cubic in another

Remember the love:『ドキドキ!プリキュア』と“愛”の話

 録りためていたBS再放送の『ドキドキ!プリキュア』を今日見終わったので、雑記という形にして短い感想でも書こうかと思ったのですが、思いのほか筆が乗ってきてそこそこの分量になったので、単独で公開することにしました。というわけで『ドキドキ!プリキュア』の話です。

 

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 『ドキプリ』って、設定自体はかなり重めですよね。まず、トランプ王国の話が重い。「ある国の王が不治の病に侵された自分の娘を救うために禁忌を犯し、その結果王国が滅亡する」って、なんかシェイクスピア悲劇に並んでいてもおかしくないような感じがします。しかも剣崎真琴は施設育ちの孤児ですし、円亜久里も事実上孤児なので、プリキュア5人中2人がみなしごなんですよね。かと思えば相田家は絵に描いたような幸せな家庭で、菱川六花は医者の娘で、四葉ありすは財閥のお嬢様という。あまり意識させないようにはなっていますが、その実結構アンバランスな5人だったりします。

 けれど、そんなアンバランスさは全く問題ではないんですね。何故ならそこに“愛”があるから。『ドキプリ』を見ていると、ビートルズの“All You Need Is Love”が頭をよぎることがあります。(YouTube消されてたのでニコニコ動画の方を貼っておきます)

 

 

 ジコチューが浄化される時の声とイントロが似てるとか、そういう話ではないですよ。できないことはできない、作れないものは作れない、でも“愛”があれば別にいいんだっていう。まこぴーのこのセリフなんかがまさにそうですね。

実はね、私も両親がいないの。私がまだ赤ちゃんだった頃に、事故でなくなったんですって。だから私は、お父さんやお母さんの顔は、ちっとも覚えていないの。でも、寂しくなんてなかった。私たちは、王女様の愛に包まれていたから。

(第42話「みんなで祝おう!はじめての誕生日!」)

 

 音楽についての知識はあまり持ち合わせていないので、的はずれなことを言っているかもしれませんが、ジョン・レノンのある種の平和主義的な諦めみたいなものが『ドキプリ』には見られるような気がします。例えば42話で亜久里の誕生日を祝うくだり。誕生日がわからないのはもうどうしようもない。わからないものはわからない。じゃあ今日が誕生日ということでいいじゃないか、祝っちゃえ、っていう。なんだか“Happy Xmas (War Is Over)”のような感じがする。(和訳するのもなんだか恐れ多いので原文だけ載せます)

And so this is Xmas (war is over)
For weak and for strong (if you want it)
For rich and the poor ones (war is over)
The world is so wrong (now)
And so happy Xmas (war is over)
For black and for white (if you want it)
For yellow and red ones (war is over)
Let's stop all the fight (now)

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 亜久里に関しては、自分の正体も年齢もわからなかったわけです。それでも“愛”があれば家族にはなれるのだということを、円亜久里と円茉里は証明して見せました。血の繋がりも年齢も、亜久里が何者であるのかも、とにかく物質的なものは全て“愛”の前では一切関係ないのだということが、そこには暗に示されています。

これは、大切な孫がわたくしのために描いてくれた絵です。消えてしまっても、込められた愛は色褪せたりはしません。あなたの思い、伝わりましたよ。ありがとう、亜久里

(第43話「たいせつな人へ!亜久里の授業参観!」)

 

 ですから、まあとにかく『ドキプリ』は“愛”なわけです。相田マナ(本来の表記は相田愛)って名前がもう「愛だ愛!」って感じですし、ジコチューも“愛”と表裏一体の存在で、生命が生きている限り誰の胸からも“愛の鼓動”は消えたりしない。しかもその上、出自が問題にならない世界でもある。“この世界つなぐものそれは愛”であり、“君と手と手つないだらもう友達”なのです。キングジコチューが開けた時空の穴は、最終回でそのまま残されました。そして、さしたる問題もなく、2つの世界は共存している。これも“愛”ゆえのことです。最近では現実の方のトランプ王国が問題になっていたりもしますが、綺麗事みたいなフィクションの世界から学ぶべきことも、実はたくさんあるのかもしれません。

好きだから。あたし、レジーナが好きだから。それだけじゃ、ダメかな。レジーナが好きだから、レジーナが愛するパパも好きになれる。好きになりたい。わかり合いたい。

(第47話「キュアハートの決意!まもりたい約束!」) 

 

 そんなわけで、夜明けでも、夕焼けでも、真夜中でも、コーヒーを飲んだ回数でも、インチでもマイルでも笑顔でも争いでもなく、愛で人生を測ろう(measure your life in love)と歌ったあの名曲を、結句の代わりとさせていただきたいと思います。

 

 

 

余談

 最終話でイーラが「まあ、あいつらがいたんじゃな」と言って立ち去るシーンがありますが、その時のカット、レジーナ含めて6人映るのですけれど、偶数なのに立花がちょうど真ん中なんですよね…。こういうさりげないところに潜んだエモ、とても素敵だと思います。

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余談2『 アイカツスターズ!』58話から

 単独といいつつ『スターズ』の話になっててもうわけがわからないんですが、ここに書いとくしかなさそうなのでここに書いときます。

 

・変転の妙

 『アイカツスターズ!』に関して最近よく思うことは、印象操作が上手いなあということです。もちろん悪い意味ではありません。

 例えば諸星学園長は、1年前は悪役ともいえるような立ち位置にいました。特に劇場版ではその性質が強く出ており、悪人のいない『アイカツ!』の世界とのギャップに困惑する声も多かったように思います。白鳥ひめとも揉めていた上に、結局映画では諸星ヒカルの真意は明かされなかったので、映画だけ見れば本当にただの悪役です。ところが第36話「虹の向こうへ」を機に印象は逆転し、今ではすっかり愛されるキャラクターになりました。

 と、まあこれだけのことなら取り立てて言うほどのことでもないのですが、先週放送された第58話「ミラクルオーディション!!」。これがすごかった。1話の中で見事にエルザ・フォルテの印象を引っくり返してみせました。冒頭の四ツ星勢とエルザとのやり取りを思い出してみましょう。

エルザ「ユメ・ニジノ、今日のオーディション、勝利の女神は私に微笑むことになっているわ」

リリィ「勝負はまだ始まってもいません」

ゆめ 「そうです。負けませんよ」

 エルザ・フォルテはかなり人気のあるキャラクターだと思いますが、“敵”という性質が非常に強い人物でもあります。四ツ星学園を危機に陥れた張本人ですし、52話では桜庭ローラを下に見るような発言をして、対立を引き起こしたりもしました。“悪”ではないにしても“敵”であることに間違いはないでしょう。その上いつも人に用意してもらった最高級のステーキとか食べてますし、一国の王位継承権まで持ってたりする()ので、いろいろと恵まれた人物だという印象が強いのではないでしょうか。そんなエルザが「勝利の女神は私に微笑むことになっている」なんて言うと、やっぱりちょっと傲岸不遜な感じがします。

 ところが、わずか15分後には、この印象はすっかり逆転してしまいます。エルザ・フォルテは、幸花堂と幸本社長のことを事前に詳しく調べていた。このことが明かされることによって、Aパートのやり取りは全く違った様相を帯びるようになります。白銀リリィが「勝負はまだ始まってもいません」と言う遥か前から、既に勝負は始まっていたわけです。

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 同時にエルザ・フォルテの印象が“才能の人”から“努力の人”へと切り替わります。その上、彼女はただパーフェクトなだけではない、トップに立ってもなお向上心を忘れずさらに上を目指そうとする、真にパーフェクトな存在であるのだということも示される。

私も、こんなファッショナブルなケーキがこの世に存在していることを知り、また一つ学びました。この世は全てファッション。それは、人に感動と喜び、そして幸福をもたらすもの。お菓子でもドレスでも、それは同じことです。

 そんな“パーフェクト・エルザ”に、虹野ゆめと白銀リリィはまさしく完敗したのでした。そして、「追い越したい」敵に出会えた喜びを表明し、文字通り真っ直ぐ敵を見上げて幕を閉じる。完敗したことを喜んでいるこの闘諍の熱も、『スターズ』の魅力の一つであると思います。 

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・その一助となるもの

 「ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」というあまりにも有名な一節がありますが、ジュリエットはその後に続けて、「お父様と縁を切り、その名を捨てて」と言います。「どうしてあなたはロミオなの」というのは、つまり名前というものへの懐疑なんですね。

私の敵は、あなたの名前。
モンタギューでなくても、あなたはあなた。
モンタギューって何? 手でもない、足でもない。
腕でも顔でも、人のどんな部分でもない。
ああ、何か別の名前にして!
名前がなんだというの? バラと呼ばれるあの花は、
ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない。

 ところが赤毛のアン*1ことアン・シャーリーはこんなことを言います。

薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇があざみとか座禅草スカンク・キャベツとかいう名前だったら、あんないい香りはしないはずよ。

 なんでいきなりこんな話を始めたかというと、『スターズ』って“名前”の持つ力が結構大きい作品なんじゃないかと最近思ったからです。

 『アイカツ』にもスターライトクイーンやブランドのミューズみたいな肩書きはありましたが、作中において『スターズ』のS4ほどの大きな役割を担ってはいませんでした。例外的に4thシーズンのラストではスターライトクイーンカップが非常に重要な行事として扱われましたが、初代主人公の星宮いちごは一度もスターライトクイーンになりませんでしたし、いちごがアメリカに留学している間のクイーンカップも回想シーンでしか描かれませんでした。

 『スターズ』でも、もちろんS4になることが全てではないですし、七倉小春のように別の道を志すキャラクターもいます。けれど、基本的に四ツ星学園の生徒は皆S4を目指しているわけですし、そもそも制服が違うので、ビジュアル的にもどうしても無視できない存在感があります。S4の制服に身を包んだゆめや、幹部服を着たローラを見て、とみに成長を実感したという方も多いのではないでしょうか。

ゆめ 「私たちが、1年生の道しるべになろうよ!」

ローラ「…S4になったんだね、ゆめ。」

(第52話「狙われたアイドル!?」)

 ここのやり取りが私には非常に印象的でした。この後ローラがゆめの腹筋を触ることで、この1年で変わったものと変わらないものとをそれとなしに描いていたのも印象的でしたが、それ以上に「S4になったんだね」というセリフが、なんだかスッと胸の中に入ってくるような感触がありました。

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 憧れていた学校の制服に袖を通したとき、出席カードに新しい学年を書いたとき、アンケートの職業欄に会社員と書いたとき、結婚して苗字が変わったとき。そんな節々に感じる“自分が何者かである”という意識は、結構な影響力を持っているように思います。もちろん虹野ゆめは、S4になるに足る十分な努力を積み重ね、なるべくしてS4になったわけですが、実際にS4になってみてから起こった変化というのも相応にあるのではないでしょうか。同じように、エルザ・フォルテの“パーフェクト・エルザ”という肩書きも、彼女の姿勢に影響を与えているのかもしれません。

 ですから、「そんな大役私なんかには務まりませんよ」みたいな態度は、結構世界を狭めてしまっているのかもしれない。案外なってしまえば、何にでもなれるのかもしれない。そして、虹野ゆめのように今の自分ではない自分を想像できる(妄想してしまう)力には、可能性をどこまでも押し広げる、とてつもないエネルギーがあるのかもしれません。

*1:赤毛のアン』といえば、48話で白銀リリィが「私の愛する赤毛の少女」として引用していました。ゆめやリリィは想像力豊かなアン・シャーリーとどこか近いところがあるように思います。