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アニメの感想など

「内面」と「背景」:『恋は雨上がりのように』第3話、第4話

 アニメ『恋は雨上がりのように』の魅力は、約言すれば、「現実の中にあって現実から浮く感じ」の一言に尽きるように思います。思えばこれは、1話の時から感じていた感覚でした。恐ろしいほど細やかな全身芝居と、ガーデン店内のパキッとしたレイアウト、あきらの淡々とした語り口。でも、「恋」を描くシーンになると、多彩な撮影エフェクトが画面いっぱいに広がり、作中の空間が曖昧になっていく。それはまさしく「雨上がりのよう」で、恋とはそういうものだったなと、なんとなしに納得させられてしまうような説得力があります。

 話が飛びますが、例えば第3話のAパートラスト、思わず「天才か」と声に出してしまったシーンなんですが、あきらの告白のセリフと同時に、雨の音だけを消す。その中で、雨の中を歩くあきらの足音と、屋根から垂れる雨水の音を残す。そして、煙草の灰が落ちる音と同時に、雨音もまた鳴りはじめる。この不意の飛躍は何とも素晴らしく、そこにはやはり「現実の中にあって現実から浮く感じ」があるように思われます。

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© 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会

 

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© 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会

 3話は、最後のシークエンスも非常に印象的でした。葉っぱで幕を作って開けるという、「これは芝居ですよ」と明かしてしまうような演出にはじまり、五角形のエフェクトと心象風景が、現実の風景を侵食していく。でも現実は現実で、セミの抜け殻が45歳の店長を現実に引き戻す。でもやっぱり「恋」は現実を埋めていく——あきらの周りにはエフェクトが表れる。舞台に立っていることを自覚しているかのように、店長はフレームの端に立つ。双方にとってあらゆる意味で現実味のないこの状況を、2人の主観に寄り添う形で「空間」として創作してしまう。この絶えず両極に振れ続ける「恋」のリアリティはどこまでも凄まじく、画面という制約さえも超えて、「こちら側」の現実をも浸しているように感じられます。*1

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© 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会

 

 また話数が飛びますが、安藤良さんが演出を担当した4話では、ある程度明示的に線を引き、一歩を踏み込めない2人の心情を視覚的に描き出していました。と、ここが見方によっては非常に面白いところなのですが、ここでは厳密にいえば「背景」は存在しないということになります。つまり、ふとすると「背景」に見える線は実は彼女たちの「内面」なわけで、一見それとわからない形で「内面」が「背景」に侵食しているわけです。

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© 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会

 そして、その線引きが生きてくるのがこのシーン。

あきらの「若さと純粋さ」に当てられ、「しきりに胸が締め付けられる」。「甘くて苦い青春は終わって、苦しみだけが残ったんだ」。味覚に訴えかける演出は莫大な威力を秘めていて、カフェのシーンで視聴者が感じた「甘くて苦いコーヒー」の味のイメージも、ここで同時に消えていく。コーヒー色の波紋が広がり、舞台は駅へと移動する。そしてすかさずモブを入れる。

 ここがまた素晴らしいところで、「内面」たる線引きを保ちつつ、一気に「内面」とは関係のないモブ(=背景としての背景)で「背景」を埋めていく。それによって、店長の「苦しみだけが残った」現実が、見事にフィルムに描き出される。と同時に、あきらの「内面」に振り切ったシークエンスと淡々と時を刻む「背景」との対比が、これ以上ないほど鮮明に浮かび上がってくる。「幸せ」でも「切なさ」でもない、「恋」それ自体を収めたフィルムとして、これほどの水準のものはなかなかお目にかかれないように思います。

 本当にどこまでも素晴らしくて、動画ごと引用してしまいました。是非円盤を買ってください。すいません。

 


恋は雨上がりのように 第3話 雨雫(あめしずく)

[脚本:赤尾でこ/絵コンテ・演出:河野亜矢子/作画監督:大杉尚広、加藤万由子/総作画監督:大杉尚広]

 

恋は雨上がりのように 第4話 漫ろ雨(そぞろあめ)

[脚本:木戸雄一郎/絵コンテ・演出:安藤良/作画監督:木下由衣、総作画監督:髙田晃]

 


*1:3話は「背景」である雨が影として「内面」に入ってくるような印象もありました