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アニメの感想など

『リズと青い鳥』公開記念舞台挨拶 スタッフトーク 諸々感想・雑考

 朝食にフレンチトーストを食べるというだけのことで、際限なく話が続いてしまう。なんとなく手を背中に回してみたり、足の位置を組み変えてみたり、爪先を少しだけ曲げてみたりする。『リズと青い鳥』に描かれていたのは、そういう青春模様だったのだと思います。少しくうろ覚えではありますが、舞台挨拶で山田尚子監督が「“撮るよ”と言ったらきっと希美たちは隠れてしまう」というようなことをおっしゃっていました(一体この人にはどう世界が見えているんだ)。意図や解釈が介入してしまったら絶対に捉えられない瞬間を、90分のフィルムにギュッと閉じ込めている。その意味で、『リズと青い鳥』は本当に奇跡的な作品だと思います。

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©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 そうして見守るような距離感で淡々と紡がれている本作ですが、全体的に被写界深度は浅く、一人一人の心情にもしっかり寄り添っています。この主観と客観のバランスがまたどこまでも緻密で、入り込み過ぎず、出過ぎない。こうしたフィルムの作り自体もまた、定量的な解釈の一切を拒んでいるようにみえます。

 舞台挨拶では、監督自ら作詞をされたエンドクレジット曲『girls,dance,staircase』についても少し触れられていました。確か「名前を付けられない感情を描きたかったので、区別の付かないボーイソプラノにした」というような話だったと思います。

 まだ性が未分化で、何者でもないし、何者にでもなれる。少し触れるだけで大きく揺れ動き、ともすれば壊れてしまう。そして時間が経てば失われてしまう。ここには『リズと青い鳥』で描かれていたものが、驚くほど明瞭に要約されています。

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©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

 何より驚かされたのは、「最後の“ハッピーアイスクリーム”だけ唯一2人の足音が揃う。これは狙ってやったのではなく、全くの偶然」という話です。

 こういう偶然は、実は身の回りに溢れているのかもしれません。でも、意図してフィルムに収められるものではない。「撮るよ」と言ってしまったら、絶対に捉えられない。そんな瞬間が「創作」ではなく「偶然」としてこのフィルムに介入したことは、ちょっと怖くなってしまうぐらい奇跡的です。*1

 未分化でどっち付かずで、意図も解釈も何もなく、記録に残すことのできない世界。そこで響く足音はきっと、熱の入った合奏と等しく「音楽」になり得るのでしょう。少女が階段を登り、靴音が響き、窓からやわらかい光が射し、スカートがそっと翻る。そんな一瞬の奇跡と名前のない感情を捉えたフィルムとして、『リズと青い鳥』は世界で唯一のものかもしれないと、そう思えてきます。

 


5/11追記

山田尚子×牛尾憲輔 スタッフトーク付上映会に行ってきたのでちょっとだけ追記。細かいレポートはナタリーMANTAN WEBに上がってるので割愛します。

まず何より希美とみぞれの間を人が横切るカット。音響はもちろんのこと、唐突に突き放すようなポン引きといい、希美とみぞれの間に他の人が介入するという象徴性といい、1カットにすごい力がある。あの浮いた感じは多分劇場でしか体験できない。作劇としても大きなところなので、かなりこだわってるのだと思います(監督の推し方からもこだわりの強さが伺える)

あと、記憶違いだったら申し訳ないんですが、図書室で本を返却するシーン。「カメラがみぞれの足元を写していて、下手[シモテ]から希美の足がフレームインする」という描写が2回ほどあったと思うのですが、1回目はみぞれの視線移動に近い感じで左にカメラを振る。対して2回目は希美に押し出されるように右にカメラを振る。ここに希美の望むハッピーエンド(「また会いにくればいいと思うんだよね」)が表れてるような気がしました。
希美はリズだけど青い鳥でもあるし、結局はそのどちらでもないといいますか、『リズと青い鳥』は希美とみぞれの話であって、リズと青い鳥の話ではないといいますか——何にせよこの映画は固定された「意味」や「解釈」のようなものを徹底して拒んでいる、と思います。

結末を知った状態で再見すると希美の仕草や視線の一つ一つが刺さってくるようで、なんだか上手く言葉になりません。

 


*1:実写とアニメーションの違いを一概に定義することは難しいと思いますが、アニメーションには基本的に偶然が介入しない、ということは言えると思います。実写は1秒間に24枚なら24枚、自動的に(均等に)シャッターが切られますが、アニメーションは何秒で(何コマで)一歩歩くとか、何mm被写体を動かすとか、そういうレベルで意図が介在しますノーマン・マクラレン『隣人』はアニメーションです)。だからこそアニメーションは作為的でない描写ができると言うこともできますが、それは裏を返せば作為的に見えないように意図して創作しているということです。