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「新文芸坐×アニメスタイル 原恵一監督のアニメーション映画」と「ポッピンQ展 宮原監督&金丸Pトークショー」

 土曜日は新文芸坐原恵一監督のお話を聞き、日曜日は東京アニメセンターで宮原直樹監督のお話を聞くという、なんとも贅沢な週末を過ごすことができたので、何か書いておこうと思います。イベントレポートみたいなちゃんとしたものには多分なりません。

 

6/17(土) 原恵一監督のアニメーション映画
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 原恵一監督と言えば『オトナ帝国』だと思うのですが、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。『戦国大合戦』だったり、『暗黒タマタマ』だったり、もうちょっと年輩の方だと『エスパー魔美』だったり、80年代の『ドラえもん』だったりするのでしょうか(これ年齢がバレますね)。ともあれ、私にとっての『オトナ帝国』がそうであるように、原恵一監督の作品が映画という枠を飛び越えて記憶の奥深くに根付き、人生の一部になってしまっている、そういう方って結構多いのではないかと思います。

 そんな原監督のお話を聞いてから、朝までかけて映画を3本観たわけなんですが、トークパートで印象的だったのは、藤子F先生の作品をはじめとした“自分の根幹を作ってきたもの”へのリスペクトの強さ。お酒が入ってるせいもあってか、「自分の根幹を作ってきたものを軽んじて、自分の力だけでポッと出たと勘違いしてるような奴らはみんな消えた。泡沫。泡沫。」と、結構痛烈に批判をされていました。*1

 今回のイベントで上映されたのは『百日紅さるすべり~Miss HOKUSAI~』、『河童のクゥと夏休み』、『カラフル』の3作品でしたが、確かにいずれの作品にも、そういったものへのリスペクトが感じられます。怪奇現象や妖怪、あるいは生き返りみたいな“すこしふしぎ”な要素が、日常と地続きのところにあるドラマに息づいていく。この在り方はドラえもんとかなり近いところがあって、トークで「クゥはドラえもんと同じ」とおっしゃっていたのも、きっとそういうことなのだろうと思います。

 どこにでもあるような家族の風景を描いているという点も、3作品全てに共通しています。現代の小中学生も、江戸時代の絵描きたちも、同じように毎日を生きている。そして、そこに描かれている1人1人のキャラクターや家族の在り方は、恐らくどの年齢の人にも何かを意味します。

 そうして気づけば、私たちの生活に『ドラえもん』が当たり前にあるのと同じように、その作品自体が私たちの生活に歩み寄ってきて、映画という枠を超えた感覚になっている。原恵一監督のすごいところは、そんな“ファンタジーとしての日常”をずっと描き続けていることだと思います。

 僕にとってはそういった描写(普通の日常をアニメで描く事)が、他の人にとってのアクションシーンや、お色気シーンの代わりで、そういうのを作る事に快感を覚えていたのかもしれないですね。『魔美』だけじゃなくて、藤子Fさんの描く家族というのは、東京の郊外に家を持っていて、食事はみんなで一緒でね。ああいうのに憧れがあったのかもしれないですね。僕の実家は商売をやっていて、家族揃って飯食った記憶ってほとんどないんですよ。親父は朝早く出かけて、夜遅く帰ってくるような仕事だったし。「チャコとケンちゃん」とか「ケーキ屋ケンちゃん」とか、あの辺のドラマの中の生活というものに、憧れがあったのかもしれないですね。

(小黒祐一郎) 僕なんかも、思い浮かべる「家族の食卓」って『サザエさん』の中のものなんですよね。今時、お父さんがわざわざ着物に着替えて、ご飯食べるわけないと思うんだけど。

 『おもひでぽろぽろ』の世界みたいな。

 「ファンタジーとしての日常」を描いてるんですね。

 多分、そうですね。そういうのに縁がなかったから。

『この人に話を聞きたい アニメプロフェッショナルの仕事 1998-2001』
(飛鳥新社、2006年、155頁)

 

 ちょっと話が飛びますが、いわゆる批評とか考察とか感想ブログとか、そういうものの意味って、「ある一つの視点を提示することによって、作品のいくつかの点に光が当たって、却って多義的な魅力を引き出すことができる」ことにあると思うんです。少し前に『エヴァンゲリオン』のHDリマスター版がNHKで放送された時、「エヴァ噺」というおまけコーナーが付いていましたが、あれなんかがまさにそうで、森永卓郎さんとか、中川翔子さんとか、神田沙也さんとかが好き勝手『エヴァ』について語ったり、名シーンを選んだりするのですけれど、その噺を聞く度に『エヴァ』の魅力がどんどん引き出されていく。そうして何度でも再視聴に堪えうるものが、名作と呼ばれるのだと思います。

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 ただ、原恵一監督の作品に関しては、「このシーンはこうだ」とか言ってしまうのはちょっと違うような気がしていて、きっと個人個人の経験に寄り添ってこそ意味があるのだと思うし、子供の時に観るのと大人になってから観るのとでは、感じ方もまるで変わってくる。要するに、1人1人が人生をかけて付き合っていく作品だと思うわけです。

 ですから、最後に一言「どの作品もオススメです」とだけ言っておくことにします。

 

 

 

6/18(日) ポッピンQ展 宮原監督&金丸Pトークショー
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 宮原直樹監督の世間のイメージは、『ドラゴンボール』の人でしょうか。『デジモンアドベンチャー』の人でしょうか。それとも『プリキュア』のCGの人でしょうか。経歴を改めて見てみるとかなり手広く意欲的に仕事をされている印象を受けます。そんな宮原監督がはじめて手掛けたアニメーション映画『ポッピンQ』の話です。

 『ポッピンQ』の特徴の一つとして、「よく動く」ということが挙げられると思います。トークショーでは「一番枚数が多い」というオープニングの映像を実際に観ながら、金丸裕プロデューサーがどれだけ動いているのかを解説してくれたのですが、これがまあ信じられないぐらい細かいんですね。ほとんど映ってないけど、メインキャラの後ろにモブが3人(もちろん動いてます)描いてあったりもするらしい。そういえばダンスシーンはリミテッドではなくフルアニメーションですし、他にも背景美術のタッチを現実世界と時の谷とで変えていたり、心情に合わせて光の演出表現を調節していたりと、実はかなりこだわって作られている作品です。

 ところが、これは小黒祐一郎さんもおっしゃっていることですけれど*2、『ポッピンQ』ってすごく初々しいんですよ。いい意味でフィルムに洗練された感じがまるでない。制作工程に“初めて”がたくさんある作品なので、そういうところも影響しているのかなと思います。

僕(松井俊之プロデューサー)は映画にはずっと関わってきましたが、アニメ映画のプロデュースは初めてなんです。そして金丸はプロデュースが初めてで、宮原さんは長編作品の監督が初めて…金丸はアニメが好きっていうアンテナを一番大事にして自由にやってもらい、宮原さんには気負わずにとにかく自由にやってもらいたかった。僕は映画としての枠組みを作ったり、転がしていくというポジションに専念して、2人には自由にやってもらったつもりなので、そこはうまくいったんじゃないかなって思っています。

ポッピンQ』劇場パンフより (太字筆者)

 そして、そのフィルム全体に漂う初々しい雰囲気が、卒業を控えて戸惑いながらも前に進もうとする中学3年生の心情にぴったり合っている。狙ってやっているわけではないのでしょうけれど、この世界観が私は非常に好きだったりします。

 

 加えて宮原監督はキャラクターをしっかり描くことを大事にされている方で、『ポッピンQ』に関しては、企画の段階からキャラクターが物語に先行しています。はじめて劇場で観たときは、「テレビシリーズに続くのか」とか思ったんですけど、どうやらそういうわけでもないらしく、単純に映画とかTVアニメとかそういう枠を問題にせず、とにかくキャラクターから膨らませていって形にしたようです。個人的には、ちょっと尺不足かなという感じはするのですけれど*3、それもキャラクター>物語で作った結果なのかなと思います。さらにいえば、アイドルじゃないからダンスシーンはカメラ目線じゃないし、5人それぞれの個性に合わせて、少しずつダンスを崩してあったりもする。要するに映画で観れるのは、たまたま画面に映っている彼女たちの生活の一部分でしかないわけで、徹頭徹尾キャラクター優先で作られているんですね。

 ほとんどイベントの話をしていない上に、収拾付かなくなってきましたが、要は何が言いたいのかというと、某匿名掲示板等で大爆死とか言われてるほど悪くはないですよということ。彼女たちの青春の一幕をちょっと覗いてみようかな、ぐらいの感覚で観てみて欲しいのです。

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(サインありがとうございました)

 

 

 

 

 

*1:もちろんおっしゃっていた言葉そのままではありません。「泡沫泡沫」はそのままですが。

*2:アニメージュ2017年6月号』「この人に話を聞きたい」第百九十三回 宮原直樹

*3: (5人のドラマを描くことを考えたらこの映画の尺は)短いと思います。なので、伊純と沙紀に集約せざるを得なかったんですが、他の3人に関しても「描き切れなかった」という感じはないですね。彼女達のドラマに必要だったものは、ちゃんと映画の中に置いていますので。観た人が「足りなかった」と思うのか、「あれがあったから彼女達はあんないい顔でラストシーンを迎えられた」と思ってもらえるのかは、観る人に委ねるところではあるんです。映画の中に残したパーツをパズルのように組み立ててくれた人は「よかった」と思ってくれるだろうし、「足りないかなあ」と思った人も中にはいるんでしょうね。そこはしょうがないです。ある程度のかたちと時間を決めて作ったものなので。(『アニメージュ2017年6月号』114頁)