久里に関しては、自分の正体も年齢もわからなかったわけです。それでも“愛”があれば家族にはなれるのだということを、円亜久里と円茉里は証明して見せました。血の繋がりも年齢も、亜久里が何者であるのかも、とにかく物質的なものは全て“愛”の前では一切関係ないのだということが、そこには暗に示されています。

これは、大切な孫がわたくしのために描いてくれた絵です。消えてしまっても、込められた愛は色褪せたりはしません。あなたの思い、伝わりましたよ。ありがとう、亜久里

(第43話「たいせつな人へ!亜久里の授業参観!」)

 

 ですから、まあとにかく『ドキプリ』は“愛”なわけです。相田マナ(本来の表記は相田愛)って名前がもう「愛だ愛!」って感じですし、ジコチューも“愛”と表裏一体の存在で、生命が生きている限り誰の胸からも“愛の鼓動”は消えたりしない。しかもその上、出自が問題にならない世界でもある。“この世界つなぐものそれは愛”であり、“君と手と手つないだらもう友達”なのです。キングジコチューが開けた時空の穴は、最終回でそのまま残されました。そして、さしたる問題もなく、2つの世界は共存している。これも“愛”ゆえのことです。最近では現実の方のトランプ王国が問題になっていたりもしますが、徹底的に純化されたフィクションの世界から学ぶべきことも、実はたくさんあるのかもしれません。

好きだから。あたし、レジーナが好きだから。それだけじゃ、ダメかな。レジーナが好きだから、レジーナが愛するパパも好きになれる。好きになりたい。わかり合いたい。

(第47話「キュアハートの決意!まもりたい約束!」) 

 

 そんなわけで、夜明けでも、夕焼けでも、真夜中でも、コーヒーを飲んだ回数でも、インチでもマイルでも笑顔でも争いでもなく、愛で人生を測ろう(measure your life in love)と歌ったあの名曲を、結句の代わりとさせていただきたいと思います。

 

 

 

※余談

 最終話でイーラが「まあ、あいつらがいたんじゃな」と言って立ち去るシーンがありますが、その時のカット、レジーナ含めて6人映るのですけれど、偶数なのに立花がちょうど真ん中なんですよね…。こういうさりげないところに潜んだエモ、とても素敵だと思います。

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目覚めてる夢に向かって:ソレイユと『Good morning my dream』

※姉妹稿というわけではないのですが、ソレイユ結成に至るまでの話を以前に書いたものがありまして、今回はある程度それを踏まえた上での話になりますので、そちらも合わせて読んでいただけましたら幸いです。

 

 フォトカツのシングルシリーズ第3弾『ドラマチックガール』が発売されたのは、もう1年近く前のことになるでしょうか。そこに収録されていた『Good morning my dream~いちご&あおい&蘭 Ver.~』は、ある種の衝撃をもって受け入れられました。第125話「あこがれの向こう側」の劇伴としてばっちり使われていたものなので、CDではじめて聴いたというわけではないはずなのですが、とにかくCDで聴いた時、とてつもない衝撃があった。それからまた改めて聴き直し、歌詞を読み直し、気づけば『Good morning my dream』をソレイユが歌うということはどういうことなのか、潜考せざるを得なくなっていました。本稿では、その時考えたことをいろいろとまとめてみたいと思います。

 最初は歌詞を全て引用し、一節一節全てに解釈を書いてやろうと思っていて、実際途中まで書いたのですが、あまりにも情緒に乏しいのでやめました。歌詞の持つ多義的な魅力を減じてしまうことになり兼ねないので、引用は最小限に留め、ある程度抑えめに綴っていこうと思います。歌詞を参照したい方はお手元の歌詞カードなり、歌詞タイムなりを見ていただければと思います。引用箇所は一応、いちごあおいで色分けしていくことにします。 

 

 さて、まず場面設定としては朝ですね。イントロからいきなり目覚まし時計が鳴り響き、「風はもう南の空へ」ですから、太陽はまだ東の空にいる。「新しい服」「未来ごと深呼吸」など、何か新しいことがはじまるような、ソワソワした心地よい緊張感が感じられます。

 で、朝って太陽が昇る時ですから、この何かがはじまる朝という場面設定自体が、実はソレイユが動き出したことのメタファーになっている。ここではそれを前提に読んでいくことにします。とはいっても、「太陽」「お日さま」などの表現は1曲通して一度も使われていませんから、別にソレイユのための歌だというわけでもないのでしょう。あかりGenerationの歌という側面の方が、むしろ強い。ただ、「朝=太陽が昇る時=ソレイユ結成のメタファー」だという視点に立つと、いろいろなことが見えてくるんですね。続くBメロにも、「朝」という言葉が出てきます。

大事な決意はきっと ずっと前にしたの
今までと、これからに いちばん似合う朝を待っていたね 

 3人でライブに出ようとはじめて言い出したのは紫吹蘭だったという話は、「3つの星と新しい輝きのメロディー」の方で書きました。ですから、蘭の中で3人の未来に関わる大事な決意はきっと、その頃から固まっていた。そんな自分の気持に気づき、正直になるための転換点が、トライスター編でした。今まで3人でやってきたことと、これから3人でやっていくこと、その過去と未来とにいちばん似合う朝、ソレイユ結成の瞬間を、彼女たちはずっと待っていた。スターライト学園で過ごす何てコトない毎日の中で、いつの間にか彼女たちの夢は目覚めていたのです。ですから、「おはよう」は「目覚めてた」ソレイユという夢への挨拶でもあり、その夢を共に走っていく友達への挨拶でもある。「おはよう、わたしの大切なfriend」って素敵なフレーズだと思いませんか。 

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 さて、問題は2番のAメロです。ここの衝撃には恐ろしいものがありました。冒頭であれこれ言っていたのはここの話です。

あの時ね気づいたの これだってわかったの 世界が生まれかわるくらい
大きな声で呼びかけた 振り向いて欲しくて 

 ここを紫吹蘭が歌ってしまうと、「あの時」は第37話「太陽に向かって」のあの時だということになってしまう。自分の進む道を自分で決めた、「これだってわかった」あの時の変化は、まさに「世界が生まれかわる」ほどのものでした。ソレイユ結成に際しての蘭の変化については前に散々書いたのでここには書きませんが、この箇所を蘭が歌っていることの意味は、とてつもなく大きい。是非37話を見返した上で聴いていただきたいと思います。

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 「大事なぶんだけちょっと慎重になったり」をいちごが歌うというところもいいですね。第2話「アイドルがいっぱい!」の編入時のエピソードを思い出してもいいかもしれませんし、第5話「ラン! ランウェイ!」を思い出してもいいでしょう。初期は一緒に上がっていけるかどうか、それぞれが思い悩んでいた時期でした。それでも、大事な決意はきっと、そのころから決まっていたのではないかと思います。2話には、霧矢あおいのこんなセリフがありました。

スターライト学園に行きたいって言ったら、「私がやりたいことなら」って、パパとママはOKしてくれた、それも嬉しかったけど、もっと嬉しかったのはね、私一人で考えてた夢を、いちごと一緒に追いかけられるってこと。それだな、私が頑張れる理由わけ

(第2話「アイドルがいっぱい!」)

 そうして「ちょっと慎重に」なりながら彼女たちの夢は育まれてきたのです。そしてその夢は、「ソレイユを続けること」という、新しい大きな夢へと変わっていく。まだ少し臆病さもあるけれど、「どこまでもキミと走っていたい」。不思議と迷いのない大きな夢に向かって、彼女たちは走り出したのです。

いちご「おばあちゃんになるまで続けるには、とっても大変なことがたくさんあると思うし、本当に出来るかもわからない。

蘭「けど、大きな夢が何か、何をつかみ取りたいかを決めると、そのためにもっともっと、走りたくなるからな」

あおい「叶うかどうかはわからないけれど、夢があるから、頑張れてるんだよね、きっと!」

(第125話「あこがれの向こう側」)

 

 

 ところで、37話でトライスター脱退宣言をした後、いちごとあおいに向けて蘭が言った一言を、皆さんは覚えていますでしょうか。

 

一緒に走り続けたい、仲間がいるから

 

 そうなんです。ここが、「どこまでもキミと走っていたい」と繋がる。おばあちゃんになってもソレイユを続けていくこと、どこまでも一緒に走り続けること。いつの間にか「目覚めてた」夢は、進行系の「目覚めてる」夢になった。このことを踏まえると、Cメロのパート分けって本当にずるいんですよ…。元のバージョンであかりがいちごに感謝を伝えるのも泣けますが、それとはまた違った感動が込み上げてくる。

わたしを選んでくれたの

ありがとう、きっとかなえるからね

あこがれの先を

一緒に描こう

目覚めてる my dream

わたしの親友 

 

 そして3人の夢は、125話のステージシーンの前で、再び語られることになります。最後にそのセリフから、また一つ視点を変えて、ソレイユという夢を考えてみたいと思います。

あおい「経験したことのない、大規模なツアーだけど」

いちご「きっと走りきれる、あおいと蘭が、隣にいてくれるから」

あおい「私も、いちごと蘭と一緒なら、怖いものなし!」

蘭「ああ、あたしもだ!一緒に走りきって、ずっと一緒に走り続けたい」 

いちご「いつの間にか、それは私たち3人の夢になってたね」

蘭「ああ、ずっと前から決まってたみたいにな」

あおい「じゃあ!どこまでも走っていっちゃいましょうか!」

3人「ソレイユ ライジング!」

(第125話「あこがれの向こう側」)

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 いや、もう、本当に素晴らしいですね…。この記事書いてて何度泣いたことか。まあそれはさておき、『Wake up my music』にはこんな歌詞がありました。

繋いだ手のひらはもう 自然なカタチ
少しずつ、でも最初から 決まってたみたい

 「ずっと前から決まってたみたい」な夢を走りはじめたソレイユの3人は、もうレジェンドアイドルの領域へと足を踏み入れているのかもしれない。だとしたら、彼女たちはこの先何があっても、もう大丈夫なのだと思うのです。だって織姫学園長と星宮りんごは、今でも別々の道を一緒に走り続けているのですから。

 

 そんなマスカレードの世代からあかり世代までずっと受け継がれてきたSHINING LINE*を30分に詰め込んだようなエピソードが、第173話「ダブルミラクル☆」でした。ソレイユの夢の成功を祈る意味でも、その回からの引用で、ここはひとまず締め括りたいと思います。 

 

織姫 「ステージで心を一つにしたものは、いつだってまた一緒になれるわ」

りんご「私たちみたいにね」

【進撃の巨人】生類視覚効果という心理描写 (6月14日追記)

 『進撃の巨人』Season2の放送がはじまりました。第1期から4年弱。『甲鉄城のカバネリ』の制作も経て、映像技術は大きく進歩を遂げたように思います。なんといってもあの緊迫感。ついつい入り込んでしまって、ただの2Dの四角い画面とは思えないほどの迫力があります。今回はその技法の話です。

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 技法の話をするにあたって、まずは日本のアニメの特徴について少し言及しておきたいと思います。詳しくは高畑勲氏の「60年代頃の東映動画が、日本のアニメーションにもたらしたもの」という論文に、3コマ撮り、止め絵の多用などの「欧米とは異なる日本的娯楽アニメーション」の性質や、作画監督制をはじめとした「メインスタッフ中心主義」的な「日本型作画制作システム」などなど詳しく書かれていますので、興味のある方はそちらを読んでいただければと思います。大塚康生著『作画汗まみれ』(文春ジブリ文庫)に収録されています。

 ここで取り上げておきたいのは日本のアニメには演技が少ないということと、視点が近く主観的であるということです。ここでいう演技とは役者の演技ではなくアニメーターの演技、すなわち動きによってキャラクターの特徴を描写する演技のことです。簡単に言ってしまえば、日本のアニメは動かないということですね。*1

演技に関しては、人間中心の内容や感情移入しやすい主人公作りという側面だけではなく、欧米に比べて表情・身振り・言葉など、あらゆる面でもともと平板で抑制的な日本民族の性格を反映し、日本人を描く作品でなくとも、アメリカンアニメーションの特徴である過剰な流動感や、台詞と結びついた誇張の大きな動きはあまり取り入れなかった。また、主人公でなくとも、アメリカ型の誇張演技は日本製のキャラクターや日本語には似合わなかったし、あまりにわざとらしく感じられた。〈中略〉そして作画枚数節約の至上命令のもとに、①動きの基本は三コマ撮り(一秒間八枚で動きを作ること)、②止め絵多用、③止め絵口パク三枚による台詞が一般化し、緻密な動き・演技よりはいかにカッコイイポーズを描くかが要求されるようになる。

『作画汗まみれ』(文藝春秋、2013年、363-364頁) (太字筆者)

 動かすと枚数が増えるので、当然作画の負担も増えるということになります。ところが、上半身や顔のアップで口だけを動かせば止め絵1枚+口パーツ3枚で済む。しかも、あまり動かない絵の方が日本製のキャラクターには合っている。そうして「緻密な動き・演技よりはいかにカッコイイポーズを描くか」を追求していくと、必然的にカメラは近くなり、遠くに構えたカメラでキャラクターの全身の動きを客観的に捉えるということは少なくなっていきます。*2

 試しに『白雪姫』を見てみましょう。全体的に流動的で動きが細かく、カメラが遠い感じがしませんか。

 逆に日本のアニメは、全体的にカメラが近く、キャラクターの動きに連動した主観的なカットが多いということがおわかりいただけるかと思います。*3 まあ『白雪姫』と『進撃の巨人』を比べるのもどうなんだという感じはしますが…。

 

 また高畑勲氏は、安易に作品世界に没入させ、主人公に感情移入させようとする日本のアニメの傾向に対し、警笛を鳴らしてもいます。

アメリカ随一の宮崎ファンを自称するジョン・ラセターの『トイ・ストーリー2』やブラッド・バードの『アイアン・ジャイアント』、さらにはニック・パークの『ウォレスとグルミット』の連作など、極上質の娯楽作品がハリウッドその他で生まれはじめている 。これらは、見る子どもたちが超人的な主人公に直接感情移入する(自分が主人公になった気分で作品の世界に没入する)のではなく、他者としての主人公に〈思いやり〉的に感情移入する作品であって、その主人公との適度な距離が「笑い」をも呼び起こすのである。

 現実世界の代用品として、のめり込むように映像を見ることの多い日本の子どもたちの異常な現状を考えるとき、これらの海外作品の示す傾向から深く学ぶべき時が来ているのではなかろうか。

『作画汗まみれ』(374頁) (太字筆者)

 大分かいつまんだ引用になってしまいましたが、あまり長くしすぎると本題に入れなくなりそうなのでこの辺にしておきます。上に見た日本のアニメの特徴の是非を論じるつもりもありません。ともかく「緻密な動き・演技」より「いかにカッコイイポーズを描くか」を追求し、近いカメラで主観的に「作品の世界に没入」させること。こういったことが日本人の性分に合っていて、予算の節約にもなり、毎クール何十本もアニメを量産することを可能にしているということは事実なわけです。

 で、『進撃の巨人』みたいな作品をアニメ化する際は、いかにして作品世界に没入させるかが大きな課題になってくる。間違っても「主人公との適度な距離」なんて感じさせてはいけないわけです。そこで重要な役割を果たしているのが、『甲鉄城のカバネリ』のメイクアップアニメーターを受け継いだ、生類視覚効果という役職です。

 生類視覚効果の基本的な仕事はディテールを盛ること。影や色を加えたり、手描きで毛のブラシを追加したり、目の血管とか細かく描き入れちゃったりする。それが生類視覚効果のお仕事です。『アニメージュ2017年3月号』に生類視覚効果班長の山崎千恵さんのインタビューが載っています。視覚効果を入れる前と後との比較画像も何枚か掲載されているので、気になった人は買ってみてください。

—どんな映像の方向性を目指して作業を?

山崎  巨人がそこにいる感覚ですね。きっと目の前に巨人がいたら、嫌だと思うんです(笑)。その本能的な嫌悪感、見たくないものを調査兵団のみんなは直視しなきゃいけないわけで。

ーその感覚を、観客にも共有させるように?

山崎  そうですね。近くにモノがあると細部まで見えますよね。たとえば机の木目は遠くからだと見えないけれど、近くに寄ればよるほどよく見えるようになります。そういう感覚でディテールを描き込むことで、巨人が本当に目の前にいると感じてもらえるように。

アニメージュ 2017年3月号』(53頁)

 これは、日本のアニメだからこそ生まれた発想だと思います。「現実世界の代用品として、のめり込むように映像を見る」ことを前提に、止め絵の迫力で勝負しているわけです。興味深いのは、近くに寄った感じを出すためにディテールを描き込んでいるということ。ここにはある種文学的な技巧を見ることができます。

凡庸な作家たちが一体に心理描写を好むのは、それがまた、人生ときわめて親和的な要素だからではある。われわれも、凡百の作中人物と同じく、あれこれ心に呟きながら現実を生きているわけです。ところが、いわばテクストに固有の現実というものに目を凝らすと、その凡庸な親和性がやはり、たちどころに瓦解する。すなわち、「彼は心ひそかに××と思った」と書くやいなや、その「××」は、もう心内の秘密ではなくなってしまう。それはすでに、読者によって読み取られているわけですから。したがって、心の中の言葉を秘匿されたものとして書くというのは、それ自身非常に矛盾しているわけですよ。

渡部直己『小説技術論』(河出書房新社、2015年、284頁) (傍点を太字に置換)

 これとは少し違うことですが、映像においても何かが視聴者に見られているということは、 作品世界の物理的なリアリズムを超えた影響力を有しています。人間と巨人の戦いを少し離れたところからカメラが捉えているような構図であっても、細部まで細かく描かれ、見えているということによって、私たちは近寄った感じを与えられるわけです。

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 ですから、全篇一人称で書かれた小説でなくとも、対物描写は得てしてそのまま心理描写になり得る。「これは誰々の目線から見た巨人だ」などということを明示しなくとも、描かれているということ自体が映像と視聴者との関係において、キャラクター達の心情を表すことになるのです。カメラと対象の物理的距離は、ここでは問題ではありません。客観と主観の区別自体が消滅した、映像(テクスト)に固有の現実というものがそこには展開されている。そして気づけばそこに入り込んでいる。『進撃の巨人』に感じるある種の立体感はそういうものだと思うのです。*4

*1: (6月14日追記)
 ここで「動かない」という言葉が悪い意味で使われているわけではないということをご理解ください。当たり前のことですが、日本にも素晴らしいアニメーターの方々はたくさんいます。特に手描きならではの表情の演技の繊細さは、3DCGが主流の海外アニメーションにはない強みであるように思います。ほとんどがアフレコでリップシンクをしていないことを指摘される方もいるかもしれませんが、宮﨑駿はピクサージョン・ラセターに、「アフレコのいいところは、アニメーターが描き上げた最高の到達点が話すことにまで指導力を持つことができるということであって、ただ予算節約のためだけにやっているのではない」という主旨の発言をしています(『ラセターさん、ありがとう』)。

*2:3DCGアニメーションが日本に普及しないことも「平板で抑制的な日本民族の性格を反映」しているのかもしれません。

*3:この辺りのことは、叶精二著『『アナと雪の女王』の光と影』(七つ森書館、2014年)に、ピクサーが日本から受けた影響なども含めて詳しく書かれているので、そちらを参照していただければと思います。

*4:「他者としての主人公に〈思いやり〉的に感情移入する作品」も、少なくとも2017年現在の日本にはいくつかあるように思うのですが、その一つが今年公開された『映画プリキュアドリームスターズ!』です。登場人物たちがこっちの世界に語りかけてきて、観客を否応なく巻き込んでいくわけですが、3つのプリキュアそれぞれの世界と桜が原を行ったり来たりすることもあって、劇中世界と現実世界の区別ははっきりしていました。(私たちのいる世界を遭遇し得る世界の一つとして位置付けていた、といった方が的確かもしれません。)「笑い」の要素も多分に含まれていたと思います。こういう子ども向けの作品は確かにもっと必要かもしれません。

3つの星と新しい輝きのメロディー

 トライスター編は、誤解を恐れずに断言すれば、異質です。『アイカツ!』全体を通してこれほどシリアスなエピソードは他に例がありません。木村監督は「コメディーはコメディーでも、重たいコメディーにはしたくないと思って、すみずみまで気を使いました」*1と言っているのに、トライスター編ははっきり言って重たい。神崎美月が悪役として嫌われてしまう可能性だって考えられるし、トライスター結成後の忙しさの演出も、蘭の退寮や深夜まで続くレッスンなど、不自然に感じてしまうほどに過剰です。ですが、『アイカツ!』ほどの作品が、意味もなく物語をシリアスにし、「かわいそう」なキャラクターに強制的に感情移入させ、徒に涙を煽るようなことをするはずがありません。では、トライスター編は何故必要だったのか。トライスター編に纏わるユニット結成の意義とキャラクターの成長を考えてみたいと思います。

 

 まあ大方はソレイユの話です。まずは、第35話「涙の星」の公開面接での、星宮いちご、霧矢あおい、紫吹蘭それぞれの受け答えを見てみましょう。

 いちごは、面接開始直後頭が真っ白になってしまいましたが、あおいと蘭のことを思い浮かべ、乗り切ることができました。さらに面接中、あおいがスターライトに誘ってくれたことや、蘭が自分の目を覚ましてくれたことなどを語り、いい親友に恵まれたことだけは自信があると明言しています。

 あおいは、いちごと蘭と共に最後の3人に残れたことの喜びを語り、今の自分は「ヘビとマングースに睨まれて生き残ったハムスターみたいな気分」だと言います。そして、いちごと蘭のアイドルとしての才能についてどう見ているのかを美月から尋ねられ、2人の魅力を熱心に語りました。

 ところが蘭の場合は、他の2人の面接では最初に訊かれていた「最後の3人に残れた今の気持ち」についての質疑が描かれておらず、いきなり蘭が「紫吹蘭が加わったら…」と最後の質問に答えるところから面接のシーンがはじまります。ここでは、いちごやあおいのことに関しては一切触れられていません。

私にとっては、ステージが自分の居場所なんです。隣に誰が来ても、誰と組んでも、例えトライスターに加わっても、紫吹蘭は紫吹蘭です。

 まるで自分を戒め騙しているようなセリフです。大嘘です。35話のホットケーキのシーンを見ても、第24話「エンジョイ オフタイム」を見ても、そんなことは火を見るより明らかです。実際、トライスターで蘭がミスをした際に、美月は「あなたらしからぬミスね」(第37話)と言った。「隣に誰が来ても、誰と組んでも、例えトライスターに加わっても、紫吹蘭は紫吹蘭」だなんてことは全くなかったわけです。

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  思うに、蘭はまだ自分の気持ちに素直になれていなかったのではないでしょうか。「確かにいちごやあおいといると楽しい。でも、アイカツは遊びじゃないんだ。」といったような具合で。そんな蘭が「あたしが探してた言葉」は「頑張ってね」じゃなくて「頑張ろう」だったのだと気づくためには、一度2人から引き離される必要があった。蘭が自分の気持ちに気づき、自分の意志で自分の居場所を決めなければ、ソレイユ結成の意味がないのです。

 

 ソレイユといえば『ダイヤモンドハッピー』です。この曲が第37話「太陽に向かって」において、劇中ではじめて歌われたことには大きな意味があります。

熱く確かな世界 動き始めた
そうだ私の世界
進め大好きな世界 とまらない鼓動
これが私の世界

動き始めた「熱く確かな世界」、「大好きな世界」を「私の世界」だとはっきり言えるようになったことが紫吹蘭の成長であり、ソレイユ結成の意義なのです。

 ちなみに、3人でライブに出ようとはじめて言い出したのは、実は紫吹蘭でした。

でも、ありかもな…。出てみるか?3人で、スペシャルオーディション。〔中略〕あたしも、なんか2人と一緒に闘ってみたくなった。(第8話「地下の太陽」)

 そして、第9話「Move on now!」ではじめて3人でステージに立ち、『Move on now!』を歌いました。この時のステージに上がる前のかけ声は、「明日へ向かってMove on now!」でした。

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 そして、37話で美月が蘭に送ったメールには、次のようにあります。

蘭の心にこれ以上雨がふらないように、蘭にはトライスターを外れてもらいます。

あなたには太陽のもとでかがやいていてほしいから!

私の夢であなたの夢を振り回してしまって、ごめんなさい。

いつも、夜空からあなたたちをみています

行く道は違っても、お互い同じ空で輝きましょう。

 夜が明け、太陽が昇るということは、明日が来るということです。37話で蘭は、文字通り太陽に向かって走りました。トライスターという夜空からソレイユという太陽に向かって、「明日へ向かってMove on」したのです。そして再び手を重ね、「これからは3人一緒に輝こう」と言った。

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  世界一硬い鉱物と考えられているダイヤモンドには、「永遠の絆」という宝石言葉があり、「壊れることのない変わらぬ気持ち」や「確かなるもの」を表します。*2 ソレイユとは、まさにこれからを照らす「永遠の絆」の太陽であり、自らの意志で明日へと向かう「新しい輝きのメロディー」なのです。

上を向けば太陽キラリ
まぶしくなれもっとね
君は光るダイヤモンド
新しい輝きのメロディー

 

 さて、このエピソードを通して大きく成長した人物がもう1人います。神崎美月です。美月がトライスターの3人目のメンバーに蘭を選んだ理由は、次のようなものでした。

私がアイドルユニットを組むからには、そのメンバーは、一人でも強く輝ける力を持つ人でなければと考えました。そして、オーディションの紫吹蘭の姿に、そのプロ意識が見えました。(第35話「涙の星)

 初期の神崎美月は、徹底した実力主義です。レベルの合うアイドルがおらず、1人でトップに立ち続けていた彼女が「一人で輝ける強さがあるかどうか」をユニットメンバー選出の基準にしたのは、当然の成り行きといえるでしょう。そして、蘭を「一人でも強く輝ける力を持つ人」だと判断し、トライスターのメンバーに選びました。ところが、それは間違いだったと気づく。単に強い光が集まればいいのではないのだと。ここから、神崎美月の成長物語がはじまります。

どんな惑星だって ひとりぼっちで

輝けるわけじゃない

 結局、美月はトライスター3人目のメンバーに、藤堂ユリカを選びました。あれだけ大規模なオーディションを行い、徹底的にふるいにかけて力のある人物を選び出したのにもかかわらず、ふるい落とされた側の人間を選んだのです。

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 ユリカは、単に力不足で脱落したのではありません。吸血鬼キャラを死守して、言い換えれば、自分だけの輝きを守って脱落したのです。そんなユリカを美月は選んだ。輝きの強さだけでなく、一つ一つの輝きそれ自体に目を向けるようになった証拠です。もしかえでとユリカの相性の良さも見抜いていたのだとしたら、これはものすごい成長です。そして、この成長はスターアニスへと繋がっていくのです。

夜空に輝く北極星は、3つの星が重なり合って一際目映く輝いている。私たちも一つになれば、きっとどこまでも大きく輝くことができる。この夏一番光り輝く、スターアニスという星に。(第41話「夏色ミラクル☆」)

 第41話「夏色ミラクル☆」で、みんなで同じ部屋に泊まりたいとリクエストしたのは、他でもない神崎美月でした。ずっと1人でトップを走り続けていた美月は、「ひとりだけれど独りではないスタート」へと進んでいくのです。*3

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 同じく41話で停電に見舞われた際、美月はその場で、おとめとかえでのマジックショーや、さくらの生け花、蘭のウォーキング、いちごとユリカの漫才(会話?)、あおいの「美月ちゃんクイズ」を発案し、電気を使わずに観客を楽しませます。その姿にいちごは強く感銘を受けたのでした。

美月さんはやっぱりすごい。私たち一人一人をちゃんと見てくれていて、ファンのみんなだって、こんな笑顔に。

 その後、美月は輝きを見つける側であるプロデュースに興味を持つようになり、スターライト学園を去った後、ドリームアカデミーのアドバイザーに就任します。

あなたたちと過ごした日々は輝いていた。でも、先輩としてもっと上手に後輩のあなたたちを導けたんじゃないかって思ってたわ。そう考えるうちに、プロデュースに興味を持ったの。(第63話「紅白アイカツ合戦!」)

 そして、最終的に彼女が選んだパートナーは、夏樹みくるでした。みくるって、言ってしまえばアイドル素人です。ど素人です。あの実力主義の神崎美月が、アイドルですらないみくるをパートナーに選んだ。彼女の輝きに気づくことができた。ここに美月の成長が集約されています。

いちごはたくさんいっぱいいろんなことを気づかせてくれた。そんな、いちごからもらったいっぱいで紡いだ翼を羽ばたかせて、私は新しいアイカツをスタートさせる。〔中略〕新しい私だけの、私自身で立ち上げた事務所から、ユニットで。(第78話「ミラクルはじまる!」)

 なんとも見事なのは、トライスターという3つの星が、スターアニスという3つのユニットの結び合せに繋がり、その「夏色ミラクル」が夏樹みくるへと繋がっているという点でしょう。涙の星にはじまった神崎美月の物語は、夏色のキセキに出会い、花の涙で一旦その幕を下ろしたのです。

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*1:アイカツ!オフィシャルコンプリートブック』(学研パブリッシング、2014年、126頁)

*2:ダイヤモンドの宝石言葉

*3:第42話「船上のフィナーレ☆」のいちごとかえでの会話が、『ヒラリ/ヒトリ/キラリ』の歌詞と呼応している点も見事。スターアニスの活動はいちごの「ひとりだけれど 独りではない スタート! 進むためのレッスン」にもなっている。