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【進撃の巨人】生類視覚効果という心理描写 (6月14日追記)

 『進撃の巨人』Season2の放送がはじまりました。第1期から4年弱。『甲鉄城のカバネリ』の制作も経て、映像技術は大きく進歩を遂げたように思います。なんといってもあの緊迫感。ついつい入り込んでしまって、ただの2Dの四角い画面とは思えないほどの迫力があります。今回はその技法の話です。

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 技法の話をするにあたって、まずは日本のアニメの特徴について少し言及しておきたいと思います。詳しくは高畑勲氏の「60年代頃の東映動画が、日本のアニメーションにもたらしたもの」という論文に、3コマ撮り、止め絵の多用などの「欧米とは異なる日本的娯楽アニメーション」の性質や、作画監督制をはじめとした「メインスタッフ中心主義」的な「日本型作画制作システム」などなど詳しく書かれていますので、興味のある方はそちらを読んでいただければと思います。大塚康生著『作画汗まみれ』(文春ジブリ文庫)に収録されています。

 ここで取り上げておきたいのは日本のアニメには演技が少ないということと、視点が近く主観的であるということです。ここでいう演技とは役者の演技ではなくアニメーターの演技、すなわち動きによってキャラクターの特徴を描写する演技のことです。簡単に言ってしまえば、日本のアニメは動かないということですね。*1

演技に関しては、人間中心の内容や感情移入しやすい主人公作りという側面だけではなく、欧米に比べて表情・身振り・言葉など、あらゆる面でもともと平板で抑制的な日本民族の性格を反映し、日本人を描く作品でなくとも、アメリカンアニメーションの特徴である過剰な流動感や、台詞と結びついた誇張の大きな動きはあまり取り入れなかった。また、主人公でなくとも、アメリカ型の誇張演技は日本製のキャラクターや日本語には似合わなかったし、あまりにわざとらしく感じられた。〈中略〉そして作画枚数節約の至上命令のもとに、①動きの基本は三コマ撮り(一秒間八枚で動きを作ること)、②止め絵多用、③止め絵口パク三枚による台詞が一般化し、緻密な動き・演技よりはいかにカッコイイポーズを描くかが要求されるようになる。

『作画汗まみれ』(文藝春秋、2013年、363-364頁) (太字筆者)

 動かすと枚数が増えるので、当然作画の負担も増えるということになります。ところが、上半身や顔のアップで口パクや目パチを合成すれば、作画枚数は格段に少なくなる。しかも、あまり動かない絵の方が日本製のキャラクターには合っている。そうして「緻密な動き・演技よりはいかにカッコイイポーズを描くか」を追求していくと、必然的にカメラは近くなり、遠くに構えたカメラでキャラクターの全身の動きを客観的に捉えるということは少なくなっていきます。*2

 試しに『白雪姫』を見てみましょう。全体的に流動的で動きが細かく、カメラが遠い感じがしませんか。

 逆に日本のアニメは、全体的にカメラが近く、キャラクターの動きに連動した主観的なカットが多いということがおわかりいただけるかと思います。*3 まあ『白雪姫』と『進撃の巨人』を比べるのもどうなんだという感じはしますが…。

 

 また高畑勲氏は、安易に作品世界に没入させ、主人公に感情移入させようとする日本のアニメの傾向に対し、警笛を鳴らしてもいます。

アメリカ随一の宮崎ファンを自称するジョン・ラセターの『トイ・ストーリー2』やブラッド・バードの『アイアン・ジャイアント』、さらにはニック・パークの『ウォレスとグルミット』の連作など、極上質の娯楽作品がハリウッドその他で生まれはじめている 。これらは、見る子どもたちが超人的な主人公に直接感情移入する(自分が主人公になった気分で作品の世界に没入する)のではなく、他者としての主人公に〈思いやり〉的に感情移入する作品であって、その主人公との適度な距離が「笑い」をも呼び起こすのである。

 現実世界の代用品として、のめり込むように映像を見ることの多い日本の子どもたちの異常な現状を考えるとき、これらの海外作品の示す傾向から深く学ぶべき時が来ているのではなかろうか。

『作画汗まみれ』(374頁) (太字筆者)

 大分かいつまんだ引用になってしまいましたが、あまり長くしすぎると本題に入れなくなりそうなのでこの辺にしておきます。上に見た日本のアニメの特徴の是非を論じるつもりもありません。ともかく「緻密な動き・演技」より「いかにカッコイイポーズを描くか」を追求し、近いカメラで主観的に「作品の世界に没入」させること。こういったことが日本人の性分に合っていて、予算の節約にもなり、毎クール何十本もアニメを量産することを可能にしているということは事実なわけです。

 で、『進撃の巨人』みたいな作品をアニメ化する際は、いかにして作品世界に没入させるかが大きな課題になってくる。間違っても「主人公との適度な距離」なんて感じさせてはいけないわけです。そこで重要な役割を果たしているのが、『甲鉄城のカバネリ』のメイクアップアニメーターを受け継いだ、生類視覚効果という役職です。

 生類視覚効果の基本的な仕事はディテールを盛ること。影や色を加えたり、手描きで毛のブラシを追加したり、目の血管とか細かく描き入れちゃったりする。それが生類視覚効果のお仕事です。『アニメージュ2017年3月号』に生類視覚効果班長の山崎千恵さんのインタビューが載っています。視覚効果を入れる前と後との比較画像も何枚か掲載されているので、気になった人は買ってみてください。

—どんな映像の方向性を目指して作業を?

山崎  巨人がそこにいる感覚ですね。きっと目の前に巨人がいたら、嫌だと思うんです(笑)。その本能的な嫌悪感、見たくないものを調査兵団のみんなは直視しなきゃいけないわけで。

ーその感覚を、観客にも共有させるように?

山崎  そうですね。近くにモノがあると細部まで見えますよね。たとえば机の木目は遠くからだと見えないけれど、近くに寄ればよるほどよく見えるようになります。そういう感覚でディテールを描き込むことで、巨人が本当に目の前にいると感じてもらえるように。

アニメージュ 2017年3月号』(53頁)

 これは、日本のアニメだからこそ生まれた発想だと思います。「現実世界の代用品として、のめり込むように映像を見る」ことを前提に、止め絵の迫力で勝負しているわけです。興味深いのは、近くに寄った感じを出すためにディテールを描き込んでいるということ。ここにはある種文学的な技巧を見ることができます。

凡庸な作家たちが一体に心理描写を好むのは、それがまた、人生ときわめて親和的な要素だからではある。われわれも、凡百の作中人物と同じく、あれこれ心に呟きながら現実を生きているわけです。ところが、いわばテクストに固有の現実というものに目を凝らすと、その凡庸な親和性がやはり、たちどころに瓦解する。すなわち、「彼は心ひそかに××と思った」と書くやいなや、その「××」は、もう心内の秘密ではなくなってしまう。それはすでに、読者によって読み取られているわけですから。したがって、心の中の言葉を秘匿されたものとして書くというのは、それ自身非常に矛盾しているわけですよ。

渡部直己『小説技術論』(河出書房新社、2015年、284頁) (傍点を太字に置換)

 これとは全然違うことですが、映像においても何かが視聴者に見られているということは、 作品世界の物理的なリアリズムを超えた影響力を有しています。人間と巨人の戦いを少し離れたところからカメラが捉えているような構図であっても、細部まで細かく描かれ、見えているということによって、私たちは近寄った感じを与えられるわけです(文学において特定の対象物と読者との距離を決めるのも、もちろん描写です)。

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 ですから、全篇一人称で書かれた小説でなくとも、対物描写は得てしてそのまま心理描写になり得る。「これは誰々の目線から見た巨人だ」などということを明示しなくとも、描かれているということ自体が映像と視聴者との関係において、キャラクター達の心情を表すことになるのです。カメラと対象の物理的距離は、ここでは問題ではありません。客観と主観の区別自体が消滅した、映像テクストに固有の現実というものがそこには展開されている。そして気づけばそこに入り込んでいる。『進撃の巨人』に感じるある種の立体感はそういうものだと思うのです。*4

*1: (6月14日追記)
 ここで「動かない」という言葉が悪い意味で使われているわけではないということをご理解ください(もちろんいい意味で使っているというわけでもありません)。当たり前のことですが、日本にも素晴らしいアニメーターの方々はたくさんいます。ほとんどがアフレコでリップシンクをしていないことを指摘される方もいるかもしれませんが、宮﨑駿はピクサージョン・ラセターに、「アフレコのいいところは、アニメーターが描き上げた最高の到達点が話すことにまで指導力を持つことができるということであって、ただ予算節約のためだけにやっているのではない」という主旨の発言をしています(『ラセターさん、ありがとう』)。

*2:3DCGアニメーションが日本に普及しないことも「平板で抑制的な日本民族の性格を反映」しているのかもしれません。

*3:この辺りのことは、叶精二著『『アナと雪の女王』の光と影』(七つ森書館、2014年)に、ピクサーが日本から受けた影響なども含めて詳しく書かれているので、そちらを参照していただければと思います。

*4:「他者としての主人公に〈思いやり〉的に感情移入する作品」も、少なくとも2017年現在の日本にはいくつかあるように思うのですが、その一つが今年公開された『映画プリキュアドリームスターズ!』です。登場人物たちがこっちの世界に語りかけてきて、観客を否応なく巻き込んでいくわけですが、3つのプリキュアそれぞれの世界と桜が原を行ったり来たりすることもあって、劇中世界と現実世界の区別ははっきりしていました。(私たちのいる世界を遭遇し得る世界の一つとして位置付けていた、といった方が的確かもしれません。)「笑い」の要素も多分に含まれていたと思います。こういう子ども向けの作品は確かにもっと必要かもしれません。