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アニメの感想など

再現と創作の境界を越えて:『恋は雨上がりのように』第7話

恋は雨上がりのように』第7話、店長の詩的なセリフが何より素晴らしく、近藤役の平田広明さんと、「監督の依頼をいただいて、すぐに思い浮かんだのが平田さんだった」*1 という渡辺歩監督には、ただただ敬服するばかりです。*2 というところで、あのセリフの前のシークエンスを中心に、今一度『恋雨』の画作りについて考えてみたいと思い立ちました。

 

 以前*に“絶えず両極に振れ続ける「恋」のリアリティ”という言い方をしましたが、その中で第7話は、「現実」を問題としない方向へと振り切ったような感がありました。中年・バツイチの生々しい生活感を映し出したカットも、「恋(と呼ぶにはあまりに軽薄なもの)」によって浸潤されていく。あの圧倒的なシークエンスを貫いていた図式は、そういう類のものであったと思うのです。

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 © 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会

 驚かされたのは、ハーモニーや水彩画調の止め絵、雨粒の影、パーティクル——これまで使われていたあらゆる撮影効果が総動員され、無類の鮮度を生み出していたこと。『恋雨』の画に見慣れてきた今だからこそ、描かれたものが洪水のようになだれ込んでくる。本当にとんでもない作品です。

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© 眉月じゅん小学館/アニメ「恋雨」製作委員会 

 特筆すべきは停電の後のシークエンスでしょう。フェードアウトしていた外の環境音を一瞬だけ入れ、すぐに劇伴のみの音響に戻る。雷が落ちても音は鳴らず、カーテンの奥の雷光を受けて、あきらのシルエットが浮かび上がる。ここにおいて「環境の再現」と「演出的創作」の境目は蒸発し、雨粒の影もパーティクルも、玄関に立てられた2本の傘も、全てがモンタージュに飲み込まれていくことになります。この「現実」でも「幻想」でもない圧倒的なリアリティを「恋」と呼ぶのは、あまりにも軽薄というものでしょう。

 このフィルムに現れていたものは、近藤が過去に置いてきた「若さ」であり、あきらの胸からどうしよもなく溢れ出てくる「恋心」でもあるわけですが、そんな「乱暴で凶暴」なものに対して、近藤は「その時に感じた感情というのは、いずれかけがえのない財産になる」と言います。これは、私たち視聴者にも言えることではないでしょうか。「作品」と呼ばれるあらゆるものを通して一瞬だけ垣間見れる、追体験の叶わない刹那的な美しさ。もちろん、観返せば観返しただけ、読み返したら読み返しただけ、新たな出会いがあるわけですが、それも全て再現性のない、いま・ここにしか生起しえない感情です。もちろん言葉に留めておけるものでもありません。でも、その一つ一つがきっと「いずれかけがえのない財産になる」。『恋雨』を観ていると、不思議とそう思えてくるのです。

 


恋は雨上がりのように 第7話 迅雨(じんう)

[脚本:赤尾でこ/絵コンテ:二村秀樹/演出:丸山由太、河野亜矢子、赤松康裕/作画監督門脇聡、西原恵利香、奥田明世/総作画監督門脇聡]

 


*1:ニュータイプ』2018年2月号

*2:あのセリフ原作にはないそうなんですが、赤尾でこさんが書いてるんでしょうか。声に出して映像に乗せるということを前提に言葉を並べてるような感じがします。