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アニメの感想など

ねえ、信じた道を進もう:『アイカツスターズ!』86話「涙の数だけ」

アイカツスターズ!』86話「涙の数だけ」の素晴らしさは、何と言ってもその力強さと説得力にあります。「ゴーイングマイウェイ」の人である桜庭ローラを中心に据えたこのフィルムは、どこまでも力強く、たくましい。映像演出について語るにはまだまだ至らないところの多い私ではありますが、このフィルムに打ちのめされた事実をなかったことにするわけにもいきませんので、一つ筆を執ってみようと思います。

 

 映像演出や舞台芸能の基本原則に、「弱者は下手しもて、強者は上手かみてに置く」というものがあります。映画やアニメ、演劇等に熱心な方や、創作に関わっている方たちにとっては、当たり前以前の大前提でしょうが、本稿はとりあえずこのあたりから始めてみることにします。

参考:富野由悠季『映像の原則(改訂版)』より

 前項までに記した映像における左右の一般的印象は、我々の心臓が左側にあることから決まっているのです。これがこのテキストでの最大重要用件です。〔中略〕

 これを演劇的に応用すると“当たり前に来るもの”“舞い降りるもの”“大きなもの”という意味性を持たせるためには“上手から登場させればいい”ということになります。

 そのぎゃくが下手で、“弱者”“虐げられている者”ば下手におきます。

 が、上昇指向があるものを表現しようとすれば、下手から上手に移動させるだけで、最低限度の意味を視覚的に表現できるわけです。

 上手から下手に移動するものは、それだけで“流れくだるもの”“大きなものがおりてくる”と感じられますから、右から左に移動するものは時間的にも短く感じられます。

 

「これに賭けてみようと思う」。冒頭、アバンの最後のカットで、ローラはそう力強く宣言し、『アイカツスターズ』86話はその幕を開けることになりますが、“挑戦者”たる彼女はやはり上手向き。下手の窓からフレアがかかっていて、表情自体も非常に力強い。対して、ランニングのシーンの彼女の動きは〈上手→下手〉。エルザ・フォルテの参戦を知り、“挑戦者”としての姿勢が揺らいでいることの表現でしょう。

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 その後ローラは、マラソンランナーの前川綾乃に出会うことになります。「私も負けず嫌いだからね。負けなくないの、弱い自分に」と語る彼女はやはり上手向きで、そんな彼女に背中を押され、ローラは“挑戦者”としての姿勢を取り戻す。そしてお馴染みのキメ台詞を、いつもより一層力強くいい放つ。一気にピントを合わせ、上手に向かって、逆境を押し返すように、「ここからは、私の時間!」と。演出、作画、演技、その全てが最高の水準で重なり合い作用し合うこの何物にも変え難い瞬間は、まさにアニメーションの醍醐味と言えるものでしょう。

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 対して、“王者”たるエルザ・フォルテは、一貫して上手側から舞い降ります。

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 フレーミングと並んで印象的なのが、被写界深度のつけ方とライティング、つまり撮影処理ですね。アバンも画面に強く光が入っていましたし、Aパートのエルザの参戦を告げられるシーンも(グレーディングというのでしょうか)少し色合いが違います。そして背景が思い切りぼけている。ランニングのシーンにも夕日が強く差しています。 

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 転じて、後半にいくに連れ、フィルターがかかったようなライティングは少なくなっていく。舞台が屋外から楽屋に移動するわけですから、当たり前といえば当たり前なのですが、ここに桜庭ローラの迷い、恐怖——そういうものが晴れていく様子が視覚印象として描かれていると、そう読んでみたくなります。この徹底した構成美たるや、やはり力強い。先ほど、「演出、作画、演技、その全てが最高の水準で重なり合う瞬間こそアニメーションの醍醐味だ」といったような話をしましたが、ローラが涙を流すあのシーンももちろんそういう“瞬間”に属するもので、宮谷里沙さんの描いた(*)最高の芝居は、もちろんそれ自体無条件に素晴らしいものなのですが、考え抜かれた演出設計の上でこそより強く響き、より強く記憶に残るのでしょう。 

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 構成という点で一つ付け加えておくと、きららとアリアが鉢巻を巻いて「押忍!」と言う一見ただのギャグにしか見えない微笑ましいシーンがありますが、ああいうなんでもないような細部もこのフィルムの力強さを支えているのかもしれません。

 さて、桜庭ローラの物語と並んで描かれているのが、ゆめとローラの関係性、すなわち「ゆめロラ」ですね。ゆめはローラに対して、せいぜい「ローラは弱くなんかないよ」と一言「事実」を述べた程度で、多くは干渉しない。この信頼関係もやはり力強い・・・

ローラのことだから、きっと今の自分にとって一番いい答えを出すはず。私は、それを全力で応援したい。


ローラなら絶対にそう言うと思ってた。

 ローラがエルザ・フォルテに徹底的な敗北を喫した後、ゆめは楽屋のドアをノックできず、沈んだ表情を見せますが、ローラと顔を合わせ、「負けちゃった」の一言を聞いてからは、ただ優しく微笑みかける。そして、ゆめのセリフは「うん」だけ。『スターズ』86話の素晴らしさの一つは、この非言語性に貫かれた力強い信頼関係にあります。

 これはもちろん「ゆめロラ」に留まらず、ローラと前川綾乃の関係性にも同じことが言えます。インタビューで「アイドルの桜庭ローラちゃんが大好きで、彼女の歌にいつも励まされています」と語っている通り、綾乃はローラのファンであり、また彼女自身ローラと似た境遇に置かれているわけですから、彼女はローラの抱えているものの大きさを誰よりも——もしかすると虹野ゆめ以上に——わかっていたのでしょう。でも、だからこそ・・・・・、多くは語らない。そこに限りないリスペクトがあるから。信じているから。この非言語性に貫かれた信頼関係は、やはりアニメですから、画で表現されることになります。

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 付けて、この話では「敵」の役を担っているエルザ・フォルテにも同じことが言える。だってあんなすごいステージを見せられてしまったら、もう認めるしかないわけです。エルザの自信と矜持の裏にある途方もない量の努力と、太陽のドレスへの執念深さ、野心。それを物語として明示するのではなく、上手から舞い降り、圧倒的なステージを見せるだけで表現してしまう。言い訳がましくないこの在り方も、やはり力強い。

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 というところで、再び構成の話に戻ることになるのですが、泣きの芝居と合わせて非常に印象深かったのがこのセリフです。

ねえ、信じた道を進もう!

 このカットは今後バンクとして繰り返し使われることになるのでしょうから、初披露のインパクトを残せるのは今回だけです。それをこの構成の中に——あの「ここからは、私の時間!」の後に持ってくる。これは凄まじい。

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 確かな構成と力強い作画に支えられたこのフィルムにおいて、このセリフは強いアクセントを与えられます。そして、(星のツバサセット時のセリフなので当たり前ですが)このセリフを彼女は正面切って、“こちら側”に語りかけるように言う。このすさまじいエネルギーは、きっと画面という制約を超えて、「感覚」にまでなるのでしょう。

 それそのものに莫大なエネルギーが孕まれた作品は、時にその受け手の生き方に、予想もつかないような変化を引き起こすものです。『アイカツスターズ!』86話には、そういう類の「力強さ」が確かにありました。

 はじめに富野監督の著作からの引用をしましたが、氏は同じ本の中で、「観客に迎合することは、観客を舐めていることではないか」という話をされています。

映画界で子供向けの作品をつくる大人たちは、あきらかに子供の観客をバカにした姿勢があって、それがぼくには嫌悪感になっていました。

 

 それがぼくにとっては、“観客に迎合することは、観客を舐めていることではないか”と警戒することにつながって、映画的な特異な性格を利用することに腐心するようになったのです。

 すなわち、子供にとって難しいテーマでも、映画はともかく目先の画像が変わることで、見せることができる性能があるために、“子供にもなんとか見切ることができる”というものです。

 その内容については、成長してから理解できるようになったりするわけですから、映画というものは素敵なものなのです。

 大人の私が女児向けアニメに熱中してしまう理由も恐らくここにあって、『アイカツ』も『アイカツスターズ』も——あるいは『ガンダム』や『エウレカセブン』あたりもそうでしょう——子どもが観るものだからこそ、逃げずに大切なことを描いている。そういう作品と、それを創っているクリエイターの方々への敬意は、忘れないようにしたいものです。脚本は待田堂子さん、絵コンテ・演出は安藤尚也さん、作画監督は橋口隼人さんでした。

 

 

 


ツイッター時間経ったら流れていってしまうのなんだかもったいないので、勝手ながら貼らせていただきます。