cubic in another

片渕須直監督のアニメーション ―『アリーテ』『マイマイ新子』『この世界の片隅に』

※引用箇所の太字は全て引用者によるものです
※記事内のAmazonへのリンクはアフィリエイトではありません
※(10.21)誤字を修正しました
※(11.10)参考文献を修正しました

 

 約一年前のことですが、片渕須直監督が大学の講義にゲストとして来てくださったことがありました。その時におっしゃっていたことで、どうしても忘れられないことがあります。教室は書物ではないので、明確な出典はありませんが、確かにこう言っていました。

例えば、戦時中の世の中っていうのは、今私たちが生きている現代とは、全然違うわけですよ。でも、違うんだけど、断絶しているわけではない。アニメーションは、そういう地続きになっている世界への橋渡しをすることができる。

 この“地続きの世界へと橋を架けること”は、片渕監督のアニメーション作品で、一貫して行われていることのように思います。そしてそれは、「魔法」であり「奇跡」です。というと少し唐突に感じるかもしれませんが、どうしてもこういう言い方になります。

 例えば『アリーテ姫』では“胸の奥で何かを思い描く”ということが、魔法と同列のものとして扱われています。ボックスが幼い頃に訪れた浜辺を回想するシーンですね。アリーテに「一番行きたいと願う場所」を思い描いてみてと言われて、実際に思い浮かべる。その回想シーンの後、アリーテは自分の胸に手を当て、ボックスにこう言います。

今、遠い浜辺に立っていた?

千年もの時を飛び越えて、すごい魔法が詰まってるのよ。人のここには。そして、それは未来へ向けることだって。

 もう1つ、『アリーテ姫』で魔法と同等に扱われているものがあります。周知の通り、“手で何かを作ること”ですね。これはもう最初のセリフからそうです。

本物の魔法使いのものとは違うけれど、人の手には、確かに魔法のようなものが備わっている。だとしたら、この手にも。

 ラストも、ボックスが自分の手を見つめるカットで終わります。

f:id:hitotosem:20171021143606j:plain

 ここで当然思い当たるのは、アニメーションも人が何かを想像し、それを人の手で描くことによって作られている、ということ。千年もの時を飛び越えるボックスの回想シーンだって、人が想像して手で描いているわけです。

 それは『マイマイ新子と千年の魔法』で描かれた千年前の周防も同じです。片渕監督はオーディオコメンタリーで、「時間は不可逆ではないのではないか」という話をされています。つまり、ロケハンをした時には、新子たちの住む昭和30年の景色すら存在していなかった。にもかかわらず、それを想像してアニメーションにしたり、あるいは「この場所って昔こうだったんだよね」なんて言いながら普通に思い浮かべたりできてしまう。そこにある種の奇跡のようなものを感じながら仕事をしている、と。

 だから、『マイマイ新子』では、レトロに見えるような撮影効果は使われていないんですね。資料やロケハンを元に思い浮かべた世界を、そのまま人の手で描いて再現している。それも、氷川竜介さんが言うように、「科学技術的発想の監督」*1として、徹底的なリサーチに基づいて描いている。つまり、想像力というのは、自分本位で好き勝手に妄想するということとは違うわけです。もちろん安易に「同じ」だと決めつけることでもない。それは、『この世界の片隅に』をご覧になられた方にはわかると思います。

 そうなると、その想像力というのは、やはり“地続きになっている世界”へと向かうことになります。記号化された歴史ではない、ある種民俗学的な視点ですね。“世界の片隅”と言い換えてもいいかもしれません。アリーテも新子もすずさんも“世界の片隅に”生きている。世界の中心にはいないわけです。

片渕 『マイマイ新子と千年の魔法』の「千年の魔法」は映画化するとき、原作の中にあった言葉をタイトルに入れたわけですが、どういうわけか前に作った『アリーテ姫』ではすでに「千年の魔法」という言葉が自分が書いたセリフとして登場しているんです。そして両方とも想像力に関わる物語です。想像力をどう扱うか。まったく存在しないものを想像するのではなく、自分の目の前にいる人の心を推し量ったり思いやることだったり、自分の目の前の風景にしても「ここにはかつてこんな人たちがいて、こんな経過をたどって目の前にあるんだな」ということを想像することだと思うんです。その想像力自体、アニメーションにとって非常に大事な原点だと思うわけです。今回、戦時中の普通の日常生活という題材ですが、この「想像力のあり方」がものすごく大事なポイントになっています。それが主人公の人となりや運命を定めているところでもある。その点では、自分が今まで何本も作ってきた作品の中で、一貫してると思っています。 

クリエイターズ・セレクション VOL.38 片渕須直

 『マイマイ新子』で描かれているのは、今日という1日を真剣に生きる、ごく普通の子どもたちの世界です。大人の事情、世界の不条理さに振り回されながらも、精一杯今日を遊び尽くし、明日を信じて生きていこうとする、そんな“こどものせかい”。諾子(清少納言)だって、同じ世界に生きています。もちろん平安時代ともなると、憶測で描いている部分が大半になるのだとは思いますし、実際に清少納言がどんな人だったのかも私たちにはわかりません。けれど、それでも時間は不可逆ではないのだろう。『マイマイ新子』の世界で新子たちと諾子たちが“想像力”で繋がっていく様子を観ていると、不思議とそう思えます。

千年経っても生えておる松よ。懐かしい今日のことを、いつまでも覚えておいておくれ。昔にも人はいる。千年経った先にも、誰かいる。 

f:id:hitotosem:20171021144253j:plain

 一方『アリーテ姫』には、アリーテが城の窓から城下へと目を遣り、そこで暮らす人々が俯瞰的に描かれるシーンがあります。ここにはいわゆるガヤが入るのですが、そのガヤが、最早ガヤではないんですね。城下に生きている人たち1人1人が生きているのだということがはっきりとわかる。そしてアリーテはこう綴るわけです。

いつしか、お姫様の心は、愛おしさと羨ましさに溢れておりました。人の数だけ生きる物語があって、誰もがその主人公。なのに私は…。いいえ。私だってその1人のはず。

f:id:hitotosem:20171021144514j:plain

そして最後、アリーテは「私は生きよう、この大地に生きる、人の間で」と言って、人混みの中に消えていきます。

 さらに、これは氷川竜介さん*2や、確か叶精二さんも言っていたような気がするんですが、片渕監督が学生時代に手掛けた『名探偵ホームズ』の脚本にも似たところがあるんですね。『名探偵ホームズ』の第5話「青い紅玉」は、ポリィという想像力を糧に生きている身寄りのない女の子の話なんです。サンドイッチを作ってみんなで食べるシーンなんかがあったりする。

f:id:hitotosem:20171021140832j:plain

 こうして、この世界の片隅に生きる1人1人に想像力を働かせること。こういうことが、過去か現在か未来か、現実かファンタジーかに関係なく、片渕監督の作品では一貫して行われてきました。

 ですから、こういう人が『この世界の片隅に』のアニメーションを手掛けたという事実に対しては、何か歴史の必然性のようなものを感じずにはいられません。もちろん、片渕監督本人からの働きかけによって実現した部分が大きいのでしょうが、こうの史代さんは片渕監督の『名犬ラッシー』を観て、生活を正面に描くものをやりたいという意識を強くした*3と言いますから、やはり何か運命的なものを感じます。

 『この世界の片隅に』に対して公的にレスポンスをした著名人の1人に、『ガンダム』の富野由悠季監督がいます。富野監督は、『アニメージュ』2017年4月号で、「戦争をこんな風に描ける世代がついに現れたのだなと感じ入りましたし、嬉しく思いました」と発言しています。

 富野監督は、宮﨑駿監督と同じ1941年生まれ。1941年というと、太平洋戦争が開戦した年です。*4 ぎりぎり戦争を経験している世代、ということになるでしょうか。戦時中の体験をどれほど記憶していらっしゃるかはわかりませんが、戦後復興の時代に大人になったわけですから、やはり戦争というものをリアルに感じている世代なのだと思います。4歳の頃の記憶もなんとなく覚えているようです。*5

 そんな富野監督のいう「戦争をこんな風に描ける世代がついに現れたのだなと感じ入りました」というのは、恐らく“『この世界の片隅に』には「反戦思想」というイデオロギーがない”という文脈においてのものでしょう。などと勝手に書くのもどうかと思いますが、少なくともこの記事を読んだ限りではそうです。

今までの確固たるイデオロギーを持った人たちが、反戦を主張する表現をこれからもずっと続けられるのかということには、僕には疑問はあって、この眼差しは極めて新しい視点ではないかと思ったのです。


観客の立場から、別の言い方をすると、あの時代を極めて冷静に、客観的に表現している、ということに尽きます。イデオロギー色がついていない、監督の「体臭」もついていない作品で、それがあの時代というのは「こうなんだ」というのがストレートに感じられる作りになっています。


うかつにメッセージを入れてしまったら最後、つまらない――「お前、その程度の言葉しか使えないのね」っていう作品になったと思いますよ。

 私はいわゆる「若者」ですから、戦争を経験した世代にイデオロギー色のない客観的な表現ができるのかどうかについてはわかりません。けれど、「反戦思想」のないこういう映画を、戦争を経験したことのない世代が作ってしまった。このことの偉大さについては理解しているつもりです。それは恐らく、遠く離れた世界を想像して手で描くアニメーションでなければできないことです。

片渕 「『この世界の片隅に』は実写だってできるじゃないか」って時々言われますが、飛んでいるB-29とか、すずさんの家の裏の畑から見える呉軍港とか、CGで本当に生活者のドラマと同じように描けるのかな、という疑問があるんです。でも、自分たちの仕事ならできると。

――それはアニメーションだから?

片渕 そう、まさにアニメーションだから。だって自分たちが全部手で描けばいい。CGは今回1カットも使ってないし。手で描くなら、すずさんを描くのも、すずさんの住んでる家を描くのも、空を飛んでるB-29を描くのも、それが落とす爆弾を描くのも、全部同じにできる。そういう姿勢を通そうとしました。そうすることで、すずさんの実在に肉薄していきたかったんです。フィクションというよりは半実在みたいな境地に。そういう目的には、ドキュメンタリーのような手法がいいと思いました。『マイマイ新子』にはカメラを手持ちで構えて振っている感じがありますが、こっちはカメラはFIX(固定)で据え、すずさんが風景を眺めてるのをじっと撮っている画面が多い。PAN(カメラの振り移動)は控えめにしました。要するに世界がそこにあり、ポンと据えたカメラで撮ることで、ドキュメンタリーっぽい感じを出そうと。

クリエイターズ・セレクション VOL.38 片渕須直

富野 何よりも重要なのは、こういう形でアニメという媒体を使っていながらも、「実写以上に」戦時中の日常を描ききることができたということは、おそらく実写の監督たちにはできなかったのではないかなと思っている部分もあります。「アニメだということを忘れて最後まで観きってしまった」というような評論が多い、というのはどういうことなのか? という別の言い方もありますけど、これは後ほどお話ししましょう。よくできた作品というのはこういうもので、アニメも実写も関係ないんです。実写の監督にはできないだろうと言ったのは、実写であの時代を撮ろうと思った時に、きっと「作為」がアニメ以上に作用するんです。それで、『この世界の片隅に』ほどには穏やかには作りきれなかっただろうなということもあって、大変優れた映画だと思いました。


富野 だから、そういう造形も含めてなんですが、それを実写でやったらどうなるのか? ということも観ている間考えていて、やはりアニメの絵が持っている――「力」という言い方はしませんが――「象徴性」というものがシンボルとして機能していると思いました。それこそすずさんが嫁入りをしてから戦争が終わるまでの2年間、その成長を描いた物語ではないと思うのですが、それでも彼女は成長する。それがすごく綺麗に描かれていて、うかつな役者を連れてきたら、その役者の「個性」が出てしまうので、すずという物語上のキャラクター=シンボル――別の言い方をすれば偶像としての「アイドル」――としての形を作れないだろう、とは思いますね。

『この世界の片隅に』は宝――「実写以上に」戦時中の日常を描ききっている! 富野監督が片渕監督に伝えたかった言葉とは?

 戦争を経験した世代が「客観的」だと称するほどのものを、1968年生まれのこうの史代先生と1960年生まれの片渕監督が、その手で作り上げた。これは本当に、偉大な達成です。「自分が生きているこの時代が決定的な終わりであり、決定的な始まりである」という思考は「根本的にナチス的であり、根本的にカルト的」だと言いますし*6、『この世界の片隅に』を作り上げた“人の力(=想像力,手で描くこと)”は、違う世界、違う時間、違う国、違う人を思いやり推し量ることと同じ力ですから、こういう作品を作ることのできる人たちがいなければ、人類はまた同じ間違いを繰り返してしまうのではないか、とも思います。

 片渕監督は、『アリーテ姫』の公開以前から、こういうことを言っています。

世の中で誰もがぶつかる現実というものの大きさに対して、自分の心を保つためにエンタテインメントが必要なのではないか。勿論、エンタテインメントと言っても、その場しのぎのものではなくてね。『アリーテ姫』は、大きな現実の前で自分の存在が値打ちがあるのか知りたいと思ってる人の、気持ちに応えるような映画にしようと思った。

『アニメクリエイター・インタビューズ この人に話を聞きたい 2001-2002』(講談社、2011年、120頁)

 戦争というのは、この上なく不条理で大きな現実です。それでも、私たちは今ここに、この世界の片隅に生きています。『この世界の片隅に』という映画はそういう意味で、1つの「勝利」なのではないかと思います。つまり、すさまじい破壊と運命に対して、この世界の片隅に生きる人たちの「生活」は負けなかった。そして、その「生活」は今も続いている。しかも、戦争というのは、断絶した世界のことではない。私たちは戦争と地続きの世界に生きていて、その時代に橋を架けることもできる。目を背けない限り、時間は不可逆ではない。

 だから、『この世界の片隅に』という作品は、千年経って、戦争も軍隊もなくなったとしても、きっと残るのだと思います。『マイマイ新子』で諾子が言っていたように。あるいは『アリーテ姫』の金色の鷲のように。そして、この世界の片隅に今生きている私たちに思いを馳せてくれる人が、千年後にもきっといる。そうやって世界は少しずつよくなっていくのだと思います。

 ちょっと気恥ずかしくなってきましたね。最後は富野監督に譲ろうと思います。

まさに巧まずして、客観的に、「この時代は大変だった」ということを(直截には)何ひとつ言わずに、するするっとまとめているという意味では――本当にあの、言い過ぎるかも知れないんだけど……言い過ぎるな(笑)。うん、ちょっとした「宝」だなあと思っています。

 

 


参考:坂口安吾『もう軍備はいらない』

 腕力と文明を混同するのがマチガイのもとである。原子バクダンだって鬼がふりまわすカナ棒の程度のもので、本当の文明文化はそれとはまるで違う。めいめいの豊かな生活だけが本当の文明文化というものである。
 国防のためには原子バクダンだって本当はいらない筈のものだ。攻めこんでくるキ印がみんな自然に居候になって隅ッこへひっこむような文明文化の生活を確立するに限るのである。五反百姓の子沢山という日本がこのままマトモに働いて金持になれないというのは妄想である。有り余るお金や耕しきれない広大な土地は財産じゃない、それを羨む必要はないのである。そして国民全体が優秀な技術家になることや、国そのものが優秀な工場になることは不可能ではなかろう。
 我々の未来が過去の歴史や過去の英雄から抜けだすことはありうるものだ。食うものを食わずにダンビラを買い集めて朝夕せッせととぎすましたり原子バクダンを穴倉にためこむような人々を羨む必要はないじゃないか。何百万何千万人の兄弟を殺したあげくにようやく戦争に勝ったというようなことが本当の勝利であろうか。
 泥棒や人殺しは割が合わないと云うが、戦争というものも勝っても割が合わないものだ。かりに一ツの国が全世界を征服しても、全世界を征服することによってはじめて得られるという特別の個人生活は有りやしない。そんなバカバカしく大ゲサなことをしたって有り余るものを持ちすぎるだけのことで、人を征服することによって自分たちの生活が多少でも豊かになるような国はもともとよッぽど文化文明の生活程度が低かっただけの話、つまり彼は単に腕ッ節の強いキ印であるにすぎず、即ち彼はやがて居候になるべき人物であるにすぎないのである。文化文明の生活程度を高めるためには、戦争することも、人を征服することも不要である。そこにはおのずから限度があって、戦争に引き合うような途方もない国民生活水準が有るべきものではないのである。